03. 2013年1月15日 01:35:20
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【第81回】 2013年1月15日 高城幸司 [株式会社セレブレイン 代表取締役社長] 地味な仕事は後輩へ、やるのは目立つ仕事だけ 出世欲まみれの「エース気取り社員」に騙されるな! 「“何を言ったか”よりも、“誰が言ったか”が重要である」 以前、ある企業の社長が筆者にこう話してくださったとき、とても納得させられた記憶があります。確かに同じ内容であっても、発言した人によって信用の度合いは大きく変わります。そのとき、信用を担保するのが、「肩書き」ではないでしょうか? ただし、肩書きを過剰に信用すると痛い目を見るのも事実です。また、その肩書きを得るために手段を選ばない態度に出れば、周囲から冷たい目で見られるかもしれません。 そこで今回は、社内でスムーズに仕事をするためには本当に肩書きが必要か、あるいは相手の肩書きを重視して仕事をした方がいいのかをみなさんと一緒に考えてみたいと思います。 みんな“肩書き”に騙された? iPS細胞詐称事件の森口尚史氏 2012年末、「今年を振り返る」といった話題で必ず登場したのはノーベル賞を受賞した京都大学・山中伸弥教授でした。ただ、おまけのように登場したのがこの偉業に水を注した森口尚史氏です。天下の大新聞も騙されてしまったことからも、いかに我々が肩書きに弱いかが分かります。振り返ってみると、取材をしていた記者などは、森口氏が『東京医科歯科大学医学部卒』という経歴を持ち、『東大病院特任研究員』を務めていたという肩書きに騙されてしまったのかもしれません。 実際、森口氏は東京医科歯科大学医学部を卒業していますが、保健衛生学科看護学の専攻で、医師免許はありません。医学部に看護学科が併設されていることを知らない人は、「医学部卒」とだけ聞けば医師だと思うかもしれません。 そうしたトリックをいいことに、世間には錯覚をさせるような言い方をする人もいるようです。要は肩書き(学歴・社名・役職)によって、信頼を大幅に上げてしまうのです。 結果として、「あの人は東大で働く“医者”だから、信用しても間違いない」という先入観が生まれ、「心の隙」ができてしまうのでしょう。 ちなみに、森口氏が医師でないとわかっていたら、どうだったでしょうか?年末に20代のビジネスパーソン数人に取材してみたところ、 「もし医者でないとわかっていたら、誰も注目しなかったでしょう」 と満場一致で答えてくれました。 転職、婚活は肩書きがないとダメ? 中途採用で“華麗な肩書き”に騙された企業も さて私たちは、一般の人が的を射た発言をしても誰も耳を貸さない一方で、肩書きがある人の発言はすべて納得してしまう傾向があります。確かに、相手が一流大学卒、大企業に勤務しているなど、立派な経歴や肩書きがあることを知ると、「この人とはお付き合いしておこう」と計算が働く人は少なくありません。 ちなみに肩書きは、仕事の場面だけでなく、婚活でも効果を発揮します(むしろ、こちらで効果的かもしれません)。例えば、合コンに参加するときに会社名や肩書きは気になるか?を都内に勤務する20代OLに取材してみました。すると、 「肩書きのない男の集団なら行く気にもなりません」 「男性は外見より“中身”。やはり肩書は気にします」 と厳しい答えが返ってきました。それだけ、人は見栄えを気にするのです。 ただ、肩書きというのは実に厄介なものです。できる仕事内容とのギャップが著しく大きい人が多いからです。悲しいかな、何回も経歴や肩書きに騙されたのに、繰り返し裏切られている人は少なくありません。その典型が中途採用で華麗な経歴と肩書きを見かけた場合です。 つい騙されてしまったのは、地方民放局のC社。大手他局のプロデューサを中途採用しました。ところが、これがまるで、まったく、全然、使えない。「外注さんがいないと何もできないのです」と言うのです。 聞けば、今までは外注のプロデューサがいて、それら業務をいっさいやってくれていたのだとか。自分が現場に出向くことなどはなく、外注さんと経費でご飯を食べて、「あとはよろしく」と言う、それだけが自分の作業。でも肩書きだけは立派な「プロデューサ」。そこにC社はまんまと引っかかってしまったというわけです。 肩書きから信じ込んだ期待を裏切られると、がっかり感は大きいものがあります。しかし、そんな怪しい肩書きも持つ身になれば重宝するもの。周囲は信用してくれますし、頼りにされるからです。 社長賞、部長に大抜擢… “ローカルな肩書き”は社内でも効果大 こうした対外的に活用できる肩書きだけでなく、職場で力を発揮する“ローカルな肩書き”もあります。 例えば、 ・社内で社長賞を受賞した ・抜擢されて部長になった ・社長直轄の役目を任された こうした肩書によって、社内での地位・名声は大きく変わります。広告代理店に勤務しているDさん(29歳)は、大きな契約を取ったことで、役員から特別表彰を受けました。すると、 『Dさんが特別表彰 おめでとうございます』 と金メダルでも受賞したかのような華々しいお知らせが社内のイントラネットにアップしました。そこには役員から表彰状を渡されるDさんが映っています。おそらく、社内の誰もがこの偉業を知り、顔も覚えることになりました。すると、翌日から周囲の扱いが変わりました。 「Dさんは役員から特別に表彰される“期待の星”なのですね」 こう後輩からは尊敬の目でみられるようになり、上司も厳しいことを言わなくなりました。やはり、肩書きや名誉がものをいうのでしょう。 もちろん、こうした肩書きや名誉を得ることはいいことです。ただ、肩書きにつながる仕事しかやらない…と選り好みするのはどうでしょうか?そんな困った同僚が職場にいたら、あなたならどうしますか? 出世につながる目立つ仕事しかしない AKY(あえて空気読まない)若手社員 食品メーカーで商品企画をする部署にいるPさん(27歳)は、上昇志向が高い若手社員。 「将来は会社の看板商品をすべて仕切れるくらいになりたい」 とよく口にします。最近は草食系男子が増えて、仕事もそつなくこなすタイプが増えているので、周囲からすれば異質な存在です。さらにマーケティングの知識も豊富で勉強熱心。その意欲を称賛する同僚もたくさんいます。ただ、その一方で、 「あいつのように計算高い、上昇志向のある奴は鼻について嫌だ」 と批判する同僚も少なくありません。 しかもPさんはこの頃、特に批判を高める要因になる行動が目立ってきていました。それは仕事を選ぶ癖。例えば、「この商品の企画は俺がやったのだよ」と、周りに自慢できるようなプロジェクトはトコトンやるのにもかかわらず、社内の業務改善のようなあまり目立たない仕事にはまったく関心を示しません。ゆえに、Pさんを嫌う同僚にしてみると、 「表層的な目立つ仕事はやるけれど、それ以外は人に押しつける」 と、将来の出世につながりそうな仕事ばかりを選り好みしているようにしかみえていません。 そうしたなか、その嫌われ度合いを加速させる事件が起きました。本社の企画部門全体で取り組む人材育成のためのプログラム開発のプロジェクトにPさんは2年続けて任命されたのですが、 「自分はこの仕事を十分やらせてもらいました。ですから、これからはこの仕事を後輩にさせてやってもらえませんか?」 と巧みに逃げてしまったのです。本来は商品企画の専門家として若手の育成にもっと関わってほしいと人事部が指名したのですが、 「この仕事を2年続けても自分にとって得られるものがない」 とPさんは決めつけて、後輩に丸投げしたのです。 一方で、代わりに社長直轄の新規事業を立ち上げる仕事に自分を売り込みました。そして、まんまとその役割を担うことになり、本人はご満悦の状態。 確かに、Pさんは早耳なうえに行動力があり、それなりの成果を仕事で出す力もあるため、社内が注目する仕事が集まるようになりつつあります。しかし、周囲の目にも明らかに仕事を選んで動いていて、やる気のない仕事は手を抜くため、仕事の現場では次のようなクレームが出始めました。 「おいしいところばかりに関わって、大事なところで逃げるよな」 「手間がかかる仕事は後輩に丸投げじゃないか」 「自己顕示欲のために仕事してるだけ」 これは大変にまずい状況です。ところが、この周囲の批判を知ってもPさんは気にしません。「そんな、誰でもできる仕事は別の人にやらせてばいい」と堂々、言い切ります。まさにAKY(あえて空気読まない)な状態。ある意味で開き直っているとも言えます。 すると、この発言が社内で広まってしまったようで、「今度、アイツを呼び出してガツンと言ってやりますよ」と社内でご意見番と呼ばれるHさん(43歳)が動き出しそうな気配になる始末。このまま放置すれば、遅かれ早かれ社内で衝突が起きるようになります。ついには上司が登場して、大事に至る前に手を打つ必要が出てきました。 上司の指摘で地味な仕事にも真剣に 自然と「あいつに任せてみよう」の声が 上司はこうした部下の状況を見たら、きちんと指導をしなければなりません。上司であるZさん(35歳)はPさんを呼び出して、次のように語りかけました。 「社内の看板商品をすべて仕切りたいのであれば、周囲からの支持を得られる存在にならないと無理だよ。私は君に、周りの人間から『あの人のためなら……』と思われる人になってほしいと願っている。そのためにも、与えられた仕事を1つひとつ丁寧にこなしていくことが大切だし、それもまた野望を実現する大事な条件なのだよ」 すると、Pさんには打てば響くような行動をとるようになりました。翌日から、現場の地味な仕事に対しても取り組みが明らかに丁寧になったのです。しばらくすると不思議なことに、大きなプロジェクトが立ち上がると、職場は自然と「あいつに任せてみよう」というムードになりました。 タレントの西川きよしさんが口グセのように言っている、「小さなことからコツコツと」ではありませんが、ビジネスの現場では目立たない仕事も丁寧にこなしていくことが大事です。それにより、その人の期待値は高まり、自然と立派な肩書きも与えられるものなのです。 最後にここでひとつ注意を。上司は部下の出世につながる様な派手な仕事だけでなく、地味な仕事ぶりもきちんと評価するべきです。そうでなければ、部下は目立つ仕事ばかりをやりたがります。どんな仕事も丁寧にする――。この大切さを繰り返し伝えていくべきでしょう。 ◎編集部からのお知らせ 本連載の高城幸司氏が共同執筆をした最新刊『新しい管理職のルール』が好評発売中!
時代が変ればマネジメントの手法も変わります。会社組織や会社に関するルールが変わり、若者 の組織に対する意識も変わっていますから、マネジメントも変わらなくてはならない。では、どのように?「戦略」「業務管理」「部下育成」「コンプライアン ス」をどうマネジメントに取り入れるのか。新しいマネジメントのルールを教える1冊です。 【第108回】 2013年1月15日 小川 たまか [編集・ライター/プレスラボ取締役] 「日本の未来は暗い」77% 新成人が考えるこれからの日本の姿 新成人に関する調査」では、新成人たちが考える“日本の未来の姿”が明らかになった。 昨日は成人の日だった。これから社会に出ていく新成人たちは、どのようなことを考えてこの日を迎えたのだろうか。インターネット調査会社のマクロミルが行った、今年成人式を迎えた全国の新成人を対象にした「2013年 調査期間は2012年12月20日〜21日。調査方法はインターネットリサーチ。有効回答数は500人(男性250人、女性250人)。 「生まれたときから右肩下がり」 見えない未来に若者は… まず調査では、「日本の未来」についてどう考えているかを尋ねている。「明るいと思う」と答えた人は全体のわずか2%で、「どちらかといえば明るいと思う」(20.6%)を合わせても全体の5分の1。64.0%が「どちらかといえば、暗いと思う」と答え、「暗いと思う」と言い切る新成人も13.4%いた。とはいえ、2012年の調査より、「明るいと思う+どちらかといえば明るいと思う」と答えた人は2ポイントとわずかながら上昇したという。 理由についてフリー回答に寄せられたコメントは次の通り。 ■「明るい」と思う理由 「政権が交代してから日経平均が1万円台になったり、円安ドル高になったりしてきたから」(男性) 「これ以上暗くなることはないと思うし、これからまた発展していくと信じているから」(男性) 「日本の政治はまだまだ改善しなければならないところが多くて必ずしも未来は明るいとは言い切れないが、それに対してちゃんと自分の意見を持った若者もいるので暗くはならないと思うから」(女性) 「政治や景気は不安だが、一人一人が意識すれば変えていける点がたくさんあると思うから」(女性) 新政権に対する期待に加え、「自分たちの意識次第で良くなるはず」「将来を信じたい」という内容の回答も見られた。 ■「暗い」と思う理由 「不景気も終わりそうもなく、人々の物事に対するモラルなども変わっていってしまっている」(男性) 「日本は輸出で成り立っているのに円高で輸出が成り立たなくなっているから」(男性) 「国債をとても多く抱えているし、少子高齢化も歯止めがかからず、年金問題も解決する兆しがないため、経済のバランスがとれなく、対外関係も悪化すると考えられるから」(男性) 「若い世代を育てる気のない社会、政治、就職難、少子化であるのに子育て支援が充実していない、常識のない社会人が多すぎるように感じる、など。日本の未来を担う若い世代が頼りないことと、それを育てようとしない上の世代はもっと頼りないこと」(女性) 「国政に関してやることが多すぎる。それなのに資金がない。さらに高齢化は進んでいるし、支出と借金ばかり増えていく。国のリーダーが誰になっても、日本は問題を抱えすぎているので、解決できない。解決する前にリーダーが変わってしまう」(女性) 「私が生まれてからの日本は右肩下がりし続けていると思っていて、それが延長されるだけだと思った」(女性) また調査のなかで、「自分たちの世代が“日本を変えていきたい”と思うか」を聞いたところ、「そう思う」「ややそう思う」と答えた人は合わせて64.8%だった。これは昨年と比べて約12ポイント減っている。日本の状況が決して良くないなか、「それでも将来を変えよう」という声が少ないのは、現在の大人たちにも問題があるのかもしれない。 日本の長所を理解しつつ、 変革を訴える新成人たち そして、「日本をどのように変えていきたいか」を聞いた質問には、次のようなコメントが集まった。 「これからの日本は、やはり世界全体から必要とされるような技術大国にならなければならないと思います。今は中国や韓国などの国に勢いで負けていると思うので、なおのことどうにかしなければならないと思います」(男性) 「これからの日本は皆で支え合っていく社会であるべきだと思います。貧富の差はあるにせよ、自分が追い詰められるほどの生活をしている人をなくしていきたいと思っています」(男性) 「日本はもっと国民全員が自分の意見をきちんと発表できるようにならなければいけないと思う。過度な完璧主義や何でも多数決で決めようとする風習を見直して、小中学校のころから個人プレゼンの練習をする場を多く設けるべきだと思う」(女性) 「積極性をもって行動する。日本人は責任感が強いと思う。そのため大切な決めごとになると責任が自分に行くのを恐れ、周りに託している気がしてしまう。一人ひとりが物事や周りを大切に思うべき。まずは私一人からそう思っていきたい」(女性) 日本の問題点だけではなく、長所を挙げつつ、変革を訴える回答が印象的だった。 このほか、希望する職種や交友関係についても調査している。今回取り上げたもの以外の調査内容などは 「2013年 新成人に関する調査」で見ることができる。 小川たまか) (プレスラボ http://diamond.jp/articles/print/30493
【第4回】 2013年1月15日 福原正大 [株式会社IGS代表取締役],河合江理子 [京都大学高等教育研究開発推進機構教授] 小学校から大学まで、人材教育を本格的に見直すべき 『なぜ、日本では本物のエリートが育たないのか?』刊行記念特別対談 【河合江理子×福原正大】(後編) 日本では優秀な”エリート”として評価されていても、海外でも同様の評価を得られる人は数少ない。日本人が知らない、世界が求める人材になる方法とは――?『なぜ、日本では本物のエリートが育たないのか?』著者の福原正大氏と、欧州の金融業界を中心にグローバルなキャリアを重ねてきた京都大学教授の河合江理子氏が、世界標準のエリートの条件について語ります。(取材・構成/田中美和) ファイナンス理論を教えない日本の銀行 福原?私は、INSEADで初めてファイナンス理論や現在価値という考え方を知りました。 河合江理子(かわい・えりこ) [京都大学高等教育研究開発推進機構教授] 筑波大学付属高校を卒業後、米ハーバード大学で学位、フランスの欧州経営大学院(INSEAD)ではMBA(経営学修士)を取得。マッキンゼーのパリオフィスでコンサルタント、ロンドンの投資銀行SG Warburgでファンド・マネジャー、フランスの証券リサーチ会社でアナリストとして勤務したのち、山一証券の合弁会社でポーランドの民営化事業に携わる。1998年より国際公務員としてスイスのBIS(国際決済銀行)、フランスのOECD(経済協力開発機構)で職員年金基金の運用を担当し、OECD在籍時にはIMF(国際通貨基金)のテクニカルアドバイザーとして中央銀行の外貨準備運用に対して助言を与えた。その後、独立して起業、2012年4月より公募採用で現職。 2013年夏頃、自身初となる著作をダイヤモンド社より出版予定。 河合?そうなんですか?福原さんは当時、東京銀行にお勤めだったんですよね?
福原?ええ。でも、日本の銀行は簡単な財務諸表の見方しか習いませんでした。理論よりも、まず“人を見ろ”と教えられるのです。ただ、どの社長も話すとすごい人のように見える(笑)。感情論に振り回され、理論に弱いのは、日本人全体に共通して言える特徴のように思います。 河合?せっかく欧米でMBAを取得しても、学んだ理論や枠組みを日本の組織内で生かしきれない人は多いですね。 福原?確かに、海外での学びを自らのキャリアに活用しきれていない事例は少なくありません。それから、“生え抜き”という言葉が好きな人事担当者が多いのも日本ならではでしょう(笑)。欧米に比べると人材の流動化が進みませんね。そもそも、人員カットに対する抵抗感が根強いですから。金融機関がいい例です。3つも、4つも合併しても、組織全体での人員はそれほど減りません。これでは、統合しても、効率性を高め、戦略的に海外と競争できるだけの力がつかない。 河合?海外の金融機関と比べると、日本の金融機関のサービスの質は見劣りしますね。銀行で窓口で長く待たされるのは驚かされました。 福原?昔ながらの日本企業の場合、稟議書を書いて上層部へ話を通すだけでも一苦労するでしょう。企業に限りませんよ。私は、IGSの経営の関係上、お役所や大手企業とのやり取りもあるのですが、紙資料の多さと手続きの時間の長さには辟易してしまいます…。 河合?日本企業がビジネスのスピードを上げ、世界市場で戦える競争力を身に付けるためには、まだまだ改革が必要ということですね。 もし負けたら、 別の分野で勝者になればいい 福原?既得権益をどう壊していくか…という視点が重要です。しかし、これがなかなか壊せない。既得権を人間関係の中で捉えてしまうから、一時的にでも相手に損失を与えるような決断が下せないのです。 河合?とはいえ国際的な競争にさらされる中で、グローバルに戦える力を十分に養ってきている日本企業もあります。業種や、個々の企業による差が大きいのでしょう。 福原?こうした議論をしていると、“競争にさらされる中で生まれる敗者はどうしたらいいのか?”という意見を言う人が必ずいます。でも、問題ありませんよ。ある一つの分野で負けたとしても、別の分野で勝者になればいい。生活や雇用のセーフティネットが整えられているのも、そのためなのですから。 河合?日本に帰ってきて改めて感じたのですが、“平等であること”に重きを置く人が非常に多いですよね。そうした風潮が日本に真のエリートを生み出しにくくしているようにも思います。例えば、国益のために死ぬほど働いている国家公務員の給与の低さも問題だと思います。 福原正大(ふくはら・まさひろ) [株式会社IGS代表取締役] 慶應義塾大学卒業後、1992年に東京銀行に入行。INSEADにてMBAを取得。「グランゼコールHEC」で国際金融の修士号を最優秀で取得。筑波大学博士号(経営学)取得。2000年、世界最大の資産運用会社バークレイズ・グローバル・インベスターズに転職。35歳にして最年少マネージングデイレクター、その後、日本法人取締役に就任し、アイビーリーグやインド工科大学などの卒業生とともに経営に関与。ウォートンやIMDなど世界のトップ大学院にて多くのエグゼクティブ研修を受ける。2010年、未来のグローバルリーダーを育成する小中高生向けのスクールIGS(Institution for a Global Society)を設立。2011年、日米リーダーシッププログラム日本側デリゲートに選出。 (写真撮影:宇佐見利明) 福原?外資系企業と比べると、日本企業は実績や能力によって、それほど給与に差がつきにくい仕組みになっています。
河合?しかし、そのような人事・評価システムでは、優秀な人材を海外の企業に持っていかれてしまうのも当然です。 福原?日本社会は短期的な平等を重視するあまり、ともすると、個人の自由を制限しすぎているように感じます。その結果、新たな発想やアクションが生まれにくくなり、市場のパイが小さくなっていることに気づくべきではないでしょうか。自由と平等??両者のバランスが非常に重要です。 河合?人間は一人一人違うユニークな存在なのだということを、もっと国民全体が理解するべきなのでしょうね。 福原?ハーバード大のハワード・ガードナー教授は、提唱するMI理論で言語的知能や論理・数学的知能、対人的知能、内省的知能など、8つの知能に言及しています。人はそれだけ多様な知能・知性を一人一人が持っているのです。そもそもが同一ではないのです。 “説得する力”は、 脱暗記の教育で克服せよ! 河合?もう一つ、私が常日頃から感じているのが、日本人の“説得する力”の弱さです。 福原?相手にNoと言われると、それだけでシュンとしてしまう人が多いですね。フランスではNonと言われてからが議論の始まりだと言うそうですが…。日本では賛成派と反対派が正面からぶつかりあうばかりで、どうしても議論が深まりにくい。 河合?エネルギー政策や、TPPをめぐる議論などはその典型例ですね。賛成派も反対派も主張はするのですが、その前提条件や主張の背景などはよく分からないまま。暗記中心の受験システムでは、答えの背景を論理的に思考し、説明するプロセスが鍛えられないのですね。 福原?そういう意味では、海外留学は非常にいい経験になると思いますよ。海外で思う存分、多様な物の見方に出合って、戻ってきてほしいですね。自分自身を客観的に見つめ直す、絶好の機会にもなります。 河合?個人が自由に意見を主張し、互いに認め合うカルチャーは、いい刺激になりますね。 福原?私はINSEADの政治学の授業で、“日本は平和国家を実現すると世界に宣言し、兵器を持たない国になるべきだ”とレポートに書いたところ、高得点を獲得したことがあります。先生は現実的な話ではないとしつつも、論理的に優れていると言って評価してくれたのです。 河合?素晴らしいですね。多様な価値観を互いに認め合うとは、そういうことです。 今こそ、人材育成を 本格的に見直すべき 河合?最近の学生の中には、企業で数年働いた後にNPO職員へと転身し、社会課題の解決に力を尽くすようなタイプのキャリアを選択する若者がいます。自らの力で、積極的にキャリアを切り拓く姿勢に心強さを感じます。 福原?パナソニックやシャープなど、日本メーカーの凋落ぶりを見れば、企業が社員の面倒を最後まで見ることは難しいことがよく分かります。日本は、人材育成を本格的に見直さざるをえない時期に来ています。89年に冷戦が終わり、そこから世界の有り方が急速に変化していったのです。日本はその変化の波にうまく乗ることができなかった。 河合?こうした状況を目の前にしてもまだ、“このままでいいのではないか”といった意見を主張する人が多いことに驚きます。グローバル化の波は、否応なく押し寄せてきています。その変化の波から逃れることなど誰もできないのです。その変化の中で、日本人のアイデンティティーを保つ事が大切だと思います。 福原?産業構造の変化に、人材教育が追いついていないのが、現状ですね。 河合?小学校から、中学校、高校、大学まですべての教育課程で、世界を見据えた上での進化が求められています。 福原?初等教育が悪いとか、高等教育の劣化のせいだなどと責任をなすりつけ合っている場合ではありません。今こそ、グローバルに通用するような思考力と対話力を持つ、真のエリート人材の育成に、真剣に取り組むべき時です。 ◆ダイヤモンド社書籍編集部からのお知らせ◆ 『なぜ、日本では本物のエリートが育たないのか?』 東大でも教えてくれない世界が求める3つの力 好評発売中!
日本では優秀なのに、海外で評価されないのはなぜか?それは、英語力やMBAのせいではありません。次の「3つの力」を知らないからです。「答えは1つじゃないと知ること」「確かな理論と枠組みを学ぶこと」「多様性を引き出すための対話力を身につけること」。これらを実践できれば、本物のエリートになれるのです! 福原正大 著 価格:¥ 1,575(税込)ISBN:978-4-478-02173-6 ご購入はこちらから! [Amazon.co.jp] [紀伊國屋BookWeb] [楽天ブックス] 『なぜ、日本では本物のエリートが育たないのか?』 ?著者・福原正夫氏?刊行記念セミナー 【セミナー概要】 日?時?:?2013年1月16日(水) ??????19時開演(18時30分開場)?20時30分終了予定?? 会?場?:?東京・原宿?ダイヤモンド社9階?セミナールーム?? 住?所?:?東京都渋谷区神宮前6-12-17 料?金?:?入場無料(事前登録制) 定?員?:?60名(先着順) 主?催?:?ダイヤモンド社 お問い合わせ先?:?ダイヤモンド社書籍編集局? TEL?:?03-5778-7294(担当:中島) e-mail:pbseminar@diamond.co.jp 詳細・お申込みは、こちらから http://diamond.jp/articles/print/30335 「高学歴プア予備軍」こそ、米ビジネススクールの博士号を目指せ 博士課程の学生受難の時代、海外の方が選択肢は多様 2013年1月15日(火) 入山 章栄 本連載では、昨年11月に『世界の経営学者はいま何を考えているのか』を刊行した筆者が、米国を中心とした海外の経営学の話題を紹介していきます。 ところで前回の終わりに、私は「次回からいよいよ研究の話をする」と書きました。ところが、その後で研究と関係ないネタを思いつきまして、今回はその話をしようと思います。予定を変えてすいません。 さて、その「ネタ」を思いついた理由は、以下の記事をみかけたからです。 http://tmaita77.blogspot.jp/2012/12/blog-post_22.html みなさんもご存じかもしれませんが、日本は今、博士課程の学生受難の時代です。特に文系の博士課程は、修了してもなかなか就業機会に恵まれません。このレポートによると、2012年春に日本の商学・経済学の大学院博士課程を修了した学生のうち正規の就職先が決まったのは4割ぐらいのようです。 最近は「高学歴ワーキングプア」という言葉もよく聞かれます。日本の博士課程がどうあるべきかを考える大事な時期といえるでしょう。 そこで今回は、「米国で経営学の博士号を取るとはどういうことなのか」を解説しながら、日本の博士課程教育への含意を、私見を交えて探ってみようと思います。学生さんや大学関係者だけでなく、これから国内外の大学院などで勉強することを考えられているビジネスパーソンへの示唆もあるかもしれません。 MBAと経営学Ph.D.の違いって? 経営学の博士号(以下、Ph.D.)をとるための「Ph.D.プログラム」は、米国の多くの大学ではビジネススクールに設置されています。とてもおおまかにいって米経営大学院の2大プログラムは、MBA(経営管理修士)とPh.D.です。(注:一部の大学ではPh.D.ではなくDBAという学位を出すところもありますが、両者はほぼ同じ位置づけと私は認識しています。) 米国のMBAについては、日本にも多くのMBAホルダーがいらして、そういった方々の体験記も出版されています。他方で、ビジネススクールPh.D.の実態については、多くの方がご存じないのではないでしょうか。 ここでは両者の重要な違いを3点述べます。 (1)目的 まず、プログラムの目的が根本的に違います。 MBAプログラムとは、「職業人」として高度な経営の知識をもった人たちを養成するところです。通常MBAは1〜2年のプログラムですが、その目的は「短期間で経営学の理論から実践的な知識までの習得を行い、ビジネス界に優秀な人材を輩出する」ことです。 他方でPh.D.プログラムとは、5〜6年をかけて経営学の「研究者」を養成するところです。これまでの連載でご紹介したように、米国の上位ビジネススクールの教授の多くは「研究重視の経営学者」であり、彼らは学術誌への論文の掲載を通じて、激しい知の競争を演じています。 もちろん最終的に民間企業に就職する人もいますが、米国の経営学Ph.D.の第1の目的は、こういった「知の競争に参加する」経営学者(=多くはビジネススクールの教員)の育成にあります。 みなさんの中には、Ph.D.はMBAの延長であるようなイメージを持たれていた方もいらっしゃるかもしれません。しかし、両者はまったくの別物です。Ph.D.をとるのにMBAは必要条件ではありません。私もMBAは持っていません。 (2)学費 よく知られていることですが、米MBAプログラムの学費は高額です。名門私立大学MBAの学費は2年間で8万ドル(700万円ぐらい)ぐらいかかるようです。加えて生活費もかかります。実際、日本から海外MBAを目指す方々のネックになるのは、入学の難しさに加えて、このお金の問題でしょう。 他方で、全ての大学でそうというわけではありませんが、アメリカの上位ビジネススクールPh.D.プログラムの多くでは、学費は無料です。 「えっ、ほんと?」と驚かれる方もいるかもしれませんが、本当です。学生は奨学金をもらったり、研究助手として一年目から働く代わりに学費を免除されたりします。それどころか、生きて行くにはなんとかなるぐらいの給料まで支給してくれるPh.D.プログラムも多いのです。 ちなみに私もピッツバーグ大学のPh.D.プログラムに通った5年間、学費はタダでしたし、給料ももらっていました。おかげでPh.D.学生時代に結婚もしましたし、子供まで授かってしまいました。 (3)学位をとれる確率 欧米の上位MBAプログラムに合格するのが難しいことはいうまでもありませんが、他方で入学後にMBAをとれないまま落第する確率は、かなり低いのが実態だと思います。少なくとも私の周りで、勉強についていけなくてMBAを取れずに退学した人はいません。 念のためですが、私はMBAが簡単であるとか、ラクである、とは言っていません。欧米のMBAでは毎日ものすごい量の課題を課せられ、ほとんど眠れないぐらいに勉強させられるのが普通です。相当に鍛えられることは間違いありません。しかしながら、たとえば通常MBAでは一学年に数百人の学生が入学しますが、その中で落第するのは多くてもせいぜい数人ではないでしょうか。 他方でPh.D.は、入学してからからの落第リスクも非常に高いのが特徴です。 これは他の学術分野にもあてはまりますが、通常、米Ph.D.プログラムでは最初の2年間で徹底した詰め込み式の教育を行い(コースワークといいます)、そして2年目終了時に大きな試験が課せられます。そしてその試験(あるいは追試)に不合格だと、そのままPh.D.を退学させられます。私自身も脱落した学生をみてきましたし、今は教員として「学生を落とす」判断を下さなければならないときもあります。また、長いPh.D.生活の途中で自主的に去って行く学生もいます。 米Ph.D.で学生が生き残る率は大学で差がありますし、学術分野でも差があります。私の体感なので確かではありませんが、アメリカの上位・中堅の経営学Ph.D.で学生が最後まで生き残る割合は、平均で60〜65%ぐらいではないでしょうか。たとえば私の周りでは一学年に10人ぐらいを入学させるPh.D.プログラムが多いのですが、そのうち3〜4人がPh.D.を取得せずに去ることになります。 ちなみに、この「Ph.D.取得の率」は他分野ではもっと低くなることもあります。たとえば経済学では、一学年30人ぐらいのPh.D.学生を多めに入学させて学費も払ってもらい、その後の試験で大量に退学させ、生き残った精鋭10人ぐらいの生活をPh.D.取得まで面倒みる、というのが私のよく聞く話です。ピッツバーグ大学の公衆衛生学部Ph.D.では、学生が生き残れる率は10%ぐらいと聞いたことがあります。逆に言えば、経営学Ph.D.は(6割以上も生き残れるのだから)比較的好条件なのです。(繰り返しですが、大学間でかなり差があることはご留意下さい) なぜこのような違いが出てくるかというと、これは各分野の財政状況によるのではないかと私は推測しています。ビジネススクールは他学部よりも高いMBAの授業料や寄付金などで財政に余裕があることが多いので、最初から入学するPh.D.学生の数を絞り、その代わり一年目から生活の面倒をみることができるのだと思います。 このように米ビジネススクールのPh.D.プログラムとは、(1)あくまで「知の競争に勝つ」ための経営学者を5〜6年かけて育成するところであり、(2)パフォーマンスが悪いと途中で退学させられ、(3)その代わり(上位の大学の多くでは)生活もサポートしてくれる、ということになるのです。 MBAは「投資かつ収益源」、Ph.D.は「純粋な投資」 この両者の違いはどこから来るのでしょうか。 言葉に語弊があるかもしれませんが、私は米ビジネススクールを運営する側にとっては、MBA経営は「投資であるとともに収益源でもある」のに対し、Ph.D.は「純粋な投資」であるということではないか、と理解しています。 もちろんMBAプログラムの評価というのは、そこからどれだけ優秀な人材をビジネス界に輩出したかに影響されます。その意味でMBA学生を教育するのは、名声を高めるための重要な「投資」です。とはいえビジネススクールはMBA学生から高額な学費もとっていますから、それが大きな「収益源」にもなっています。 他方で、Ph.D.学生には生活までサポートしてくれることすらあるのです。そしてなぜこのような「投資」が行われるかといえば、それは「米国の大学は知の競争をしている」からに他なりません。 前回・前々回も述べたように、米国では大学間の競争が激しく、特に研究大学は研究実績でその評価を高める必要があります。そのためには、そこにいる教授が優れた研究業績をあげることに加えて、「その大学でPh.D.を取得した学生が(他大学の教員となってから)優れた研究業績を出すこと」も、とても重要なのです。 そしてそのために、世界中から優秀な学生をかき集め、生活の面倒までみて育成する「投資」が実行されるのです。逆に言えば、いったん入学させても「こいつはこれ以上の投資に見合わない」と判断されれば、投資をやめる(=退学させる)ということになります。 さらにいえば、米国のPh.D.取得者たちは、世界中のビジネススクールで就職する機会があります。たとえば欧州のトップスクールの教員は北米Ph.D.をもつ人がかなり多くなっています。今は香港・シンガポールや、中国・韓国の上位ビジネスクールでも、欧米のPh.D.ホルダーを積極的に採用しています。いま海外の経営学は国際標準化が急速に進んでいますが、やはりその中心地は米国なので、そこでPh.D.を取った人への需要が多いからでしょう。 海外では今ビジネススクールの設立・拡大がブームとなっている国もあり、米国のビジネススクールはそういった国に「経営学者の卵たち」を送ることで、結果的にその影響力や名声を高めているといえるのかもしれません。 日本の博士課程への示唆 では、日本の博士課程への示唆を考えてみましょう。あくまで私論(というか、やや暴論)であることを先にお断りしておきます。 第1に、日本の経営学博士課程の1つの可能性は、そこから輩出する博士(Ph.D.)をより積極的に海外の大学に送り出すことにあるのかもしれません。 仮に博士課程の第1の目的が学者を育てることなら、日本でそれを目的とする学生が減るのは当然でしょう。国内は少子化の影響で大学の数が減っていますから、そもそもPh.D.の需要が減っているからです。(ここでは「民間企業も博士を積極的に採用すべきか」といった議論は割愛します)。 それに対して、海外ではビジネススクールが今まさに興隆しつつある国もあります。たとえば欧州の一部の国や中国・インドがそうですし、今後は東南アジアでビジネススクールが増えてくることも期待できるかもしれません。 もちろん日本の大学はすでにアジアなどから留学生を博士課程に受け入れていますが、今後はそれに加えて、日本人の中からも海外のビジネススクールへ博士を送り込むことを目指す、という視点はありえるのかもしれません。特に私の知る限り、香港やシンガポールのビジネススクールは米国と同様か、あるいはそれ以上の高待遇で教員を採用するところもあるようです。日本の著名大学はアジアの国々でも知名度が高いようですから、それも後押しする材料でしょう。 第2の点は、しかしながら、そのためには「博士課程とはあくまで大学の長期的な評価を国際的に高めるための『投資』である」という割り切りが、日本の大学にはもっと明確に求められるのかもしれません。 これまでみたように、米国の経営学Ph.D.とは、ビジネススクールの評価を国内あるいは世界で高めるための投資です。この傾向は欧州の上位校でも強くなっていますし、香港やシンガポールの大学も同様です。 すなわち、日本から経営学Ph.D.を海外のビジネススクールに送り込むには、手厚い投資を受けた欧米・シンガポールのPh.D.たちに負けない人材を育てあげることが必要となります。そのためには、国内外の優秀な学生を生活サポートなどの高待遇で集め、彼らが安心して勉強と研究だけに専念できる体制を整えること、そして他方で「投資に見合わない」学生は容赦なく落とす、という厳しさも必要なのかもしれません。(ただし、少なくとも米国では、Ph.D.をとれなくても民間や他大学で再チャレンジする土壌が十分にあることは銘記しておきます) 経営学者を目指すことに関心のある方へ 最後に、もしかしたらみなさんの中には、経営学者という職業に少し関心のある物好きな方もいらっしゃるかもしれません。あるいは、日本の高学歴プアになることを恐れて、博士課程に進むことをためらっている方もいるかもしれません。 あくまで個人の意見ですが、私はそういった方々のなかで挑戦心のある方には、米ビジネススクールのPh.D.を目指すことも1つのオプションではないかと思います。 もちろんこれはリスクのあることですので、焚き付けるつもりはありません。それに私はこの世界でなんとか「生き残ってきた」側ですので、そういった意味でのバイアスもあります。 しかしながら、もし経営学者に関心があるのならば、学費免除で生活まで保証されて勉強と研究に専念させてくれる米Ph.D.プログラムというのは、日本ではなかなかありえない、すばらしい環境ではないでしょうか。 また、先ほどのべたように、経営学Ph.D.は米国の他の学術分野よりは「生き残れる率」も高いのです。さらにビジネススクールは他の学術分野よりはまだ成長市場であり、そして米国でPh.D.をとれば色々な国で働けるチャンスも広がります。そして何よりも、世界中から集まった優秀な学生や教授と切磋琢磨しながら勉強し、自分の好きな研究ができるのは、とてもエキサイティングなことです。 なぜこのようなことを申し上げるかというと、実は私の知る限り、「経営学」分野で米Ph.D.にいる日本人学生は今3人ぐらいしかいないからです。他方で「経済学」分野では、米Ph.D.プログラムに今、少なくとも50人以上の日本人学生がいるそうです。私は、もっと多くの若い日本人に米国の経営学Ph.D.に挑戦してほしいと考えています。 これで今回の話は終わりです。次回からいよいよ研究の話を書きます!、、、たぶん。 入山 章栄(いりやま・あきえ) 1996年慶応義塾大学経済学部卒業。1998年同大学大学院経済学研究科修士課程修了。三菱総合研究所で主に自動車メーカーや国内外政府機関への調査・コンサルティング業務に従事した後、2003年に同社を退社し、米ピッツバーグ大学経営大学院博士課程に進学。2008年に同大学院より博士号(Ph.D.)を取得。同年よりニューヨーク州立大学バッファロー校経営大学院のアシスタント・プロフェッサーに就任し、現在に至る。専門は経営戦略論および国際経営論。著書に『世界の経営学者はいま何を考えているのか』(英治出版)がある。 米国発 MBAが知らない最先端の経営学
ピーター・ドラッカー、フィリップ・コトラー、マイケル・ポーター…。日本ではこうした経営学の泰斗は良く知られているが、経営学の知のフロンティア・米国で経営学者たちが取り組んでいる研究や、最新の知見はあまり紹介されることがない。米ニューヨーク州立大学バッファロー校の助教授・入山章栄氏が、本場で生まれている最先端の知見を、エッセイのような気軽なスタイルでご紹介します。 http://business.nikkeibp.co.jp/article/opinion/20130110/242056/?ST=print 【第16回】 2013年1月15日 加藤嘉一 [国際コラムニスト] もがき、苦しみ、つかめ! 新成人と共有したい8つの言葉 Manであれ、Beautyであれ!
二十歳の加藤嘉一、北京郊外にて?Photo:DOY ?成人式を迎えられた皆さん、おめでとうございます。これを一つの節目と能動的に認識し、益々ご活躍いただければと、一人の日本国民として願っています。
?男性諸君へ。 ?二十歳になる前と後で転換すべき自意識は「Boy」(世間に依存することによってのみ生きられる男の子)から「Man」(自らの言動で周りをリードする、真に自立した男))だと思う。以前、DOYチームの一人から、渋谷に掲げられていた「I AM A MAN」という広告の写真を送ってもらったことを思い出して、「これだ!」と胸が躍動した。私も胸を張ってBoyではなくManだと言える人間を目指したいし、これから成人になるみなさんも、そうあってほしい。 ?Boy, Be A Man! ?女性諸君へ。 ?ITと女性が大の苦手な私は、率直に言って、女性が持つ感性や好みに関してはあまり分からない。女性の顔を真正面から見つめることもできないし、恋愛経験も極めて限られている。ただ、国際関係の議論をする際、必ず(真剣に)言っていることがある。 「世界のリーダーに女性が増えた分だけ、世の中は平和になる」 ?個人的には、世界に羽ばたくアジアン・ビューティーを一人でも多く見てみたい。一緒に頑張りましょう! ?Girl, Be A Beauty! 人生は、演繹法だ ?18歳で中国に渡った私は成人式に出席できていない。当時は参加したいとも思わなかった。「俺にそんな時間はない。やることが山ほどある」と殺気立っていた頃だ。いま、自分よりも若い人たちが成人式に臨んでいる姿を想像するだけで、「あのころは若かったな」と思える。 ?あれから8年、迫りくる、流れゆく日々を過ごしてきて、振り返って思えることが二つある。 ?一つは、後悔した日は一日たりともなかったという事実。一生懸命、全力疾走、無我夢中で生きてきた。この点にだけは納得している。 ?もう一つは、「あの時こうしておけば」という部分が多々あるという事実。今になって気づいたことばかり、反省している。 ?事実は往々にして矛盾する。事実ほど矛盾を内包しているものはない。しかし、矛盾が存在するから、ヒトは成長しようとするし、社会は豊かになっていく動機を見出す。 ?矛盾に満ちた自らの経験を踏まえ、語ること通じて、新成人となる皆さんと8つの言葉を共有したい。 (1)既存のしきたりやレールにとらわれないでいこう 「官僚を目指すな」とか、「大企業志向をやめろ」とか言っているわけではない。結果的にそういう道を歩むのは個人の自由だし、私は日本の官僚や企業人を心から尊敬している。彼ら・彼女らは有能で勤勉だ。 ?一方で、結果は目的じゃない。両者は本質的に異なる。「周知」に「自分」を求めてはいけない。他者の人生に自身の人生を重ね合わせる必要はない。周りの人間、周りで起こっている事柄を眺めてから、「私もみんなと同じだ」と安心することを以て、自分がすべきこと、向かうべき場所を思考、判断、決定するやり方は本末転倒という意味だ。己の頭で考えぬき、もがき、苦しみ、可変的な一つの答えにたどり着いてほしい。自分で勝手に限界や枠組みを設けないようにしよう。 ?そして、答えへ向かって突き進む過程で見えてくる、自らの可能性を大切にしよう。私は「人生は帰納法じゃない、演繹法だ」と考えてきた。引き出しにモノをしまいこんでいくのではなく、引き出しそのものを創る人生を送ろう。 (2)3つの技能で勝負していこう ?私は特に中国に行ってから「3」という数字にこだわっている。何をするにも3で勝負するようにしている。世界で闘うためのラッキーナンバーだと思っている。 「3つの技能」に関しては、私が2011〜2012年にかけて中国全土の大学を講義でまわる過程で、中国の大学生たちにも伝えてきた。2012年夏に開催されたロンドン五輪前夜、ジャーナリズム学部の学生たちにこう言った。 「君の英語によるコミュニケーションが流暢で(1)、スポーツに精通していて(2)、取材記事を書くことに長けている(3)としよう。いますぐロンドンへ行って、五輪を取材して、記事を書きなさい」 ?人間はそんなにたくさんのことを同時にこなせる生き物じゃない。あれもこれもと手を付けて、それらをモノにできる才能を持った人間は限られている(ここで言う才能とは、“努力できる才能”を指す)。 ?グローバル化していく、混沌とした世の中で勝負していくためには、「2」では少なすぎ、「4」では多すぎる。だから、3つの技能を戦略的に取得し、有機的に結合させることを以て、勝負するための軸としてほしい。これからは「技能社会」の時代。「学歴社会」でも「会社社会」でもない。 孤独が人を成長させる (3)肉体を鍛えよう ?単刀直入に言おう。人間最後は体力だ。体力こそがモノを言う。精神力も体力からしか生まれない。蓄積された体力によって生まれる精神力は、やがて体力に還元されていく。だから私は、体力のことを「心の筋肉」と呼んでいる。 ?三島由紀夫は著『若きサムライのために』(文春文庫)のあとがきで、自らの肉体観を克明に披露している。 「精神といふものは、あると思へばあり、ないと思へばないやうなもので、誰も現物を見た人はゐない。その存在証明は、あくまで、見えるもの(たとへば肉体)を通して、成就されるのであるから、見えるものを軽視して、精神を発揚するといふ方法は妥当ではない。行為は見える。行為を担ふものは肉体である。従つて、精神の存在証明のためには、行為が要り、行為のためには肉体がいる。かるがゆゑに、肉体を鍛へなければならない、といふのが、私の基本的な考へである。」(一部抜粋) ?一つのことを長く続けるには体力を養うしかない。官僚も、企業家も、作家も、アーティストも、学者も、ジャーナリストも、最後はどれだけ体力を蓄えられているかが爆発力につながる。私はランニングを体力作りの根幹に置き、あとは腹筋、背筋、腕立て伏せをやっている。それ以上でもそれ以下でもない。 ?肉体改造は楽しく取り組むに越したことはない。よって内容は人による。サッカー、カヌー、スキー、ボクシング、ボーリング、ゴルフ……何でもいい。自分が好きで、長く続けられると思う競技に一つでもいいから取り組んでみよう。継続は力なり。継続する過程は孤独だ。だが、その孤独が人を成長させる。 (4)世界の現場を飛び回ろう ? ?学生にないのはお金と経験、逆にあるのは時間と気合だ。社会人になるととにかく時間が無くなってきて、自らの意思で物事を決めて、実施するというスタイルを突き通せなくなっていく。 ?だからこそ、(すでに社会人の人もいると察するが)学生の間に、時間があるうちに日本を出て、世界中を貧乏旅行してほしい。未知の世界に飛び込み、見聞を深めてほしい。視野を広げる過程で、自らの価値観や人生観が確立されてくるはずだ。 ?私も毎年親友と「気合旅行」という行動に出る。そのために意図的に時間をつくる。旅行自体を過酷なスケジュールに設定する。泊まる場所、見て回る場所、出会う人……すべてを現場で決める。 ?想定内のことは皆無に近い。想定外を常態化させる。常態化“する”のではなく、“させる”のが気合旅行の特徴だ。現場で情報を収集し、検証し、アクションにつなげていく。現場にコミットメントしていく過程で、「自分にとっての現場」(俗にいう「自分の土俵」に近い意味)がどこにあるのかが見えてくる。旅は人をデカくしてくれる。 (5)日本の歴史や文化を良く学ぼう ?私の出身校である北京大学の学生を含め、多くの中国の人たちは日本の政治、歴史、文化などに格別な関心を抱いている。どこに行っても日本のことを聞かれる。天皇制、徳川家、武士道、明治維新、終身雇用制、高度経済成長、戦争責任……、特に歴史に関してはとことん聞かれたし、よく議論もした。 ?そのたびに「自分は日本のことを知らな過ぎる」と反省し、高校の教科書を読み返したり、人生の先輩方に伺ったりした。しかも、外の世界では、日本のことを外国語で説明しなければならない。ここできちんと説明できないと、「日本人は自分の国のことも知らないのか」と馬鹿にされてしまう。 ?少なくとも私は、18歳で日本を飛び出してから、初めて自分が「国民」であることを認識した。他者との交流の過程で、自分が如何に祖国のことを知らなかったか、学んでいなかったか、愛していなかったかを知った。 ?だから、時間があるうちに日本の歴史や文化を学び、自分なりの見方を確立していこう。可能であれば、京都、仙台、広島、沖縄など地方都市にも赴いて、自らの肌で感じたい。これら、新成人になった皆さんだけでなく、いまの私にとっても切迫した課題である。共に汗を流そう。 “テクニカル”を避けよ (6)大局観と長期的視点に立脚した「いま」を生きよう ?これは私にとっては深く反省すべき点だ。私は学生時代、メディアや論壇で発信することに集中しすぎてしまい、数十年後に生きるかもしれない北京大学での人脈作りや、変化が激しすぎるが故にいま見ておかなければ二度と見られないかもしれない中国の地方都市や農村を丹念に歩くことを、無意識のうちに怠った。 ?2003〜2010年の間、ほとんどの時間を北京で過ごした。近視眼的だった。「いまがチャンス、とにかくものにしよう」という意識が強すぎた。今を精一杯生きることは大切だが、それは大局観と長期的視点に基づいた「いま」でなければならない。「捨て身」になっては本末転倒なのだと、この年になってようやく気づいた。 ?3歳のころ交通事故で命を失いかけた経験も影響してか、私は人生を急ぎ過ぎた。ぜひ皆さんには、大局観と長期的視点に立脚した「いま」を生きてほしい。 ?その過程で、“テクニカルな作業”は極力避けるべきであることを忘れないでほしい。例えば、本を読むにしても、ノウハウを伝授することに主眼を置いたハウツー本ではなく、歴史に名を遺した人物が回想的に書いた古典などに触れるべきだ。 ?就職先を探すにしても、本屋で関連書籍を立ち読みしたり、お決まりの就職説明会に参加したりするよりも、自分がこれまで触れ合う機会のなかった世界に飛び込んで、実践を通じて“己の適性を相対化してみる”のもいい。 ?私がイメージするのは、スコップすら持ったことがない東大生が工事現場で一日15時間アルバイトをしたり、都心で育ち、外の世界のことを全く知らない学生がバングラデシュの農村に一定期間住みこんだりという情景だ。 ?これまで、北京大学や復旦大学など中国の一流大学の学生たちにも「優秀すぎる君たちに必要なのは、論理的で整合性の取れた議論なんかじゃない。マックでひたすらバイトをすることだ。異なる価値観を持ったお客様と触れ合い、体力をつけ、そこから付加価値を創出していく力だ」と繰り返し主張してきた。 (7)自己管理能力を養おう ?すべては自己管理に始まり、自己管理に終わる。自己管理なくして、人生という名のマラソンを走破することはできない。私は10年前に日本を出てから風邪を引いていない。ロケ中に調子に乗ってけがをしたり、過労で数時間動けなくなったりしたことはあったが、寝込むような風邪は決して引かない。 ?外から帰ってきたら必ずうがい手洗いをする、休養・栄養・鍛錬のバランスを考えながら過ごす、免疫力が落ちないように常に適度な緊張感を持って過ごすなど、予防法はいくらでもある。 ?幼少時代、亡くなった父からよく「風邪なんか引くのは気合が足りないからだ」と言われた。私は父の言葉を信じている。 「風邪を引いた時のための保険」よりも、「風邪を引かないための準備」に資源を投入する。後者に関しては、金銭的コストは限りなくゼロに近い。若い皆さんには大いに遊んでほしいが、その過程で自己管理法(自分マネージメント)を打ち立ててほしい。 ?これは誰も教えてくれない。教えてもらって理解できるような程度のことを学習と呼ばない。答えのない闇に向かって、孤独と闘い、己と葛藤し続けるプロセスを学習と言うのだ。 (8)当事者意識を持って生きよう ?時々一時帰国して電車に乗ると、若い人たちが「あの政治家ダメだよなあ」、「この前のマラソンであいつだめだったなあ」、「あの学者、何馬鹿なこと言っているんだよ」、「最近のドラマつまんないよね、役者は演技下手」などと、他者の文句ばっかり言っていることに気づかされる。 ?若者が世の中の傍観者に徹したとき、その社会は衰退していくに違いない。世間で果てしなく繰り広げられる卓上の評論は大人たちに任せておけばいい。いまは漠然と世の中で起きていることを論評する時期じゃない。 「自分が総理大臣だったら」、「自分がアスリートだったら」、「自分が発信者だったら」、「自分が監督だったら」……、当事者意識を持って考え、自分のスタイルで行動に移してみよう。 ?昼間の山手線で政治に文句をたれている暇があったら、議員会館に赴いて国会議員に直接アタックしてみよう。終電の東海道線で上司の愚痴を聞くだけの我慢強さがあるなら、気合旅行に出て視野と人脈を広げてみよう。新橋の居酒屋で日常の不満を吐き出し、ダラダラ過ごすくらいなら、早起きして代々木公園を走ってみよう。 ?だったら、お前がやれ!! (ヨコ線入れる) <加藤嘉一氏の著書>
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「頼れない国でどう生きようか」(PHP新書)[アマゾン][楽天ブックス]
「北朝鮮スーパーエリート達から日本人への伝言」(講談社) [アマゾン][楽天ブックス] http://diamond.jp/articles/print/30494
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