http://www.asyura2.com/12/social9/msg/134.html
Tweet |
「避難民」に助けられて生きる私
欧州のチェチェン人から受けた「おもてなし」
2012年10月12日(金) 菊池 由希子
私が南相馬を初めて訪れたのは震災後のゴールデンウィークだった。ツイッター上で「気が向いたら遊びに来てください」と書き込まれたので、「それなら料理でも作りましょうか?」と返事をしたのがきっかけだ。
その後、福島第一原子力発電所から20キロ圏が警戒区域に指定され、津波で被災した人たちが身を寄せていた避難所に、警戒区域に家がある人たちも加わることになった。日本にこれほど多くの避難所ができたというのは、とても信じがたい光景だった。私は、避難所で、チェチェン料理のジジガルナシュやウクライナ料理のボルシチを振る舞った。調理する時は、避難所にいた子供から大人まで、みなで一緒に楽しく小麦粉をこねた。
避難所でチェチェン料理を子供たちと一緒に作った
珍しい料理だったにもかかわらず、好評だった
避難所にいた人たちにとっては見たこともない料理だったので、「こんなの食べられないよ」と吐き捨てるように言った人もいたけれど、ジジガルナシュは日本のすいとんに似ていることもあって「とてもおいしかったです。もう一杯ください!」とおかわりする人も結構いたので、私はうれしくなった。
チェチェン人から受けた暖かい「おもてなし」
なぜ、チェチェン料理なんていう、珍しいものを作ったのかって? それは、私は学生時代ずっとチェチェン戦争の犠牲になっている人たちを支援してきただけではなく、彼らと助け合って生きてきたからだ。戦争で命からがら欧州に亡命してきたチェチェン人や、戦争が終結していない状況でも、チェチェンに踏みとどまって暮らす人々がいたが、いつも彼らの温かい「おもてなし」を受けてきた。
日本にも大勢の「避難民」が生まれた3・11。私は3・11当時、グルジアにあるボロボロのチェチェン人難民キャンプにいた。ところが、私の故郷の東北で、多くの人が「避難民」となったことを知ったのだ。その時、チェチェンで受けたおもてなしの精神を、料理と共に日本の人たちへ伝えたいと思った。
東電社員有志が旧警戒区域でボランティア活動をしている
旧警戒区域小高区中心部
私はチェチェン人を助ける側ではあったが、同時に、各地の難民センターやチェチェンの民家ではいつも温かく迎えられた。駅や空港への送迎はもちろん、どこかに行きたければ必ず誰かが同伴してくれる。お腹をすかせることなど許さないというほど、おいしい料理を振る舞い、家で一番良い寝床を私に与えてくれる。戦争があっても、貧しくなっても、客人が来ることは喜びで、惜しむことなく客人をもてなすのだった。助け合いの精神もまた、親戚や友人の絆が深いチェチェン人から学んだ。
「いつも物をもらったり、助けてもらったりしてばかりで申し訳ない」
日本の被災地にある避難所でそんな声をかけられると、私は決まって、
「私も支援物資をもらったりして助けられて生きてきたんです。困った時は助け合いです」
と答えた。
旧警戒区域小高区で営業再開した理容院
水道が復旧していないため水を毎日運んでくる。髪などのゴミも敷地内に保管しておかなければならない
難民支援の活動がロシア政府の反感を買う
私がチェチェン難民を訪問するようになったのは、モスクワで学生をしていた2004年のことだった。ロシアからの独立を懸けて立ち上がった少数民族チェチェン人は、一度は戦争でロシアの大軍に勝利した。しかし、2度目の戦争は、ロシア軍対チェチェン戦士ではなく、ロシア傀儡政権チェチェン兵士対反政府系チェチェン戦士たちの戦いに変わり、戦争は泥沼化した。
難民は世界各地に散らばった。私はアゼルバイジャン、グルジア、ポーランド、オーストリアなどにいるチェチェン難民を訪ねて歩いた。そして、初めて訪問した難民センターで出会ったチェチェン人の少年が、ロシア軍による空爆で頭部に重傷を負っていると知った。
私は故郷の青森にある、弘前大学附属病院でその少年の手術ができるように寄付を募り、2006年に手術を受けさせるために日本に連れて行った。その後は寄付金の残金を使って、チェチェンの領土内で戦争の犠牲者への支援をした。
しかし、私はチェチェン人への支援活動を続けることでロシア政府の反感を買った。2008年9月、日本への一時帰国からモスクワへ戻ったところ、空港で再入国禁止を言い渡されたのだ。私は突然、自宅はおろか、それまで普通に生活していた、愛すべきロシアに入ることができなくなってしまった。
本当は命に危険に及んでもおかしくないと思っていたので、入国禁止くらいで済んで、私は救われたに違いない、これで良かったのだと自分に言い聞かせた。24時間軟禁されながら、私はこれからどうしようか考え、パリ行きを決意した。本当は少なくともあと3年、いや、できれば一生ロシアにいたかった。
旧警戒区域小高区海岸沿い
旧警戒区域小高区
日本へ一度強制送還された後、私はパリへと渡った。その当時、欧州には10万人以上、フランスだけでも1万人以上のチェチェン人コミュニティーができていた。そして、私はそこで難民と助け合いながら生活した。学生時代にもたびたび欧州のチェチェン難民を訪れていたけれど、今度は自分が難民同然になってしまった。支援者だったはずの私が、パリに行ってからは難民たちに助けられるのが当たり前になっていた。
南相馬で先日、「子供が世話になったから、ぜひ家に泊まりにきてほしい」とあるお父さんに言われた。
手土産を持って遊びに行ったところ、
「これは受け取れん。持って帰りなさい」
と言う。
「私もまだ味見したことないから一緒に食べましょう」
と言って、手土産はなんとか受け取ってもらった。そのお父さんの遠慮の仕方を見ていると、チェチェン人の男性を思い出した。よくプライドの高いチェチェン人の男性にお土産をあげようとすると、男性が女性にプレゼントすることは格好いいが、逆は格好悪いと感じるらしく、断られることがよくあったのだ。それで、たいていは奥さんや子供たちに渡すようにしていた。
「ここでとれたものを出せないのが残念だけど」
そう言って振る舞ってくれたイカやサンマなどの家庭料理は、青森の実家の料理によく似ていて懐かしかった。
波の音が聴こえるほど海が近い。海岸沿いにあった自宅は跡形もないが、30mほどの丘の上に残ったお店で、私を迎えてくれたのだ。
サンマでバーベキューをして歓迎してくれた
仮設住宅で地元の方が篠笛を演奏
寝食を共にすることで心を通じ合える
「もし津波が向こうの方角からきていたら、ここもダメだったと思う」
奥さんはこの見晴らしの良い丘の上から津波を見たという。
チェチェン人の支援をしていた時も、同じように人の家に上がりこんで寝泊まりして、料理を食べながら話しをした。寝食を共にし、日常生活の中の喜怒哀楽を通すことで、支援者とか被支援者という、どこか気を遣い合う関係は、次第にお互いに助け合う友人関係へと変わっていくのだ。
旧警戒区域小高区海岸沿い
旧警戒区域小高区
「南相馬は原発に近くて怖いと思われているし、実際に避難している地元の人も多い。それでも来てくれるボランティアの人たちはすごい」
南相馬では4月に警戒区域が解除されたことによって、泥かきや瓦礫の撤去など、ボランティアのニーズがまだまだある。宿泊場所もほとんどない状態なので、夜中に東京を出て、夜中に戻るというハードな旅程で通うボランティアも多い。
4月に警戒区域が解除されてから、ボランティアの手を借りて家や事業所の片付けをしたという小高区の人は、こう言った。
「泥かきのボランティアをお願いしたら、3時間でちりひとつ落ちてないくらいきれいに片付けてくれたんだ。みんな東京など遠くからやって来てくれる。
愚痴を言ってばかりで何もしようとしない人や、パチンコ通いをしてる人も南相馬には多いけれど、もっと積極的に地元の人間がボランティアに参加するべきだよな、と反省した」
「いつかうちに泊まりに来てね」に込められた思い
南相馬市役所前の二宮尊徳像
南相馬市役所前に二宮尊徳の銅像がある。1783年の天明の大飢饉で相馬藩では3分の1の領民が餓死し、加賀藩からの移民を受け入れた。大打撃を受け、数十年間藩の立て直しができなかった相馬家は、復興政策に二宮の報徳思想を取り入れたのだった。
報徳思想は、すべてのものにある徳(長所・価値)を認め、その徳を認めて報いる気持ちを持つことと、人は周りのあらゆるものの世話になりながら生きているので、その恩に感謝し、恩返ししながら生きていくことを説いている。この報徳思想に基づいて、相馬藩は農村を復興させることに成功したのだった。
「今こそ報徳思想を忘れてはならない」
飢饉で荒廃した相馬の地を救い、この地の人々に根付いていった報徳思想は、私がチェチェン人支援の中で身につけていったおもてなしや助け合いの精神に通じていた。
以前、私の実施した企画に参加してくれた小高区の方に、旧警戒区域の小高区を案内してもらったことがある。その時、野馬追祭場である小高神社や商店街、津波をかぶった当時のままの広大な田畑や海岸をまわったあと、半壊した自宅へと行った。
建てて数年しかたっていないという立派な家を前に、思わずため息が出た。しかし、家の中に入ってみると家具も何なく、すっかり空っぽだった。小高区は警戒区域が解除された今も宿泊が禁じられているので、彼は家族と一緒に市内で避難生活を送っているからだ。
旧警戒区域小高区
旧警戒区域小高区
「いつか私たちが帰ってきたら、うちに泊まりに来てね」
それは私にとっては聞き覚えのある言葉で、よく国外に逃れたチェチェン難民の家を訪れた時に掛けられた言葉だった。そして、その「いつか」はどれほど先のことなのかは、分からない。
心の復興は人にしかできない
壊れた建物や道路を修復し、町を復興することは、心を癒やすことよりもずっと簡単である。遠くから何か自分のできることを手伝わせてほしいと南相馬にやって来た者を地元の人がもてなすことは、良い印象を与え、再びその人に町を訪れてもらうことにつながるだろう。
確かに南相馬には観光名所が乏しく、名物は野馬追しかないと言う人も多い。しかし、町の魅力はお祭りや寺社だけでなく、そこで迎えてくれる住民が作るものなのだ。実際に、同じ東北でも私の生まれ育った青森県弘前市など内陸の町に比べて、南相馬は関東に近く気候も温暖だ。誰もが町を歩いていると、気さくに話しかけてくれる。
「まあ、きれいなスカート!」
「こんな暑い中、歩いてどこへ行くの?」
こんなふうに話しかけてくるのは、他の被災地と比べても南相馬が圧倒的に多いように感じられる。
私もこの魅力的な町で、地元の人たちと助け合っていきたいと思う。そんな風に人とのかかわりあいを大切にする報徳思想は、津波と原発事故で被災した地域の復興だけではなく、3・11によって傷つき、疲労した心の復興につながるのではないだろうか。
菊池 由希子(きくち・ゆきこ)
ロシア語通訳、NGO「ダール・アズィーザ」事務局長。1983年青森県弘前市生まれ。2000年チェルノブイリ渡航。2002年〜08年、モスクワ国立大学留学。卒業資格「国際関係専門家」。2008〜10年パリ在住。10年9月より大阪大学大学院国際政策研究科博士後期課程在学。2011年10月、キルギス大統領選挙OSCE/ODIHR国際選挙監視団要員として日本政府より派遣される。ツイッターのアカウントはhttps://twitter.com/azizaroom
南相馬から世界を考える
東京から福島県南相馬市に移り住んだ著者が見る、原発事故後の南相馬の今と、南相馬から見た世界の今。ロシアで学び、チェチェンほかコーカサスの国々に詳しい著者ならではの視点で、「南相馬」を相対化しながら考えるコラム。
http://business.nikkeibp.co.jp/article/report/20121004/237632/?ST=print
この記事を読んだ人はこんな記事も読んでいます(表示まで20秒程度時間がかかります。)
スパムメールの中から見つけ出すためにメールのタイトルには必ず「阿修羅さんへ」と記述してください。
すべてのページの引用、転載、リンクを許可します。確認メールは不要です。引用元リンクを表示してください。