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【第16回】 2012年11月14日 池上正樹 [ジャーナリスト],加藤順子 [フォトジャーナリスト、気象予報士]
ついに国主導で“大川小の惨事”検証へ
遺族が文科省に抱く大きな期待、よぎる不安
東日本大震災の大津波によって、児童・教職員84人という世界でも例のない犠牲者が出た石巻市立大川小学校。今年6月16日に遺族が立ち上がり、なかなか明らかにならない事故の真相解明に乗り出してから4ヵ月半が経過した今、ついに文部科学省が事態を進展させるべく動き出した。11月3日、遺族と県教育委員会、市教委とともに4者会合を開き、事故検証委員会を設置して1年後に最終報告をまとめる方針を明らかにしたのだ。これまで県教委や市教委にいら立ちを覚えていた遺族たちまでもがこの動きに期待を込めるなか、文科省は真相を明らかにできるのか。
文科省主導で4者会談を実施
検証委員会設置で1年後に最終報告提出へ
笠浩史文科副大臣は、児童の遺族と共に、大川小の裏山の「ここまでのぼれば助かった」という高さまで登った(2012年11月3日、石巻市釜谷)
Photo by Yoriko Kato
東日本大震災の津波で、宮城県石巻市立大川小学校の児童・教職員の84人が犠牲となった問題で、文部科学省は11月3日、第三者検証委員会の枠組みについて、遺族と県教育委員会、市教委の4者による円卓会議を開いた。
会合の前には、笠浩史文科副大臣が、大川小の被災現場を視察。遺族と共に学校の裏山に入り、「ここまで来たら津波の被害に遭わなかった」という高さまで登った。
笠副大臣によると、11月25日に行われる次回の会合で、検証委員会について遺族からの同意を取り付け、12月の市議会で設置する方向だという。
遺族の同意と市議会の協力を取り付けた後のスケジュールはこうだ。
まずは年末までに、第1回の会議を開き、半年かけて2013年6月に中間報告を提出。検証委員会の設置から1年後の2013年末に、最終報告を出すとしている。
4者会談後の会見に列席した、境直彦石巻市教育長(右)と、佐藤和夫事務局長(2012年11月3日、石巻市河北総合支所)
Photo by Yoriko Kato
4者会談後には、前川喜平官房長(兼子ども安全対策支援室長)を中心に、高橋仁宮城県教育長や境直彦石巻市教委長らも同席して会見を開き、検証委員会の枠組みについて説明をした。
前川官房長によると、検証委員会の方向性については、
「3月11日の事故の前の学校の、あるいは教育委員会の取り組みがどうであったか、ということの検証。それから3月11日の震災発生から悲劇が起こるまでの避難行動に関する検証。この2つの面に分けて検証する必要がある」
と、ほぼ、当連載の第14回でも紹介した、試案通りだ。
これら2つの面についての検証を担当するのは、検証委員会の下に置く担当部会。それぞれの会合は、原則的に公開で進めていく方向だという。
具体的な検証の範囲は、委員会を立ち上げてから決めるとしているが、学校関係者や市教委がとった事後対応については、検証範囲には含めない方向であると、前川官房長は強調した。
遺族はメンバーに加われない?
検証委員会の人選をめぐって疑問も
検証委員会の人数は、5人〜10人をイメージ。検証の実働と、検証を担う各部会の人数については、具体的なイメージはまだないということだった。
検証の委託先と事務局については、文科省と県が選定し、石巻市は、予算を執行するだけになる。
検証委員会の発注者は石巻市になるが、市の意向に左右されるようなことにならないよう、市や市教委から独立した委員会を立ち上げ、文科省と県教委が、指導・監視する。
4者会談後に、文科省、県教委、市教委が揃って会見を行った。ほとんどの質問を、前川官房長(手前から3人目)がマイクを握って回答。手前は、高橋仁宮城県教育長(2012年11月3日、石巻市河北総合支所)
Photo by Yoriko Kato
国の予算ではなく、市の予算で検証を行うのは、「学校の管理下で起きた事故である限り、まず市が検証をする責任を負う」「検証は、どのようなケースでも、設置者である自治体で行う必要がある」(前川官房長)とのことだ。
4者会談で示されたという資料は、A4で3ページ。その中に含まれている「検証のイメージ(案)」によると、検証委員会の「委員等参加」や「支援・協力」の中に、なぜか「東北大学等」と明記されていて、「専門機関としてこの委員会を全力で支援、あるいは参加する」(前川官房長)といった案になっている。
しかし、検証を求める遺族たちは、東北大学などの地元の大学から委員が選出されることには、「県や市への公正・中立が担保できない」などとして、強く反発している。東北大と関係機関との間ですでに何か進められている話があるのかもしれないが、どんな人物や組織が検証委員会にかかわっていくことになるのかは、遺族の要望や県の意見などもすりあわせて、これから明らかにされていく模様だ。
その後の記者会見でも、「(いじめ問題の渦中にある品川区教委のように)遺族を委員のメンバーに加えないのか」などと、検証委員会の委員の人選についての質問が多かった。
文科省の案では、遺族は検証委員会のメンバーには加わらない形になっている。遺族の意見をどう反映させていくかについて、前川官房長は、会見でこう述べていた。
「ご遺族54家族全体を代表できる人がいらっしゃるか。ご遺族に入っていただくとしても、1人とか2人とかという話になると思います。
けれども、ご遺族に入っていただくよりは、ご遺族でない方で検証委員を構成するけれども、ご遺族のご意見が届くように、ご意見や情報を提供していただく場を最大限作っていくほうが、結果的には客観性や公正性を高めるのではないかと思っております」
検証の材料として、遺族がこれまで収集してきた情報を提供する場を設けたり、意見を反映させたりするための機会を別に用意する、という考えのようだ。
メディアからの質問に答える文科省の前川喜平官房長兼子ども安全対策支援室長
Photo by Yoriko Kato
「非公式な形でもご意見を伺いますが、この人を(メンバーに)必ず入れてほしいということは、私どもとしてはお受けするつもりはないわけです。具体的な人選については文科省で決めたいと思っております。
こういうことをよく分かっている人がいいとか、そういうご意見は十分考慮させていただくというつもりはありますので、そういう意見は受け入れていきたいと。具体的にどこどこの誰々を入れてほしいということにはなっていない」(前川官房長)
前川官房長は、3日の4者会談について、「文科省が人選するのはけしからんとは言われていない」と表現し、次のステップに進む一定の感触は得られたという認識のようだ。文科省は今後、委託先の選定や検証委員の人選を進めて、25日の4者会談に説明する予定だという。
また、遺族から出された意見の中に、県が検証に関与することについては、遺族から「教職員の任命権者として考えた場合、県は中立な立場ではないのではないか」というものがあったと、前川官房長は会見で明らかにしたうえで、
「基本的には、文科省で人選を行います。県の教育委員会からこういう人を入れてほしいという要望があれば検討しますけれども、基本的には文科省で決めたい」
と、あくまでも県より国の主導で行うことを強調した。さらに、こう付け加えた。
「それ(校長の任命権)が検証されるのであれば県(の存在)は中立性の担保にはなりません。その場合は文科省が監視をする」
つまり、校長の任命権が検証の対象となる場合は、県を当事者としてみなすというのだ。
ところが一方で、実際には「検証の中で任命責任そのものを扱うつもりはない」とも説明しており、大川小の当時の校長の人事については検証では触れたくないという思惑も見え隠れする。
遺族が文科省に期待する一方で
“遅すぎる検証”への不安感も
この4者会談で提案された内容について、真相究明を進めてきた遺族のひとりは、こう感想を述べていた。
「54家族それぞれがどんな状況にいるのかというのを、文科省はどの程度わかってくれているのか。
遺族は、いろいろな努力を積み重ねてきました。たとえば、(説明会や話し合いの)議事録は何回も読んでいるし、いろんな記事も、雑誌も、何回も読んでいる。あの人が当時の状況を分かっているようだと知ると、すぐに話を聞きに行く。そうしてきた状況も分かってもらいたいと思っています。
検証委員の選び方に、遺族が入るとか、遺族の意志が反映されるとかの仕組みが必要だと思っているんです。
文科省が委員を選出して、監視するというが、これまで続けてきた市教委との話し合いに、文科省が入ればいいという意見もある。
また、組織の機能が停止してしまうような構造自体が、議論されるべきなのかなとも思うんです」
文科省が提示した検証についての不安感は、遺族の中にはまだまだあるようだ。
遺族が「構造自体が議論されるべき」というように、大川小の被災現場だけではなく、構造的な問題は、県や国のレベルでも起きている。
私たちの今年7月の取材でも、文科省には1年4ヵ月以上にわたって、県からわずかな報告しか上がっていないことがわかり、そこから、文科省の中には、学校管理下での事故や被災の情報を集めて把握し、教訓として生かすための仕組みがなかったことがわかったのである。
前川官房長も、会見で、文科省が動き出すのにここまで時間がかかったことや、有識者会議が作成した東日本大震災の報告書のなかには、大川小の問題が事例として触れられていなかったことに対して、反省の意を表明していた。
会見では、県も、2011年の12月には、当時の高橋教育次長(現教育長)が、市教委に出向いて「検証を促した」と説明していたが、市教委が実際に補正予算を計上して議会に提出したのは、半年後の2012年6月のことだった。
こうした関係機関による検証の出遅れが事態を深刻化させてきたのは、制度上の問題でもあるのだ。
会見では、県も、当時の高橋教育次長(現教育長)が、「市教委に出向いて検証を促した」のは、2011年12月だったと説明していたが、市教委が実際に補正予算を計上して議会に提出したのは、そこから半年後の2012年6月のことだった。
このように、あの日までにどんな備えをしてきたかということと、あの日に何があったのかということ以外に、起きてしまったことへの対処の問題についても、どれも切り離しては語れない。
子どもたちが落とした命の意味が、こうした制度の谷間や対処の遅れによって、宙ぶらりんなままの状態が続いていることは、実は、私たち国民が向き合っている課題なのではないだろうか。
遺族によると、3日の4者会談には、遺族54家族のうち、34家族が集まったという。その中には、普段、市教委が主催する説明会や「話し合い」には来なくなっていた人たちも多かったようだ。
大川小の遺族の中には、真相の究明を目指してきた遺族がいる一方で、あえて“もの言わぬ”ことを選んだ遺族たちがたくさんいる。
口を閉ざしてきた遺族たちの中にも、「真相を知ることを諦めてしまったのではなく、文科省の動きに対して何かしらの期待をして会談に参加して人も多かったのでは」と、その遺族は言う。
柏葉元校長など市教委、市に対する
遺族からの不信感は未だ拭えない
4者会談の後、別の遺族から、こんなメールが届いた。
「市教委の対応で、最も欠けていることの一つは、(54遺族)一軒一軒に対して向き合えていないことです。亀山石巻市長の家庭訪問も、頓挫しました」
大川小では、子ども会育成会が主催するスキー教室にも協力的で、教師たちも2年前まで、毎年1人は参加していたそうだ。
ところが、2009年に、柏葉校長が就任して以降、事態は一変。09年度は教頭先生が宿泊だけ参加し、朝には帰って行った。そして、10年度になると、誰も教師が来てくれなかったため、当時の育成会長はとても不安がっていたという。
「(大川小では09年度から)各方面でこうした状況が増えました。このことは3月11日の教員集団が、子どもを守る集団として機能しなかったことと無関係ではないと思いますが、検証の対象になるのでしょうか」
遺族からのメールは、こう続く。
「(ある家庭では)当時大川小1年生、4年生の姉妹が亡くなりました。その家では、中学生の長女も亡くなりました。この長女は、大川小に妹2人を迎えに行ったのです。そこで、小学生と一緒に“校庭待機”となりました。3人一緒に遺体で見つかりました。姉が妹2人を抱きかかえていたそうです。
父親はなつっこい人で、PTA活動などで楽しく活動しました。震災以来、彼の笑顔を見たことはありません」
遺族たちが、懸命に我が子の遺体を探していたとき、年休で学校に不在だった校長は、第3配備体制にもかかわらず、震災後もずっと避難所にいて、大川小に捜索に行く保護者たちを「行ってらっしゃい」と見送っていたという。
校長が学校現場に来たのは、震災から1週間近く経った3月17日のこと。
「報道陣の車に乗って、まだ遺体捜索の続く学校に着くやいなや金庫を探し、校舎の写真だけ撮ると、立ち去って行きました」(目撃した遺族)
いったい、柏葉元校長は、学校の最高責任者として、どのような理念や哲学で、学校を経営していたのだろうか。
10月28日の市教委と遺族の話し合い(第7回説明会)では、柏葉元校長は、校長ならだれもが熱く語れるはずの学校経営の理念についての質問に、こう答えている。
「子どもたちに、自分の思いが、えー、達成に向けて自分なりに頑張っていける、子どもをつくるために、えー、学校経営に当たってきました」
――学校教育目標は、校長先生になってからつくられたのですか?
「1年目は、そのまま前の学校目標ですけど、2年目については、私のほうで考えて、つくりました」
遺族は、こう問いかける。
「校長先生が考えられた学校教育目標は、(具体的に)浮かばないですよね。もしかしたら、そこがいちばん大事なところだったのではないかなと」
54家族にはそれぞれの思いが詰まった20ヵ月がある。子どもが亡くなったことで、大川小のPTAのメンバーでもなくなり、学校という存在から切り離された生活を送る人も多い。
すでに1年8ヵ月が経過したが、遺族の、市教委や市に対する不信感は相変わらず強いままだ。
この4者会談は、事態の進展に期待を寄せて集まってきた遺族たちにとっては、お互いの再会の場でもあり、話し合いや情報交換のきっかけになっていくのかもしれない。
事態の解決に向け、ついに文科省が乗り出してきたことで、検証委員会も、設置されることにはなるだろう。
あの日、子どもたちや先生たちが味わった無念の思いを、決して“学校だけ”“現場だけ”の問題で片づけてはいけない。
(池上正樹、加藤順子)
◆お知らせ◆
大川小学校の津波被災の問題を、児童のご遺族を交えて考えるイベントが催されます。
「74名の小学生は、どうして校庭で大津波に呑み込まれたのか?
〜大川小溺死事件の真相を探り、子どもの権利条約の視点から考える」
日時:11月17日(土) 12:30〜17:30
場所:明治大学リバティータワー1064教室
費用:500円(資料代)
内容:@ 真相解明を求めるご遺族の方々の声、A 不可解な石巻市教育委員会の対応、B なぜこんなことが起きたのか
形式:スピーカーによるパネルトーク後、会場参加型の討論
申し込み:不要
主催:DCI日本支部(子どもの権利のための国連NGO)(問い合わせ先はリンク先よりご確認ください)
<お知らせ>
筆者の新刊『あのとき、大川小学校で何が起きたのか』(青志社)池上正樹/加藤順子・共著が刊行されました。3.11、 学校管理下で、なぜ74人もの児童たちが、大津波の犠牲になったのか。なぜ、「山へ逃げよう」という児童たちの懸命な訴えが聞き入れられず、校庭に待機し 続けたのか。同書は、十数回に及ぶ情報開示請求や、綿密な遺族や生存者らの取材を基に、これまでひた隠しにされてきた「空白の51分」の悲劇を浮き彫りに していく。
http://diamond.jp/articles/print/27862
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