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経済・経営・社会開沼博 闇の中の社会学 「あってはならぬもの」が漂白される時代に
【第10回】 2012年10月9日 開沼 博 [社会学者]
第10回
「オニイサン、マッサージいかがですかー?」
大学院卒トライリンガル中国人マッサージ嬢の来し方
「オニイサン、オニイサン、マッサージいかがですかー?」。都市部のみならず、地方の繁華街に足を運んだ際も、アジア系外国人女性による客引き行為を目にすることがあるだろう。日本全国に林立する「中国エステ」で働く女性たちは、どこからやって来て、なぜそこで働くのだろうか。
社会学者・開沼博は、「中国エステ」を経営する女性の言葉に耳を傾ける。3ヵ国語を流暢に操り、日本の大学院まで卒業したエリートがなぜ、ネオン輝く夜の世界に“生き場”を求めたのか。そこには、彼女たちの姿に気づかぬ“ふり”をして通り過ぎる多くの者が知る由もない、それぞれが歩んできた濃密な人生がある。
第11回との2回連続で、一人の中国人女性の10年を通して、彼女が異国でもがきながら追い続けた「豊かで幸せな生活」の現実に迫る。連載は全15回、隔週火曜日更新。
「『豊かで幸せな生活』が欲しかった」
「失礼な疑問」に回答する「中国エステ」のママ
地元でも名門と名高い大学を卒業して中国から来日し、大学院では論文まで執筆して修士課程を修了。そして就職活動も行なっていた。
「中国エステ」店内には間仕切りを設けた個室が並ぶ
2度目の「中国エステのママ」として多忙な日々を送る彼女が、日本にやって来た「本当の目的」とは何だったのだろうか。具体的な将来の展望があったのか。それとも大学院はビザ取得のための“形”に過ぎず、本心は“金儲け”がしたかっただけなのか――。
チェ・ホアは、私の「失礼な疑問」に答える。
「うーん、そのへんは微妙なんですよね。正直言えば、お金という部分が大きかったのは事実。だけど、それだけじゃないですよ。簡単にいえば、『豊かで幸せな生活』が欲しかった。大学院に行ったのはたしかに“形”だったかもしれない。でも、就職は本当にしようと思ったんですよ。日本の企業で働きたいと思ってた」
「ただ、学生時代、アルバイトに忙しくて、本当にやりたいことが見つからなかったというのはありますね。『お金を稼がなくちゃ』っていうプレッシャーが大きくて、目の前の生活に流されてしまった。就職しようと思ったのも、いま思えば“安定”がほしかったから。それだけだから、もっとやりたいこととかが明確で、専門的に深く勉強してきた人にはかなわないですよね」
詳細は後述するが、彼女は中国で民間企業に一度就職しており、一定程度の実務経験も持っていた。
「大学院に通っている時の就職活動では、私は服やアクセサリーが好きなので、アパレル会社をまず受けました。ショックだったのは面接で着ていった服と靴を担当者に批判されたこと。『正直、あまり洋服が好きな方のセンスには見えませんが』みたいなことを言われて。自分でもわかってました。いくら洋服が好きだといっても、オシャレな日本の女のコたちのセンスにはかなわないなって思ってたし。だけど、それがすごくショックだったんですよね」
「あとはもう適当」だった。外国人を募集している企業の面接を手当たり次第受けていった。数十社に応募した結果、面接までたどり着いたのは5社ほどだったと記憶している。そして、すべて落とされた。
「将来の展望とか必ず聞かれるんだけど、その辺を深く考えていなかったから、曖昧なことしか答えられなかったのが原因かなって思ってます。あと、外国人の場合、単に日本語がうまいだけじゃだめで、抜きん出て優秀じゃないとなかなか雇ってもらえないのかもしれませんね。私の場合、就活中も毎日夜中まで働いていたし、結局『日本での就職』というものに対して、本気になってなかったのかもしれません」
冬はマイナス30度、あばら屋で送った極貧生活
チェ・ホアは、1974年、中国東北地方の郊外の村で生まれた。両親ともに朝鮮族。弟と妹を持つ三人きょうだいの長女だ。
中国に居住する朝鮮族には大きく二つの「パターン」があるという。一つは清朝初期に移住してきた「古くからの朝鮮族」、もう一つは日本による韓国併合以降に「満州」に移住してきた「新しい朝鮮族」である。チェ・ホアの一家は後者にあたり、親戚の多くは今も韓国で生活しているという。
中国朝鮮族(韓国系中国人、朝鮮系中国人などという呼称もある)は中国における少数民族の一つであり、現在約200万人存在するといわれている(黒竜江省に約45万人。もっとも多いのが延辺の朝鮮族自治州で80万人)。中国の東北地方(旧満州)にその大半が居住し、日本における朝鮮学校と同様、東北地方各地に朝鮮族専門の小中高校があり、国籍は中国でありながら、朝鮮族特有の教育を行っている。
「子供の頃は本当に貧しかったですね。家は土とレンガでできた平屋で、玄関を入ると土間があって、そこにいろんな家畜がいました。牛、豚、馬、ニワトリ、犬。あと、六畳と四畳半くらいの部屋が二つ。暖房はオンドル(床下暖房)だけ。私の田舎のあたりは、冬になるとマイナス30度くらいになってすごく寒い。でも、子供の頃はそんなに辛いと感じたことはないですね。それが当たり前だったし、スケートをして遊んだり、子供は平気なんですよ。でも、年寄りたちは大変だったみたい」
「日本にいる朝鮮族のネットワークは結構なもので、バレたら色々大変なので……」と、出身地の詳細を明かすことは許されなかったが、今も朝鮮族が多く暮らしているその村で生活した日々は、鮮明に脳裏に焼き付いている。
「私が生まれ育った村は、今でこそ開発が進んでけっこう便利になったけど、昔は何もなかった。服を買いに行くにも歩いて2、3時間かけて街まで行く。でも、めったに街に行く機会なんかありません。ましてや私の住んでいた省の最大の都市、A市なんて夢のような場所でした」
チェ・ホアが暮らしていた村では、基本的にどの家庭も自給自足のような生活を送っていた。現金収入を得るため、彼女の母親はキムチやどぶろくを作り、ニワトリの卵を集め、それを近隣の町に持って行く。そこで暮らす漢民族を相手に路上で売り歩くためである。「でも、そういう人(食べ物を売る朝鮮族の女性)はいっぱいいるので、現金を得るのはすごく大変なことでした」と語る。
「うちの父は悪い人じゃないんだけど、あまり働きません。農作業も母に任せて、自分はお酒を飲んだり、麻雀に行ったり。周りもそういう男の人は多かったですね。表向きは威張ってるんですが、女が家庭を仕切っている。そういう父を恨みながらも、私自身は、父のことは嫌いじゃなかった。私のことはすごく可愛がってくれたし」
「自分自身は、母に似てとても働き者だと思います。あと我慢強い性格だと思う。お金を稼いだり、貯めたりすることも得意なほうだと自分では思ってます。とにかく、子供の頃は、日本にいたら想像できないような貧しい環境で育ちました」
現在では、あばら屋のような生家はなく、その跡地には立派な、日本の公団マンションのような集合住宅が建っている。
トライリンガルの才女は国家重点大学に推薦入学
チェ・ホアは日本語が実に堪能だ。いわゆる「中国語訛り」がほとんど感じられない。さらに、韓国語も習得しており、中国語・韓国語・日本語をネイティブ同等に操る「トライリンガル」でもある。
「周りの朝鮮族もそうでしたが、家では基本的に韓国語で話して、外では中国語。うちの両親は中国語もできるけど下手です。朝鮮族の学校では、中学から外国語を一つ学ぶんですが、英語か日本語の選択制でした。最近は英語を選ぶ人が多いみたいだけど、10年くらい前までは日本語を選ぶ人も多かった。私はずっと日本語だったので、日本に来る前からある程度日本語を話すことができました。そういった語学的な意味での順応力は、普通の漢民族より、私たち朝鮮族のほうが高いかもしれませんね」
彼女は高校卒業後、推薦で公立大学に進学。親元を離れ、寮生活を始めた。
成績優秀な朝鮮族の子弟が大半を占め、中国の「国家重点大学」の一つに指定されている省立の大学だった。そこでは、語学関係の学科に進み、朝鮮文学、中国文学、日本文学を学んでいる。
「高校生の頃まではやっぱりアメリカに憧れていたんですが、アメリカは遠すぎるし、英語は苦手で。でも、私は田舎育ちだから、外国、先進国に憧れる気持ちはずっとあって。だから大学でも、やっぱり日本の文学や歴史に一番興味を覚えました。でも学校の教科書は面白くなかった。当時すでに、日本に住んでいた漢民族の知人に頼んで、日本の新しい小説や雑誌や映画、ドラマなどを送ってもらいました。村上春樹の『ノルウェイの森』や吉本ばななの小説を読んだり、『an・an』とか日本のファッション誌を読んでいました。SMAPのことを知ったのもこの頃」
大学では当時急速に広まっていったインターネットにも触れ、様々な情報を集めた。日本の映画やドラマを見ては、そこに映し出される街や文化の「発展」に驚き、日本への憧れが日に日に大きくなっていった。
「でも、私が大学時代を過ごしたのは90年代前半。朝鮮族の中で日本に留学している人など聞いたことがありませんでした。しかも、うちは貧乏。留学費用なんて出してもらえるわけもない。だから、日本に行くというのは単なる夢のようなものでした」
学費捻出のためにアルバイトに明け暮れる日々
大学時代はアルバイトに明け暮れた。実家にカネはない。学費を稼ぎ、貯金するためである。
「マッサージ、家庭教師、ウェイトレス……いろいろ掛け持ちしてやってました。だから、あまり勉強はできなかったですね。学費を稼いで、卒業後の蓄えを少しでも作りたいと思ってた。振り返ってみれば、あの頃から、私の生活はずっと仕事とお金を中心に回ってきたような気がします。本当はもっと勉強とか趣味とか、学生らしい遊びもしたかったんだけど、強迫観念のように『稼がなくちゃ』という思いにとらわれてきた気がします」
その状況は今も変わらず続いている。父親は年をとるにつれてますます働かなくなり、韓国に肉体労働の出稼ぎに行くことがあっても、稼いだカネを全部自分が遊ぶために使ってしまう。そのため、母親も仕方なく韓国へ出稼ぎに行かなければならず、掃除やマッサージ、アカスリなどの仕事を続けていた。
「私には弟と妹がいます。ほとんど母が家計を支えていました。でも、生活はぎりぎりです。両親はどんどん不仲になっていくし、私は長女だから、常に不安でいっぱいでした。年とともに母も父も老いていきます。長女の私が頑張って稼いで、両親を楽にさせてあげたいし、家も買ってあげたい。弟たちの学費も稼がなくちゃいけない。そのうえで自分だって、やっぱりオシャレもしたい。そのためにはとにかく稼がないと。いつもそんな気持ちだったんです」
「それに一口に中国といっても広い。すごく広いです。北京や広州、上海などの大都会は発展しているけど、そうじゃない所のほうが多い。特に東北地方は発展が遅れていて、生活レベルが低い。中国国内でも格差がすごく大きいんです。私が中国にいるときにもすでに急速な経済成長は始まっていて、上海で成功した社長の話とかをテレビで見るたびに、同じ中国人とは思えなかった」
朝鮮族は中国国内では少数民族だが、差別のようなものを感じたことはほとんどなかった。生まれ育った村も、大学も、比較的朝鮮族が多い環境だったことも理由の一つかもしれない。ただ、「中国はコネがものを言う社会。どうしても、そもそも人口の少ない朝鮮族は不利」だった。
また、経済的、政治的なしわ寄せがおよぶ「少数民族の辛さ」が存在したことも確かである。ただでさえ90年代の中国全体では留学へのハードルも高く、それが拍車をかけた。そのため、「国内で何とかお金を稼がなければ」と毎日不安を抱えており、閉塞感も大きかったという。
「でも、忙しいなか、恋愛もけっこうありました。自分で言うのも変ですが、けっこうモテたんです。ただ、私は“だめんず”が好きなんで、失敗ばかり。お金をだましとられたり、中絶したこともあります」
チェ・ホアが300万円貯蓄できた語りたくない理由
中国の公立大学を卒業後は、朝鮮族の中学校教師となった。しかし、現地での教師の給料はひどく安いため、とても家族を支えることなどできない。「もっと稼ぐことができる仕事を」と、教師になってから2年後、大連のアパレル企業に転職し、営業担当として中国各地を飛び回った。
「得意なこととか、趣味と言えるようなものはあまりないんですが、洋服とかアクセサリーは大好き。そういう意味でその会社に入れて、最初はすごくやりがいを感じました。給料は教師時代とそんなに変わらなかったけど、できたばかりの小さな会社で、将来性を感じたんです」
その当時、中国の急速な経済成長はすでに始まっていた。
「中国人の中で、『ファッションにお金を使う余裕』が出てきていました。それまで、日本のファッション雑誌を読んできた私は、中国の一般的な人たちのファッションがずっと気に入らなかった。『ダサイなあ』って思ってたんです。でも、それはみんなが貧乏だったから。経済が発展すれば、特に若い女の子なんかは必ずファッションに興味を持つし、お金を使うようになる」
その会社で、チェ・ホアは、バイヤー兼販売・経理・人事とすべての役割を任せられていた。
「最初のうちは『私の能力を買ってくれているんだ』と嬉しくて、休みもとらず頑張っていたんですが、実はそうじゃなかった。あるとき、私より5歳年上の社長に呼び出されてこう言われたんです。『君はよく頑張っている。私としては今の倍は給料を出したいと思っているんだ』って」
この一言で彼女はピンときた。これまで、事業に関わる実務、経理の帳簿までをすべて見てきたチェ・ホアは、会社の利益がまったくあがっていないばかりか、毎月赤字であることを知っていたのである。
それにもかかわらず、社長からの「給料を倍にする」という提案。普通の話ではないと悟った。これはいわゆる「太子党」、吉林省の共産党幹部の師弟でもあり、事業の採算度外視に「遊び」の一つとして会社を経営する社長の「愛人」にならないかという提案だった。
「まだ20代の半ばでしたし、とにかく私は稼いで貯金したかった。すいません、この件についてはこれ以上話したくないんです……」
それでも、アパレル企業に入社してからの3年間、チェ・ホアは必死に会社と社長のために尽くした。
「そこでの3年間は、正直辛かった。その代償として、私は日本円で300万円ほどのお金を貯めることができました。でも、精神的にはボロボロになり、中国で生きることに嫌気が差してきていました。どんなに頑張っても、収入的な限界もあった。しばらく忘れていた日本への憧れが、もう一回よみがえってきました。『とにかく、中国以外のどこかへ行きたい』、そう思っていた。そうなると、日本しかありません。我慢と引き換えに、日本へ留学できるくらいのお金を持つようになっていました。言葉も問題なかったし」
2002年、チェ・ホアは来日を果たした。当時は28歳。借金や、より割安な裏ルートを利用して留学する方法があることも知っていたが、全額自費での来日だった。
そして、新大久保の日本語学校に入学することになるが、「就学ビザ」の期限は2年間。半年ごとに更新があり、日本語学校の出席率や成績によっては打ち切りになってしまう。しかし、大学や専門学校等の試験に合格できれば、在学中は有効な「留学ビザ」に切り替えることができる。
周囲には日本語をまったく話せずに来日し、在籍期限となる2年間を通して日本語学校に通う者のほうが多かった。しかし、彼女は、来日した年に日本語検定一級と大学院の入学試験に合格することになる。
「留学生10万人計画」で転機を迎えた外国人事情
ここで、「日本社会と留学生」の関係を簡単に振り返りたいと思う。
今日では、例えば都心のコンビニエンスストアや居酒屋において、留学生と思われる外国人が働いているが、当時は、彼らがここまで「日常」に入り込んでいる状況になかったことは間違いない。そんな状況が構築され始める転換点の一つとして、中曽根首相が1983年に示した「留学生受け入れ10万人計画」が挙げられるだろう。
この頃から、入国管理局による留学生の出入国に関する方針が徐々に変化し、一方では、天安門事件やソ連崩壊・冷戦崩壊に象徴されるような国際秩序の変化、他方には、現在「新興国」と呼ばれる国々の経済成長があり、人の流動性が高まっていった。それ以降、不可逆的ともいえる留学生の増加傾向が今日まで続いている。
中国に話を絞れば、1980年代後半から90年代初頭は、上海や北京、広州といった経済的にゆとりのある地域からの留学生が多かったとされる。とくに歌舞伎町など、日本の巨大繁華街では、最大勢力である上海出身者系のグループと北京出身者系グループとの対立・抗争が先鋭化し、有名な「青龍刀事件」なども発生している。
その一方で、正規の就学生や留学生のほかに、「蛇頭」と呼ばれる、違法組織の手引きで密入国する者が増えていることも新聞・テレビなどで報じられるようになっていった。今も多数存在するが、新宿の区役所通りに「中国パブ」が林立するようになったのもこの頃である。
そして、1990年代後半から2000年代になると、中国からの留学生の中で、相対的に貧しい東北地方などを出身地とする就学生、留学生の存在感も大きくなっていった。チェ・ホアの来日もこうしたムーブメントの中にあった。
池袋の「富士そば」ですすった思い出のたぬきそば
2002年の春、日本にやってきたチェ・ホアは、前述のとおり、就学生として新大久保にある日本語学校に入学した。1年3ヵ月コースで、入学金や授業料等の総額は約100万円。住居については、同郷の友人が住む板橋のアパートにとりあえず居候した。
はじめて来日した日のことを、彼女はこう振り返る。
「言葉の不安はなかったけど、やっぱりはじめての海外、すごく緊張してましたね。成田に着いて、バスに乗ったんですが、周りに何もなくて驚きました。『え?これが日本なの』って。緊張のあまり、前の晩から何も食べてなかったんです。機内食もほとんど喉を通らなくて。でも、バスに乗ったら安心したのか、急にお腹が空いちゃって。お腹がぐーぐー鳴って恥ずかしかったのを覚えてます」
池袋駅の近くでバスを降り、とにかく食事をしようと、大きなスーツケースを引きずりながら街をさまよった。
「右も左もわからないから、怖かった。当時、ガングロでしたっけ?真っ黒な顔をして茶髪とか金髪に髪を染めた女子高生がいっぱいいて、びっくりしたのを覚えてますね。私は池袋の東口周辺を、とにかく安そうな食堂を探して歩き回りました。300万円の蓄えはあったけど、日本語学校の授業料があるし、落ち着いたら部屋も借りなくちゃいけない。お金の問題が一番心配でした」
街を歩くと、客引きの中国人女性が道行く人々に声をかけている。すでに来日していた友人から話としては聞いたが、これほど多くの中国人が東京の繁華街で働いているのか、と驚きもした。
「三越デパートの裏あたりを歩いていたら、ショーウィンドウに麺類の見本を飾ったお店に目が止まりました。『富士そば』です。『富士山の富士かぁ』。そんなことをふと思いました。値段を見ると、300円とか400円とかすごく安い。東京の物価の高さは聞いていたので、こういう店もあるんだと安心しました。私は、たぬきそばを食べました。日本のそばを食べたのはこれがはじめてです。醤油の味が濃くて、私の口にすごく合いました。空腹だったし、まだ肌寒い時期だったので、すごくおいしく感じました。今でも、富士そばを見かけるたびに来日した当時の緊張した気分を思い出しますね」
「学校に通うようになっても、外食といえば吉野家とか松屋、マクドナルド、立ち食いそば屋みたいな安いお店ばかりでした。吉野家の牛丼はやっぱりおいしい。中国人の間でも大人気です。あとはホカ弁かコンビニのおにぎり。私は料理はあまり好きじゃないので、基本的に家ではあまり作りませんでした」
そして、事前に入学を決めていた日本語学校に通い始めることになる。
「やっぱり、日本語の基礎はある程度中国で勉強してきたので、授業は退屈でしたね。それよりも、すぐに始めたアルバイトに精を出しました。普通の居酒屋で時給850円。夕方6時から12時まで。ホールの仕事です。休みは日曜日だけでした。日本人の従業員も優しくて、居心地は悪くなかったんです。でも、私はもっと稼ぎたかった」
「月収100万円以上も」の誘い文句でマッサージ嬢に
彼女が居酒屋で働き始めて2ヵ月ほど経った頃のこと。近くのビルの7階に「中国エステ」の店が入居していることに気がついた。そして、ビルの前では中国人女性が客引きをしている姿がある。
「アルバイトが終わった後、思い切ってキャッチの女の子に声をかけてみました。そして、仕事の内容や、お金のことを聞いて。たまたまその女の子が私と同じ省の出身で。あ、漢民族だったけど、故郷が近いから話があって、すぐにお店のママに紹介してくれたんです。ママは40歳くらい、大連の人でした」
なお、「中国エステ」といっても、肌のケアや痩身などを掲げる「エステティックサロン」等とは何の関係もない。詳細は後述するが、「主に男性を対象に中国人(韓国人や日本人が働いていることもある)女性がマッサージを施す業態」を指し「中国式リラクゼーション」「メンズエステ」「アジアンエステ」などという看板を掲げることもある。
チェ・ホアは、先に日本にやって来ていた友人から、「中国エステ」で働く者が周りにいるということをなんとなくは耳にしていた。
「学生の時にマッサージのアルバイトをやったことはあったんです。私の地元のほうは、日本に比べてマッサージのお店、多いですね。マッサージは元手がかからないから、とくに女性の仕事として人気があります。私が働いていたのは普通のマッサージ店でした。そこでマッサージの技術を学びました。でも、一日働いて、当時で200円位かな。それが日本では1万円とか2万円にもなるって聞いて、最初はびっくりしました」
「中国エステ」を経営する「ママ」は彼女を一目見ると、こう言ったという。
「あなた、すぐに人気嬢になれるわよ。日本語が上手だし、あなたみたいな小柄で可愛い感じのコが好きな日本人は多いの。慣れれば、月に100万円以上稼ぐこともできる。今日からでもうちで働いてみる?」
下着のような姿でサービスを行う店舗もある
彼女は「これだ」と思った。しかし、店の控室でママと話していると、個室から客とマッサージ嬢の「なんか恋人同士がいちゃいちゃしてるような声」が漏れ聞こえてきて不安を覚えた。チェ・ホアはママに質問を続ける。
――ただのマッサージですよね?
「うちの店は基本的に性的サービスはない。1時間6000円の基本コースが普通のマッサージ。ただ、基本コースのお客さんはあまりいない。店の“売り”はオイルマッサージとパウダーマッサージ。それで、股間に触ったりはしないけど、ぎりぎりの部分をソフトに触ったり、揉んだりはする。でも、そのぐらいまで」
――お客さんから触ってきたりとかないんですか?
「うん、それはもちろんあるわよ。酔って来店するお客さんも多いし、風俗マッサージ店だと思って来るお客さんもいるから。でも、そのへんは女の子次第ね。どこまで許すか。もちろん無理やり、強引なお客さんがいたら、私に連絡してもらえば、すぐに受付にいる男性スタッフに対応させるから安心して」
それ以外にどんなやり取りをしたのか、細かいことまでは覚えていない。ただ、その夜からエステ嬢として働き始める、とその場で決断したことだけは確かだった。
まじめに働くサラリーマンの本音と向き合う日々
スタッフのために生活用具一式を揃えている店舗も
「お金を稼ぎたいというのはもちろんですが、なんとなくこの仕事は私に向いているかなって、ピンときたんです。それと店に無料で住み込みをさせてもらえるのもありがたかった」
現在、飯田橋にあったその「中国エステ」店はもうなくなっている。店で働くマッサージ嬢が客引きもしていた。体力を求められる仕事だったが、源氏名を「ひとみ」と名乗ったチェ・ホアは仕事に邁進していた。
「まだ20代で元気もありましたからね。あの頃はけっこう稼ぎました。入店して3ヵ月で売上ナンバー1になっていましたね。けっして真面目で健全な仕事だとは思いませんが、私にとっては貴重な体験だと思ったし、楽しかったです」
日中、忙しそうに、まじめに働いている日本のサラリーマン。マッサージの仕事を通して、彼らが基本的には皆優しく、親切でもあることがわかった。その一方で、「酒が入るとすごく甘えてきたり、足で顔を踏んでくれとか、最初はびっくりしたけど、みんなストレス抱えながら頑張っているんだなとか、いろんな趣味があるんだなあって感心しました」。
「あと、お客さんから学校では教えてもらえない、日本の本当の姿をいろいろ教えてもらえたのが大きいですね。日本的サービスとか気配り、配慮みたいなものを学べたこともその後の私にとっては意味のあるものでした」
朝9時から午後3時ころまでは日本語学校へ通い、すぐに店に戻って、客引きとマッサージを行なう。客がいない時間は個室で日本語検定の勉強をし、睡眠をとり、深夜になって客が来れば、また起きて仕事をする。そして朝、再び学校へ。非常にハードな生活を続けていた。
そして、日本語学校入学から半年で日本語検定一級を取得し、その年の秋、首都近郊の私立大学大学院修士課程(経済学)に留学生枠で合格。大学院近くにワンルームの部屋を借りたが、そこは荷物置きとして使っていたようなもので、実際は飯田橋のエステで寝泊まりしつつ、大学に通う日々が続いた。
その後、修士課程2年目の修士論文執筆が佳境となる時期を迎え、学校に通いやすいよう自宅に戻り、地元スナックでアルバイトをすることになるまで、その生活は続いたのだった。
「できそうで、できない」ことが「健全店」の魅力
ここで、「中国エステ」の実態についてもう少し詳しくみていこう。
この類のエステは、大きく二つに分けられる。表向きは性的サービス禁止をうたう「健全店」、そして「抜き」(手や口等を使った性的サービス)や「本番行為」がサービスに含まれる「風俗エステ」(完全に違法)である。チェ・ホアが働いていた店は前者の「健全店」だった。当然ながら、「風俗エステ」のほうが客単価が上がる一方で、摘発リスクが高まる。
「単純なマッサージ」と異なることは明白だが、それでは、客にとって「単純な風俗」とは何が違うのか?
20年近く前から「健全店」「風俗エステ」双方の「中国エステ」に出入りしてきたという40代のAはこう語る。
「よく『抜き』なしの健全店になぜ行くのかって言う人はいる。『風俗に行ったほうがいいじゃん』と。オイルマッサージなんかは『抜き』がなくても、日本のファッションヘルスやデリヘルと同じような値段なんだよね。なおさら『だったらなぜ』と、不思議に思う人がいるのもわかる」
「健全店がなぜなくならないのかっていうと、『できそうで、できない』からこそ通いたくなる、という男の心理をうまく突いたところじゃないかな。健全店をうたっている店でも、『抜きなし』というルールは絶対ではない。女の子次第、客次第。『その先』も全然あり得る。おれも、何度か『健全店』といわれる店で抜いてもらったこともあるし、飲みに誘って中国語を教えてもらったり、故郷の話を聞いたり、といったことも何度もあった。『予測不能なウキウキ感』が『中国エステ』、健全店にいくヤツにとっての魅力としては大きいよね」
「もう一つ、それともつながるけど、日本の風俗店との一番の違い、これは健全店に限らず『中国エステ』全般にいえることだけど、『アットホームで自然なコミュニケーション』があるっていうこと。日本の風俗店は『きっちりと仕事はしてくれる』が、システムから料金、サービスまですべてにおいて合理的というか、システマティック。『1万円払えば1万円分の満足感』が得られるが、何か物足りない。終わってすっきりもするけど、むなしさにも襲われる」
「それが、『中国エステ』の場合、従業員の女の子が住み込み状態。長く通っているなかで、常連になった店で、サービスを受けた後、女の子たちが作った料理を食べて皆で談笑したり、深夜、みんなでカラオケに行ったり、そのまま空き部屋で朝まで寝させてくれたり、帰国していた女の子がお土産で買ってきた酒やたばこをもらったり。そんなシステマティックではない、自然なコミュニケーションが生まれやすい環境がある」
当然、「中国エステ」店が増加し、競争も激しくなるなか、Aが語る「非・システマティック」な側面は失われてきてもいる。ただ、90年代までの「中国エステ」店の多くに麻雀台があり、客が少ない時間帯は、従業員たちがカネをかけながら麻雀やトランプに興じ、また常連の日本人客もそこに参加するような風景が確かに存在したという。
人々が「中国エステ」に魅了される理由
また、ここ5年ほどで「中国エステ」に出入りするようになったという30代のBもこう語った。
「単純に肩が凝っていて、それを解消したいなら、普通のマッサージ店に行くだろうね。値段もそのほうがずっと安いし、うまい人の店にあたったら本当にコリをとってくれる。最近はそういう『日本人・本格派マッサージ』に対抗しようと安い値段で中国人・韓国人の男性がマッサージしてくれるような店も出てきているよね」
「じゃあ、『中国エステ』に来る男性客の真の目的が何かというと、単純に若いコに触ってもらいながら、会話も楽しみながら、ちょっとわくわくした気分になりたい、っていうところだと思うよ。まあ、キャバクラに行く気持ちと近いかな。だとすれば値段がある程度高くても理解できるよね。『常連になれば、もっと先があるんじゃないか』っていう期待を持って通う人も多いだろうし、それは普通の飲み屋とか風俗店とは違ったものだよね」
Bが語る理由がすべてではないにしても、「中国エステ」がこれだけ全国に拡大した背景には、豊かになった日本のどこからも消えていった「貧しさ」「勤勉さ」「コミュニティの親密性」がそこに残っているという現実があったのは確かだろう。
古くて、泥臭くて、ダサくて、適当さもはらんではいるが、バブル後の繁華街にあっても、人間味に溢れた大家族的なコミュニケーションが残存した特異点として、「中国エステ」に魅了された者が少なからずいた。そうであるが故に、中国エステという業態が生きながらえていったのかもしれない。
新興国の成長と格差、国際化が進んでも乗り越えられない壁。「豊かで幸せな生活」を求めて来日したチェ・ホアは、この後に「中国エステ」の経営者となっていく。「健全店」か、それとも性的サービスを伴う「風俗エステ」なのか。日本での安定した生活を求めた彼女が選んだ道とは。次回更新は10月23日(火)を予定。
http://diamond.jp/articles/25916
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