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「友達1000人じゃないとダメ?」 SNS活用が助長するシューカツ狂騒曲
FB上の演技を“強要”するオトナの勝手と自分を見失う学生の悲劇
2012年10月16日(火) 河合 薫
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ついにこういう時代になってしまったのか……。
先日、新聞の記事を見て、何とも言葉にしがたい複雑な気分になった。その記事とは、日本経済新聞が10月10日付の朝刊で「楽天、就活専用SNS開設 企業から優れた発言の学生に応募促すメール」という見出しで報じたもの。以下はその抜粋である。
「楽天は就職活動中の学生らが議論を交わす就活用の交流サイト(SNS)を15日に開設する。参加者は実名で意見を投稿、企業の採用担当者は議論の様子を見て、発言内容が優れた学生に応募を促すメールを送れる仕組み。学生が訪問するOBを探したり、企業が目当ての学生を見つけたりする際にSNSを使うケースが増えているが就活専用のSNSは珍しい。
対象は就活生のほか、内定者、社会人、企業など。参加者は氏名や学歴、写真などプロフィルを公開し『インターンシップ』などの話題や業界、業種別に自由に意見を投稿する。
発言の積極性、内容など参加者の行動を楽天が分析。それをもとに企業は欲しい人材に直接メールを送る。エントリーシートなどにくらべ、討論では本人の実力や性格が表れやすく『企業の採用効率を向上できる』(楽天)という。」
就活対策セミナーが挙げた根拠なき3つのポイント
思い起こせば今年の初め、テレビの朝の情報番組において採用活動で学生の素顔を知る手段としてSNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)を活用する企業が増えているという特集が放送され、ネットで話題になっていた。
その番組では、企業のそうした動きを逆手に取ったビジネスとして、「企業から好印象を持たれるためのフェイスブック就活対策セミナー」なるものを紹介していた。
で、そのセミナーの内容が、「何じゃ、こりゃ?」というもので。一体この基準はどこから出てきたのかと首をかしげてしまった。
そのセミナーでは企業に好印象を持たれるためのポイントとして、次の3つを挙げていた。
(1)プロフィルアイコンは笑顔でアップの写真を使う
(2)友達は50人以上フォローする
(3)週に2回以上前向きな書き込みをする
う〜む。こんなことで、印象の評価が分かれてしまうのか?
それに、これって、のぞき見されることを前提としたもので、何だか気味が悪い。「どこに住んでるの?」と聞くだけでも、個人情報うんぬんでタブー視される世の中だというのに、SNSでは、“のぞき見オーケー”で、学生たちはそこでも「採用したい!」と思わせるスキルを持たなきゃ生き残れないということなのだろうか。
冒頭の楽天が始めようとしているSNSサイトと、個人のフェイスブックなどを“のぞき見”するのとでは、若干性質の違うものではある。
だが、フェイスブック上の“人格”が、全く見ず知らずの人たちから評価さる時代になってしまったことは間違いない。
SNS先進国の米国でも、“のぞき見”主義は広まっている。2008年に同国で行われた調査で、人事担当者によるSNSの“のぞき見”の具体的内容が明らかになり、一時期、物議を醸した。
求人サイトの米キャリアビルダー・ドットコムが行った調査によれば、人事担当者の22%がSNSを使って就職希望者の情報を集めており、そのうちの34%が、「応募者が掲載しているコンテンツが原因で、採用対象から除外したことがある」と答えたのだ。
不採用の原因となったコンテンツで最も多かったのは、「飲酒やドラッグ服用に関する情報」で41%。次いで「挑発的または不適切な画像・情報」が40%に上った。ほかにも「コミュニケーション能力の低さ」が29%、「前に勤めていた会社や同僚についての悪口」が28%と多かった。
逆に、SNSサイトに掲載されている情報を見て応募者の採用を決めたという人事担当者も24%いた。採用の決め手となったコンテンツの1位は、「新しい職場での業務に役立つ経歴」で48%、2位は「優れたコミュニケーション能力」で43%、「新しい職場への適性」という回答も40%あった。
フェイスブックが就職で利用される不気味
確かに、フェイスブックでアップされる情報から、「へ〜、この人こういう嗜好性があるんだ」とか、「こういうふうに物事をとらえるのか」とか、「こんな1日を送っているのか〜」などと、その人の日常や人格の一部を垣間見ることはできる。
でも、それはまぎれもなくごく一部の情報であり、その一部が、就職という学生にとってかなり重大なライフイベントで使われてしまうことに、何とも言えない不気味さを感じている。
と同時に、フェイスブックを採用時のツールの1つにするという流れは、さらに加速していくのだと懸念してもいる。
だから、余計に怖い。
なぜって? それはいつの時代も新たなツールは、新たなストレスと新たな問題を引き起こすから。かつてコンピューターが普及した時に、「テクノストレス」という状況が生まれたように、だ。
で、今回その被害者となるのは、“のぞき見”される学生たちである。
そこで、ずいぶんとテーマ設定が後手に回ってしまったが、学生たちの話から聞き及んだ“SNSストレス”について、考えてみようと思う。
「先生、友達、少なっ(苦笑)」
これは学生の1人が、私のフェイスブックの“お友達”の数を見て言い放った言葉だ。
彼によれば、今どきの若者たちの間では、最低でも1000人以上いないことには、「こいつは使える」と思われないのだという。
「フェイスブックって、いろんな人と人脈を広げるために使っている学生って結構多いんです。で、『この人と友達になりたい!』って友達申請するでしょ。その時にどれだけ友達がいるかって、結構、重要な判断基準になるんですよ。数が少ないと相手にされない。認めてもらうには、最低でも1000人は必要。だから僕も必死に増やしました。会った人とは必ず名刺を交換して、友達申請をバンバン1カ月くらいかけてやるんです」
友達の数を競うこと自体は昔からあったし、携帯電話の番号登録者の数を競うなんてこともあった。だから、「フェイスブックの友達の数=社交性」ととらえることがあったとしても別にいい。だが、1000人って、半端ではない数だし、そんなボーダーラインを一体、誰が決めたのか。ましてや、その数が単なる社交性だけではなく、「相手に認めてもらうため」の基準になるだなんて、訳が分からない。
友達や「いいね!」の数を競う不条理
しかも、友達の数はその人を判断する基準として、どこまでも追いかけてくるというのである。
「友達の数の最低ラインが1000人だとするでしょ。でも、そこで終わるとそれはそれでダメなヤツ、って思われちゃうんです。結構エグイことやらせる人もいて、ある企業の人事の人とサークルの友人が“友達”になった。で、『頑張って友達2000人を目指しましょう!』って、承認の時に言われた。そしたらある時、その人が『○○さんは、今月中に友達を2000人まで増やすって約束したのに、それが守られていないようです』と書き込みをされた。もちろん○○の部分に実名は入っていないけど、見る人が見たら『アイツだ』と分かるような書き方だったんです」
友達の数だけで、「使えるヤツ」「使えないヤツ」とレッテルを張られたり、「増やす努力をしていない」と書き込みされたり。一体これって何なんだ?
こういった学生たちを惑わす、訳の分からない基準はこれだけじゃない。何と「いいね!」の数を、のぞき見されるというのである。
「投稿して、『いいね!』をたくさんもらえているかどうかっていうのも、結構見られているんです。『いいね!』が多い人はコミュニケーション能力が高いとか、人気があるとか。だから、何となく自分も『いいね!』の数がすごく気になるようになっちゃって。『いいね!』をたくさんもらうためにつぶやいたり、もらえないと落ち込んじゃったりしています」
確かに、「いいね!」をたくさんもらうと、ただそれだけのことなのに、やたらとうれしかったりもする。一方で、「いいね!」をあまりもらえないと、少し悲しい気にもなる。40を過ぎた私でさえそうなのだから、敏感な20代であればもっと感情が揺れるはずだ。自分の存在が無視された。そんな気分になることだってあるかもしれない。
ましてや、それを「コミュニケーション能力」なんてカテゴリーで評価されてしまうとしたならば……。耐えられない。うん、私だったら耐えられない。
今の学生たちには申し訳ないけれども、私が学生だった頃にはSNSなんてものが存在しなくてよかった、などと心底思ってしまうのである。
日に日に増す「自分を演出する」ストレス
「1000人以上いなけりゃ、認めてもらえない」
こう言われれば、認めてもらうために必死に増やす。そして、ちまたにあふれる情報の洪水にのまれてしまうことだってある。たとえ、そこに自分の価値基準で意味を見いだすことができなくとも、他者の基準に合わせようと躍起になる。
誰だって、人に認めてもらいたいから。少しでも高く評価してもらいたいから。自己というものが確立されていないだけに他者の評価が気になり、がんじがらめになってしまうのだ。
見られていることへの恐怖心──。これほどストレスフルなものはないのである。
そして彼らに降り注ぐ雨は、日に日に増しているように感じている。
例えば、私が受け持っている講義の中では、他者とつながることの功罪について考えさせる場面があるのだが、1年前にはもっと前向きにツイッターやフェイスブックは受け入れられていた。
「SNSがあって、よかった」――。
そう笑顔で語る学生たちの「今どきの感覚」に直接触れ、新鮮な気分を覚えたものだ。ところがわずか1年余りで、SNSを否定的に見る空気が広まった。
演じることへのストレス。演じることへの罪悪感――。そんな揺れ動く感情を訴える学生が、明らかに増えてきたのである。
「始めたばかりの頃は本音を書いて、それにリアクションがあるとすごくうれしくて。『おはよう』と書き込むだけで、『おはよう』とすぐに返してもらえたり、眠れない時にほかにも眠れない人がいるのが分かるだけで、ホッとしたり。SNSがあって、ホントによかったと思っていました」
「でも、最近はあんまり知らない人まで増えちゃったから本音が言えなくなったし、フェイスブックの“友達”の中に自分が書いたことを就活先にチクる、スパイみたいなことやっている人がいるなんてウワサもある。だから、いつも人の評価ばかり気にしちゃうんです。演じている自分が嫌になる。それがすごいストレスで、ホントの自分って何なんだろうって、すごい悩んでいます」
「だからいっそのこと、フェイスブックをやめちゃいたいなぁって思ったんです。でも、サークルの先輩から『シューカツのためにもやっておいた方がいい』と言われて。フェイスブックが就職につながる場合もあるし、人脈は大切だからって」
こう話してくれたのは、今年、就活を始めた学生だった。「就職につながる場合もある」という先輩の一言に受けて、やめたいけどやめられない。そんな複雑な心境を打ち明けてくれたのである。
さて、こういった学生たちのストレスを、のぞき見する人たちはどこまで分かっているのだろうか。
当然ながら私が話を聞いたのは数十名でしかないし、見られていることにストレスなど感じていない学生もいるはずである。
だが、オトナたちが想像もしないこところで、オトナたちの“まなざし”に疲弊している若者たちがいるのもまた事実。
「ホントの私とは違うのに、人の評価がすごい気になって演じる自分に悩んでいる」と訴え、オトナが想像する以上に、「見られている」恐怖に疲弊する──。オトナにとっては、「たかがそんなこと」でも、彼らにとっては心を病むくらいのプレッシャーとなる。のぞき見行為がそんな学生たちを生み出していることを、果たしてオトナたちは想像したことがあるのだろうか。
“のぞき見”する側は学生のストレスを分かっているのか
多分ない。恐らくない。少しばかり意地悪な見方なのかもしれないけれども、「だって、SNSもこれからもっともっと生活の一部になるわけだし、SNSで評価して何が問題なのか?」と考えているオトナも少なくないのではあるまいか。
繰り返すが、便利なツールは新たなストレスを生む。そして、そのストレスの雨をオトナたちの行為が生み出している。そのことを忘れてはならないと思うのだ。
ネットやメールなどのウェブ社会は、コミュニケーションの世界のエポックメーキングな出来事となった。そして、その普及に伴って、いわゆる“仮想空間”の企業での使い方に関する議論が、欧米の研究者の間で広がったのは今から10年ほど前に遡る。
当時、米マサチューセッツ工科大学(MIT)スローン経営大学院のワンダ・オリコウスキー教授は、リアルのコミュニケーションの方が、テクノロジーを駆使したコミュニケ―ションよりも必ず優れていると決めつけずに、「このコミュニケーションによって達成しなければならないのは何か?」と、常に問いかけることが何よりも大切だと説いた。つまり、リアルと仮想空間の共存を目指すべし、としたのである。
例えば、簡単な情報であれば、ネットやメールを駆使すればいい。だが重要な決定事項を伝えたり信頼を深めたりするには、対面のリアルなコミュニケーションを取らなくてはならない。なぜなら、「そこにいる」という事実は視覚、臭覚、味覚に訴えるものがあり、この五感から得られる豊かなコミュニケーションは、どんなにテクノロジーが発達したところでそれに勝るものはないからだ。
しかも興味深いことに、仮想空間は、「そこにいる」というリアルの世界の大切さを思い出させるツールにもなったと、オリコウスキー教授は強調する。
仮想空間で、文字だけのコミュニケーションで「場を共にすること」うちに、「直接会いたい」とか、「自分の目で見たい」といった、顔の見えるリアルなコミュニケーションへの欲求が確実に高まったとしたのである。
人間は人と関われば関わるほど、「もっと相手を知りたい」とか、「もっと自分を知ってもらいたい」という欲求を募らせる動物でもある。つまり、仮想空間は、相手と直接会うことへの欲求を強化させるツールとしての利用法もあるのだ。
とすれば、だ。就活専用のSNSをあくまでも、学生との出会いの場として利用することは、さほど問題ないということになる。
だが、それが機能するのは、「学生」対「企業の人」という、あくまでも1対1の関係がある場合に限られる。「会いたい」と願う人が、「場を共にすること」なく、のぞき見する人になった途端に、その優位性は消滅する。
のぞき見は、しょせんのぞき見でしかない。SNSはあくまでもコミュニケーションのツールで、のぞき見をするためのものではない。
「面接の達人」ならぬ「SNSの達人」を生む恐れも
学生たちだってバカじゃない。面接を重視する企業が増えたことで、「面接の達人」が量産され、入社した途端に使いものにならなくて上司たちを泣かせたように、「SNSの達人」が生まれるリスクだってある。不特定多数に見られる自分と、自分の世界だけの本音の自分を使い分ける知恵だって十分に持っている。
論理に基づいて設けられた仕組みは、論理で打破できるし、評価という変数が加わった途端に、感度のいい学生ほど相手の求める自分をうまく演出できるようになる。
それに……、そもそも「就職先を志願する」ということは、最も重みのある大切な行動だ。たとえ、その先に転職することがあろうとも、自分の人生の時間軸で、共に歩む伴侶を見つける行為でもある。
なので、どうか十分に考えたうえで、企業の側はSNSを利用してほしい。新たな深刻な問題を引き起こさないような就活SNSの活用を検討してほしい。
ただでさえ、周りの評価を過剰なまでに気にする現代の若者たちだ。彼らにこれ以上、「自分には見えない人」から監視されるという不毛なストレスの雨を降らせないでほしい。彼らの話を聞くたびに、そう強く願う。シューカツではなく、「就職先を志願する」行為として、五感に訴える豊かなコミュニケーションを、大切にした採用をお願いします。
河合 薫(かわい・かおる)
博士(Ph.D.、保健学)・東京大学非常勤講師・気象予報士。千葉県生まれ。1988年、千葉大学教育学部を卒業後、全日本空輸に入社。気象予報士としてテレビ朝日系「ニュースステーション」などに出演。2004年、東京大学大学院医学系研究科修士課程修了、2007年博士課程修了。長岡技術科学大学非常勤講師、東京大学非常勤講師、早稲田大学エクステンションセンター講師などを務める。医療・健康に関する様々な学会に所属。主な著書に『「なりたい自分」に変わる9:1の法則』(東洋経済新報社)、『上司の前で泣く女』『私が絶望しない理由』(ともにプレジデント社)、『<他人力>を使えない上司はいらない!』(PHP新書604)
河合薫の新・リーダー術 上司と部下の力学
上司と部下が、職場でいい人間関係を築けるかどうか。それは、日常のコミュニケーションにかかっている。このコラムでは、上司の立場、部下の立場をふまえて、真のリーダーとは何かについて考えてみたい。
http://business.nikkeibp.co.jp/article/manage/20121015/238087/?ST=print
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