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数年前まで、「日本は平和主義だから戦争に巻き込まれることはない」と信じていた人が多くいた。もちろん、それは単なる日本人の願望であり、現実ではない。
平和主義では侵略されると多くの日本人が思うようになったのは2010年の尖閣諸島沖漁船の問題からだ。
2011年には東日本大震災と福島第一原発の爆発という未曾有の災害が起きた。
ここでクズのような民主党政権の失政が続いて国力が低下するようになると、いよいよ2012年に入って中国と韓国が本格的に領土を盗りに来るようになった。
2012年9月には中国で反日デモが起きて日本企業の工場や家屋はめちゃくちゃに破壊され、略奪されて実害が出るようになった。
さらに2013年1月にはアルジェリアで10人ほどの日本人がテロの標的となって殺されていった。憲法第九条の平和憲法は、日本も、日本人も守ってくれないことが明らかになりつつある。
**** 人間社会とは騒乱で成り立っている
誰でも平和主義でありたい。誰でも人に優しくありたい。そして、争いごとや揉め事もなく暮らしたい。
それは理想であり、素晴らしいことでもある。しかし、歳を取れば取るほど人は平和主義が単なる空想であることを人は知る。
そもそも、どんな家庭でも、どんな夫婦でも、意見の違いもあれば、感情の行き違いもある。誰でも相手が自分の言う通りに動かない。
親の言うことを素直に聞く子供などひとりもいない。夫は妻に、妻は夫に、子供は親に逆らい、反対し、怒ったり、怒鳴ったりする。
一度も風波の立たない家庭などあり得ない。あるとすれば、平和主義者の脳内だけなのだ。
家庭でさえ、とても平和的であるとは言えないのに、これが集団、社会、国家と大きな単位になって平和が保たれると思うほうがどうかしている。
企業経営者はマネージメントとは激しい利害対立やトラブルの折衝であると知っている。弁護士は人間社会が対立でまみれているからこそ成り立つ職業だ。
警察は暴力に対峙して給料をもらっており、刑務所は暴力的な犯罪者でいっぱいだ。
そして、中国や韓国はあからさまに日本を憎んでおり、激しい反日教育を行い、海外のあちこちで日本を貶めるプロパガンダや宣伝を発している。
人間社会とは騒乱で成り立っていると考えたほうが早い。騒乱が高じると暴力沙汰になる。この暴力沙汰が大規模になったのが、テロや戦争だ。
**** 狂犬のような男がうようよしている
暴力が反対なのは当たり前だ。しかし、人は意見が違い、利害が対立し、それぞれの国は周辺国と衝突する。
民族のプライドや、国家の威信や、国益のために譲れないものがたくさんある。
こういったものが傷つけられたり、侮辱されたり、騙されたり、襲われたりすると、隠し持っていた暴力性が突如として現れる。
私たちは侮辱されれば、感情を害する。誰でもそうだ。ときどき、あなた自身も怒りを感じ、暴力性が目覚めそうになることもあるはずだ。人間なのだから当然だ。
暴力を否定するのは当たり前だ。しかし、心の中で暴力的な感情が芽生える瞬間が、今までまったくないまま生きてきたと断言できる人はいない。
それが現実なのだ。
世の中には平和主義者がいるのと同様に、単純に暴力を振るったり、誇示したりする人間たちもいる。
粗暴で、乱暴で、喧嘩腰で、反抗的で、危険で、荒々しく、気性が激しい人間がいる。
血の気が多く、恫喝的で、信じがたいまでに短気で、すぐにカッと来て手が出る暴力的な人間・組織・国家があるのだ。しかも、私たちが考えている以上に多い。
チンピラ、マフィア、ヤクザ、テロリスト、ならず者国家。
彼らの暴力には理屈はない。思想もない。ただ、「暴力としての本能」がそこにあるだけなのだ。
平和主義者もいるが、そうでない人間も莫大にいることをまず認識すれば、「世の中が平和である」という前提で物を考えるのが、いかに危険なのかが分かる。
日本はグローバル社会に組み込まれており、そのグローバル社会の中には暴力が蔓延していることは中国・韓国の態度やアルジェリアでの事件を見ても分かるはずだ。
日本が平和主義であっても、憲法第九条があってもなくても、周辺国には関係ない。暴力は常にそこにある。
**** 暴力もまた人間社会に付きものの「自然現象」
映画やドラマや小説や漫画やゲームなどのコンテンツは、暴力を扱えば売り上げが上がるのだという。
だから、映画でもアクション物という名の暴力物や、ホラーという名の暴力物や、警察物という名の暴力物や、戦争物という名の暴力物や、SF物という暴力物や、ヒーロー物という暴力物で溢れている。
正義の見方が悪漢を銃で撃ち殺す暴力的な物語が繰り返し反芻されるのは、人は「どうしようもない人間が暴力的に抹殺されるのが嬉しい」からだ。
ゲームでシューティング物があるのは、自らの感情の中の暴力性を刺激されるからだ。
ボクシングやプロレスや格闘技は、コントロールされているとは言えども暴力そのものだ。
そして、ほとんどのスポーツは実は暴力の発散を暗示している。つまり、平和主義者が「争いのない世界」を願う以上に、人間は暴力を実は求めているのではないか。
そういった世の中の実態をひとつひとつていねいに、きちんと見ていけば、なるほど、人間の社会というのは、誰が何を言っても「暴力が存在する」のだというのが実感として分かるようになる。
それならば、可能性としてこう思わないだろうか?
「世の中が暴力で満ち溢れており、自分にも危害が飛んでくるかもしれない」
誰でも自分に暴力が向かってこないことは願う。しかし、現実がそうではないのであれば、逆に「いつでも暴力は自分に向かってくる」というふうに考えたほうが自然ではないだろうか。
**** 暴力は存在するのである。
これは自然現象として、地震や津波や洪水や豪雨や豪雪が存在するのと同じだ。
毎日、地震が来るわけではない。毎日、豪雨が来るわけではない。しかし、毎日来ないから存在しないわけではない。自然現象として、存在している。また、いつか遭遇する。
暴力もまた人間社会に付きものの「自然現象」であり、それは毎日訪れるものではないが、だからと言って存在しないわけではない。社会現象として、存在している。だから、いつか遭遇する。
私たち自身が暴力に遭遇することもあれば、私たちの国が暴力に遭遇することもある。
では、どうすればいいのだろうか。
それでも、暴力は存在している
東京電力のように「巨大津波は来ない」「巨大地震は来ない」と現実を無視して、原発を爆発させてから呆然とするのは頭の良い対応だろうか?
「そんな暴力は来ない」「戦争になることはない」と言って、平和主義でいるのは、頭の良い対応だろうか?
現実逃避してもしかたがない。別に私たちが暴力的になる必要はないが、平和主義は捨てたほうが裏切られなくて済む。
私たちが目指すべきなのは、「現実主義」の道だ。平和を願って平和になるくらいなら世の中は今ごろ平和だ。
屁理屈をこねて平和になるくらいなら、世の中は今ごろ天国になっている。誰もが平和を願っているが、世の中は暴力に満ち溢れている。残念ながら、これが現状だ。
日本人だけが、やたらと平和主義に染まっている現状には非常な危機感を覚えないだろうか。
子供の頃から、私たちは「平和、平和、平和」と繰り返し言われ続けて、暴力を完全否定するように教育されてきた。
だから、いきなり「暴力の存在も肯定」と言っても、アレルギー的な拒絶反応が起きるのは分かっている。しかし、現実はこうだ。
「それでも、暴力は存在している」
そろそろ、私たち日本人は暴力の存在を認め、日本と敵対する国家があることを認め、組織的暴力の犠牲になることを理解しなければならない時代になった。
この世には暴力が満ち溢れている。だから、平和主義者であるよりも、現実主義者であるべきだ。そうでないと、私たちは助からない。
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