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今、思春期の後半と言われている20代後半〜35歳ぐらいの年齢には、思春期という言葉と表裏一体だったはずの、モラトリアム*1という言葉があまり似合わない、と思う。それぐらいの年齢になっても進路や生き筋を自由選択できる幸運とタフネスを持った人もいないことはないが、あくまで幸運だったりタフだったりする比較的少数の人達である。大半の人達においては、三十路を迎えた頃というのは、色々な事がかなりのところまで決まっている or 決まりつつある最終段階に相当する。決まりつつある、という意味ではぎりぎりモラトリアムとも言えなくもないが、夏休みに喩えるなら、八月三十日や八月三十一日を夏休みと呼ぶのと同じようなものではある。
実際には、三十路を迎えた大半の人は、自分の人生のかなりの部分を既に選んでしまっている。まだ会社は変えられるし、恋愛経験のある人なら結婚相手を選べる可能性もある。しかし、恋愛経験なり職業選択なりの根源的なレベルでは、これまでに積み重ねたノウハウによって選択幅がある程度決まってしまっているし、趣味領域でも「自分の思い入れ」や「好み」がどんどん保守化していく。
多くの人が軽視しがちだが、思春期モラトリアムとは、結婚や職業だけに関する猶予期間ではない。趣味やライフスタイルの猶予期間でもある。もし、映画やゲームや流行歌といったものが、自分が十代〜二十代の頃に体験したものこそがベストと感じられるようになり、新しいものを受け付けなくなってしまったら、その人のモラトリアムは、その趣味領域では終わったということである。そして実際には、よほど意識的に新しいものを追い掛けない限り、こうした趣味領域の時計の針はたやすく止まってしまう。結婚や職業とは異なり、趣味領域のモラトリアムには区切りに相当するようなイベントが無いので、当人自身も気付かぬうちに猶予期間が終わって趣味が固定化し、「おじさん」「おばさん」になってしまっていることが珍しくない。服装の趣味や好み、価値観といった次元でも、三十代に入る頃にはあらかたスタイルができてしまっている人が大半だ。
そうやってモラトリアムと呼べる余地がどんどん減っていく*2けれども壮年期的な状況に到達しきれないままの三十代が存在しているのも事実ではある。現実としてはほぼモラトリアムではないけれどもモラトリアムであり続けたいと願望する人達や、自分のアイデンティティを模索するための延長戦を望んでいるけれども足下からどんどん決まっちゃっている人達――こうした人達においては、第三者的な現実と、当人自身の願望との間にはギャップがあり、思春期と呼ぶのが適当なのか、それとも思春期と呼ばないほうが良いのか判然としない。さしあたり、そうした人達を一行で指し示すとするなら、
「思春期が終わったけれども壮年期が始まらない人達」
あるいは
「猶予期間を叩き出されたけれども思春期の延長戦を望む人達」
あたりが事実に即しているのではないか、と思う。
こうした人達においては、思春期モラトリアムというニュアンスも、壮年期的なニュアンスもしっくり来ない。そのあたりのしっくり来なさ加減を表現するとしたら、今のところ、上記のようなフレーズしかないと思う。こうした人達を、狭義の思春期モラトリアムと一緒くたに分類するのは色んな意味で適当ではないと思うので、[思春期以上、壮年期未満の一群]を指し示すなにか適当な造語でもあればいいのになとも思う。むやみに造語を求めるのは良いことではないけれども、もし「思春期が終わったけれども壮年期が始まらない人達」が一定のマスボリュームを呈していて、にも関わらず、そのようなマスボリュームを的確に言い表す既存表現が無いとしたら、巧い表現が現れてくれたほうが色々と整理されて便利だろう。
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