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ガンダムとアボリジニから、歴史のリアルを考える
歴史というものは、人間の社会にとって、本当に必要なのだろうか。
歴史研究をなりわいとし、「歴史」を冠する学科に勤める筆者がこう口にするのは自己矛盾だが、現実にそう感じさせられることが増えた。
ガンダム対アボリジニ? 歴史のリアルとは何か
個人的には、ことの始まりは3年前である。2009年、幕末の横浜開港から150周年を機に、同市では「開国博」を謳って大イベントが打たれたが、これがまったく盛り上がらない。逆に盛況をきわめたのは、なんと「機動戦士ガンダム」30周年の方で(TV初放映が1979年)、東京お台場に立った実物大のガンダムの前に連日、人々が列をなす光景が報じられるのを見て、ああ、ついに日本ももう、「歴史」なんて要らない社会に入ったのかな、と思った。
当然ながら、現実に存在した過去という意味での「歴史」は、横浜開港の方であり、しかもそれは日本の「近代化」への大きな節目として、教育現場でもしつこいほど繰り返し語られてきた画期である。
しかし現に、そのような自国のあゆみを扱う「リアル歴史」よりも、ガンダムの宇宙戦記という「架空歴史」の方が、今日では日本人の心をつかみ、実際に動員しえるらしい。
はたして私たちは今も、現実に起きた史実の連鎖としての「リアル歴史」を生きていると言えるのだろうか。逆に、ぼくたちはもう「架空歴史」だけで生きていくからいいです、と言われた時に、「リアル歴史」の解明を職業とする歴史研究者の側は、それを引き留めるだけの理由や手段を持っているのだろうか?
当時、就職2年目の日本史教員としてそんなことを感じて以来、ずっと同じ問いに悩まされ続けてきた気がする。
■「歴史」を持たない社会の歴史意識のあり方
実際、われわれが想像するような意味での「歴史」を持たない社会は、人類史上いくらでも存在する。
たとえば一般に無文字社会と呼ばれる人々の集団では、(私たちの価値観からすると)「神話」という形でしか、みずからの過去についての語りを持たないことが普通であって、世俗化された世界観の下に年表形式で史実が列挙されるという種類の「歴史」は存在しないことが多い。
アボリジニの村に滞在、長老と過ごす時間を「歴史する」中で、歴史とは何かを問い続けた著者の遺作(御茶の水書房、2004年)
夭逝した歴史人類学者の遺著として刊行当時、話題を呼んだ 保苅実『オーストラリア先住民アボリジニの歴史実践 ラディカル・オーラル・ヒストリー』 は、豪州の先住民族が今日も有する、われわれとはまったく異なる歴史意識のあり方を、ショッキングに突きつけてくる。
保苅によれば、彼が調査したグリンジというアボリジニ・グループの長老は、こう語ったという。
同地では1966年、劣悪な労働条件に抗議したアボリジニによる職場からの退去と、白人に対する土地返還運動が起きるが(75年に勝利)、長老いわく、そのきっかけは米国大統領ケネディの来訪だというのだ。
彼らが生きている「歴史」のなかでは、とにかくケネディが同地を訪れて先住民を激励し、「イギリスに対して戦争を起こして、お前たちに協力するよ」と申し出たのが、運動のはじまりだということに今もなっている。
――もちろんそのような史実は、JFKが63年に暗殺される私たちの「歴史」には、まったく存在しない。
保苅が提起したのは、この時、彼らの語る「歴史」を「それは真の歴史ではない」として、却下する権利が私たちにあるのか、という問いだ。
たとえば「マイノリティからみた歴史が必要だ」「被害者の視点で歴史に向きあえ」と主張する人々は、このアボリジニたちの「われわれはケネディに会い、励まされて運動を始めた」という歴史と、どのようにつきあうのだろうか。
■ケネディが来てくれた、でいいのかもしれない?
こういう問いを持ちだすと、必ず歴史(特に近代史)界隈に湧いてくるのが、「歴史は『物語』ではない。『史実』を軽視する歴史は、南京大虐殺が起こらなかったと主張するような、悪しき『修正主義』と同じだ」という人々である。
実際に保苅も悩まされたようで、同書も架空の「実証主義歴史学者」や「市民運動派社会学者」がその種の発言をして、保苅の逡巡を批判する構図をとっている。
たしかにそういう立場の人なら、史実に基づく「リアル歴史」なるものの意義に、悩むこともないだろう。開港後の日本史よりもガンダム世界の歴史の方が面白いです、などという不真面目な輩には横っ面を張って、「日本の近代史をめぐって、中国や朝鮮の人たちとのあいだに、今どれだけ大きな『歴史問題』があるかを知らないのか!」とお説教だけしていればいいのだから、楽である。
しかし、東アジアのどの国でも遅かれ早かれ、「戦争体験者が一人もいない時代」は来る。自分自身の体験ではないという意味では、「リアル歴史」といっても誰もが、公教育のテキストであれ、市場で消費される小説やドラマであれ、なんらかの「物語」を媒介としてのみ追体験し、語り継いでいるにすぎないという世界は、遠からず出現するのだ。
その時に私たちは、享受に当たって痛みを伴う「リアル歴史」の方を、それでも選んで生きるべきだといえるだけの基盤を持っているのだろうか。むしろ、国家単位での歴史の語り継ぎが、国際的な「歴史問題」を引き起こすなら、そんなものは捨ててしまうのが一番の解決策ではないか。
個々人がめいめいバラバラに、史実か架空かにこだわらず、好みの物語を「歴史」としてチョイスするほうがずっと平和になる。――そんな空気は、現実に私たちの時代にも、しのび寄っているように感じる。
■アボリジニに回帰しつつある? 私たちの歴史意識
批評家の東浩紀氏の『リアルのゆくえ』(大塚英志氏と共著)や、宇野常寛氏の『ゼロ年代の想像力』などの近著が、ともに「南京大虐殺の有無」自体を、結局は個人の嗜好による物語のチョイスの典型として挙げているのに驚いたことがあるが、ひょっとするともはやこの国は、トラブルの種にしかならない「歴史」を捨てたがっているのかもしれない。
対立する諸陣営が互いに相手を説得する気力を失い、それぞれ別個に「元気が出る歴史!」を求めているとしか思えない類の論争を見るにつけ、保苅とは別の意味で、なるほどケネディが応援に来たことにしてもいいのかもしれないな、と思うことがある。私たち自身の歴史意識が、アボリジニに回帰しつつあるかもしれないのだ。
そんな時代に、なにを尺度として「歴史」を語ったらいいのだろう。保苅の同書は、歴史の真実(truth)は揺らいでも真摯さ(truthfulness)という基準が残る、という観点を示唆して終わっているが、これは若干レトリックのような気もする。
そんなことを考えながら、終幕が近いのかもしれないこの「歴史」というものに、あと少しだけ寄り添ってみたい。(與那覇 潤)
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