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闇の中の社会学 「あってはならぬもの」が漂白される時代に
【第9回】 2012年9月25日 開沼 博 [社会学者]
第9回
「過激派」アジトの革命戦士たちの現在
「普通の市民」の中で
反韓流を掲げたフジテレビデモや紫陽花革命と称される脱原発デモ、さらには、生活保護バッシングを批判する新聞意見広告。いずれも、インターネットを効果的に活用して実現したと言われている。もちろん、インターネットメディアの発達だけが要因ではないはずだが、ここ数年、かつては不可能だった「普通の市民」による社会運動が実現し、話題になることが増えてきた。それでは、ここで指す「普通の市民」とは、いかに定義されるものなのか。
そもそも、そのような不思議な表現がされる背景には、かつての社会運動が「普通『ではない』市民」のものであった歴史がある。特定政党の関係者、市民運動家、学生運動や労働組合……いつしか彼らが「耳目を集める社会運動」の主要な担い手となり、その一部はテロや内ゲバをいとわない「過激派」「極左暴力集団」となった。そして「社会運動」への世間のイメージはある側面に偏ったものとなり、「普通の市民」から忌み嫌われる存在となってもいった。
社会学者・開沼博は、公安警察が24時間体制の厳重監視を行う「過激派」Aの活動拠点に潜入した。鉄製の入り口をくぐった先に目に飛び込んできたのは、「普通」としか表現できない日常生活。「普通の市民」と「普通の市民ではない」活動家を隔てるものは何か。恣意的に引かれたその補助線の先に、私たちは何を見つけ、何を見失っているのか。
今も「暴力革命」を目指す彼ら「過激派」が描く未来、進む先。最盛期を知らない20代の若者も参加する社会運動の現在から見えてきたものとは。タブーに挑んだ渾身のルポ。連載は全15回。隔週火曜日に更新。
薄っぺらくて“アツい”「革命」の時代に
「ゲンパツイラナイ」「ゲンパツイラナイ」……。
先導する女性の声に呼応して響くシュプレヒコール。そこにいる人々の表情は、「暗かったり」「重々しかったり」……とは程遠い。笑顔を浮かべる若者も年長者も、男女問わず、それぞれが自由に声をあげて体を動かす。しかし、その一群の姿からは、他の参加者とは違う、どこか“慣れた”様子が感じられる。
日本の脱原発デモはもちろん、ジャスミン革命、オキュパイ・ウォールストリート、中国の反日デモなど、近年、世界的に「これまでとは違った形での社会運動」の盛り上がりが伝えられ続けている。
55年体制下には確かに存在した、保守と革新、右翼と左翼、体制と反体制、といったイデオロギー対立。そして、そのもとで行われる社会運動は、少なくとも日本においては、いつの間にか「古い」「一部の特殊な人だけが参加するもの」として社会の片隅に置かれ、大衆的な支持を失っていった。
いや、支持を失うだけならまだよかったが、むしろ、インターネット上では「プロ市民」などと揶揄されるような、忌避・嫌悪の対象にすらなっていった。かつての“アツさ”に比べれば、ここ20年ほどは、社会運動にとって「冬の時代」だったとも言えるであろう。
しかし、その「冬の時代」を経て、かつて社会運動に対して存在した実体験に基づく「アレルギー反応」はいくぶん弱まっているようにも見える。その理由を(「一部の特殊な人」ではなく)「普通の市民」が、(「古いもの」ではなく)「新しい手法や言葉、集い方」を感じさせる工夫をしているからだと見る者もいるが、それが事実かどうかはわからない。
「普通の市民」と「普通の市民ではない」活動家が共存
冒頭の「どこか“慣れた”様子が感じられる」彼らが、いわゆる「普通の市民」なのか「普通の市民ではない」のかといえば、「普通の市民ではない」のだろう。彼らは警視庁公安部、各道府県警備部や公安調査庁などが「過激派」としてマークし続けており、また「暴力革命」を否定し、議会制民主主義に則った政治を肯定する諸政党が、「極左暴力集団」と呼んで忌み嫌う新左翼党派に属する者たちの集団なのだから。
もちろん、「普通の市民ではない」彼らは、昨今の脱原発に関するデモやその周辺に存在する社会運動を構成する群集全体から見たら、圧倒的マイノリティだ。彼らの存在をことさら過大に強調することは適切ではない。ただ、彼らをはじめ、「普通の市民ではない」者たちがそこにいることは間違いない。そして、彼らは「一部の特殊な人」として、すでに「普通の市民」とされる主流勢力、そこにいるマジョリティからは、嫌悪の眼差しと排除を望む言葉を投げつけられてもいる。
繰り返すが、全体からすれば彼らは圧倒的なマイノリティであり、主導権を握る立場からは遠く離れている。彼らがデモに存在しているからといって、「そこにある群衆は『普通の市民』の集まりである」と賞賛する声に対する否定にならないことは確かだろう。
いつしか散開の時間となり、「普通の市民」の多くが充実感と共に、家に、週末の飲み屋へと流れていく。そして、「普通の市民ではない」彼らも帰路につく。新左翼党派、すなわち「過激派」「極左暴力集団」Aの公然アジトへと。
街中にひっそりと佇む「過激派」Aのアジト
「内ゲバ」「テロ」「殺人」「洗脳」「公安」……。
今の時代、「過激派」と耳にして、その具体的な集団名を、そこに所属する者たちの姿・形を、どれだけの人が思い浮かべられるのかはわからない。しかし、仮にそれをできる人々が少数になってきているとしても、彼らにおどろおどろしいイメージがつきまとうのは確かだ。Aが存続する限り、その名が背負い続けるかつての凄惨な「革命運動」と殺し合いの重い歴史が、それぞれの言葉と彼らの結びつきを裏付け続ける。
鉄板にはガサで焼き破られた痕跡が残る
指定された駅に現れたのは、事前に顔合わせしていたAの構成員マエノだった。駅から目的地まではタクシーでの移動。他愛もない話をしながらも、マエノは「〜の交差点まで」「〜を曲がって」と何度か指示を出し、タクシーは大通りから伸びる路地に入っていく。
そして、意外なほど「普通の街中」でタクシーは止まった。一見すると何の変哲もない建物。しかし、鉄でできたその入口を前にして、そこに宿る、すでに結成以来半世紀ほどたったその党派の歴史の重みが、私に今までに経験したことのない緊張感を与えた。
身元の確認が行われ、扉の鍵が内側から開き「過激派のアジト」の中へと足を踏み入れる。それは紛れもなく、「過激派」や「極左暴力集団」と呼ばれるAの公然拠点、「過激派のアジト」だった。
公安機関による24時間監視対象とは思えない「普通さ」
現在でもAのアジト内部では、「革命運動」に関する活動や主張を掲載した機関紙の制作・発行をはじめとして、党派の結成以来続く主要な活動が行われている。
構成員が共同生活を営んでいるアジトには人の出入りが多く、出入口が見える位置には公安警察(公安)の車が止められており、24時間体制の監視が続けられている。そして、今でも数ヵ月に一度は、機動隊を伴ってガサ(家宅捜索)が入るともいう。ここに確かに存在する、もはや「普通の市民」の誰もが気にすることのない「国家権力」と「国家転覆を目指す反権力」との駆け引きが始まってから、半世紀近くになる。
「独自の思想」「要塞」「共同生活」。これだけ聞くと、そこはどこかの宗教施設かのようで、内部にはさぞかし異常で陰湿で常人の理解を超えた光景が広がっているのではないか、という印象を抱かれるかもしれない。しかし、そのアジトに入ってまず驚くのは、「期待はずれ」なほどの「普通さ」だ。
食堂では闘争拠点の一つ「三里塚」でとれた野菜が売られる
マエノに案内されたアジト内部のある部屋では、若手の構成員が共同生活を送り、ビラを作ったり読書をしたり、各々が思い思いに過ごしている。食堂や風呂、寝室と見ていくと、どこも掃除が行き届いていて清潔だ。
また、内部にある食堂・風呂へと向かえば、見た目はみな普通の「おじさん」や「おばさん」の年配構成員が、外部の者である私に柔和な表情で会釈をしてくれる。いや、「おじさん」「おばさん」というよりは、その多くが「おじいさん」「おばあさん」と表現したほうが正確な年齢層に達しつつある。「過激派」という言葉に抱く「火炎瓶」「爆弾」「テロリスト」的なイメージと、ものものしいアジトとその内部にある意外な現実との乖離が、ますます私に、彼らを「普通」に見せるのかもしれない。
正確な数字を明かしてはくれないが、少なくともそこに暮らす者の平均年齢は60歳を超えているように見えた。しかし、それは意外なことでもなく、彼らの歴史を振り返れば当然のことだ。
40年前に「若者」だった彼らの闘いが今も続く
彼らのような、新左翼・「過激派」の構成員数が最も膨れ上がったのは1960年代の後半である。第二次世界大戦の終結から20年あまりが経過。西側先進諸国では、一部で革命への期待が高まり、「政治の季節」と呼ばれる学生運動・労働運動が盛り上がる時代へと突入した。
経済成長の加速度がピークに達し、ある程度の富が達成される一方で、社会の随所に存在する官僚的組織の抱える弊害や経済格差への反省と相まって東側共産主義国への幻想も肥大化していった。学生運動の象徴としてそれを記憶する者も多いであろう、東大紛争・東大安田講堂攻防戦という一つのピークとなる「事件」につながる形で、学生や労働者を動員していった。
1969年1月の安田講堂封鎖解除で検挙された学生の数は633人にも達した。新左翼党派が先導する運動は、一つの「時代の空気」を形成した一方で、そこで露呈した強引さや暴力性は、大衆による支持を失わせていった。しかし、その傾向と反比例するように、彼らの過激化・暴力化は急速に進んでいく。
1970年に起こった共産主義者同盟赤軍派によるよど号ハイジャック事件、1971年から72年にかけての連合赤軍による山岳ベース事件・あさま山荘事件、同じく1972年の日本赤軍によるテルアビブ空港乱射事件……。その詳細に触れずとも、多くの人々がメディアを通して凄惨さを脳裏に焼きつけている事件に違いない。
その「外向き」の過激化・暴力化は、「政治の季節」が退潮を迎えるなかでも新左翼・「過激派」を支持してきた者たちをすら、彼らから急速に遠ざけることにつながった。その結果、自らが「戦争」と呼ぶ「内向き」の闘いを活発化させていく。「内ゲバ」である。
1970年代半ばから80年代、「過激派」と呼ばれる党派同士でのイデオロギー的、あるいは「微妙な人間関係」のすれ違いが、次第に具体的な暴力の応酬へとつながっていく。そして、それはいつしか100名単位の死傷者が出る殺し合いへと発展した。彼らが掲げる理想がいかに明るくとも、あるいはその理論が高度に洗練されていったとしても、「普通の人」が強い拒否感を覚えるのは当然のことだ。「大衆からの孤立」、人の集まらぬ時代に入っていった。
つい最近まで、その当時30代〜40代だった世代、つまり現在は70代〜80代になろうとする世代がリーダーを務め続けてきた党派も少なくないが、近年、彼らの多くが引退・死去している。そして、同時期に20代かそこらだった者たち、いわゆる「団塊の世代」前後であり、今60代半ばにさしかかろうとする者を中心とした世代が、構成員の中心を務めている状況がある。
現在の組織が「おじいさん」「おばあさん」中心になるのも当然のことなのだ。
今も「拠点校」や労組から獲得される若手構成員
こうした状況が、彼らの「過激じゃない派」化を進めている。Aをはじめとする「過激派」が、具体的かつ集団的な暴力・テロを、少なくとも外から見やすい形で為すことがなくなったのは90年代前半のことだ。
当然ながら、国家権力は、今も「暴力革命」による「資本主義国家の打倒」を目指す看板は下ろしていない以上、彼らを「過激派」と呼びながら治安維持に努め続けている。しかし、ここ20年間を通して、党派によってその力点の置き方は異なるが、大衆への浸透、警察など「権力」への諜報、党派内部を細分化する形で行われる小規模かつ断続的な内ゲバ……など、その「過激さ」は「世間」から見えにくい場所へと追いやられてもいった。その背景には、1970年代以来の「大衆からの孤立」のさらなる深化、そして「高齢化問題」があることは確かだろう。
ただ、世間からの注目も、少なからぬ構成員やシンパ(構成員にならずとも同調し、物質的・心理的に支援する者)が多くの党派から離れていく時代が続いた一方で、若手が全く育っていないというわけでもない。その「入り口」の一つは「学生運動」組織だ。
各党派は、それぞれ「拠点校」などと呼ばれる大学を持ち、その学生自治会や政治・勉強会サークルなどに構成員を根付かせ、そこで新たなメンバーを獲得しながら、「少数精鋭」ではあっても幹部育成を行ってきた。
それは、90年代まで、「面倒ごとを嫌う」大学が放置したことも相まって続いてきたと言える。例えば、ある党派が大学に存在することによって、他の党派が入ってきてさらに秩序を乱すことがないからと黙認する。その代わり、活動を黙認された党派も騒ぎを起こさないという「共生」関係が生まれたところもあった。
しかし、90年代末から2000年代にかけて、全国の大学学生寮の解体、自治会の収入源となる学園祭からの各党派の排除など、警察と大学の協調のもと「過激派つぶし」が実行され始める。その結果、急激に衰退する党派も生まれた。かつては無数にあった新左翼党派の学生組織も、現在では、まともに活動の維持を確認できるところは10に満たない状況となり、活動を維持している学生組織の多くが、構成員数の定義を広くとっても数名から数十名程度の規模になっていると見られる。
その一方で、それでも残存する党派がある背景の一つとして、「労働運動」の存在がある。「労働運動」は、企業や自治体などの組合を軸に組織化されている。ここには、団塊の世代やそこに強い影響を受けた40〜50代もまだ残っているところが多い。
労働組合(労組)には、いかなる政党・党派とも関係を持たないものもあれば、民主党系・社民党系・共産党系とされる国会に議席を持つ政党の影響が強いもの、さらに新左翼・「過激派」党派との関係が強いものもある。そして、その構成員は、組合の上部に位置する政党・党派の方針に一律に従って、署名、集会やデモ、休日には選挙のビラまき、ときには支持する政治家の街頭演説会の聴衆として動員されもする。
しかし、近年では、そのような政治活動に対する職場での意識低下、一律の動員や負担への嫌悪感等のなか、大きな流れとして労組の組織率が下がっている側面がある。
もちろん、いわゆる「ブラック企業」の問題などとして表面化する、若年層を中心とした労働問題は存在する。そこには、非正規雇用者でも加入できる「ユニオン」と呼ばれる、これまでのような企業別・自治体別ではない形の労組も生まれているが、それもかつての「労働運動」の勢いを取り戻すまでは至っていない。
しかし、そういった「苦境」の中にあっても、新たな構成員がそこに全く集わなくなっているというわけではない。20代、30代の若者もそこにはいる。彼らはなぜ今「過激派」に集うのだろうか。
その多くは、やはりこれまでどおり「拠点校」からの獲得や労働組合の数少ない若手加入者である。しかし、そうではない例もある。
「『物理的な武装』だっていとわない」と爽やかに語る青年
「とにかく社会を良くしようという気持ちがあって」と語るタカイは、高校生のころから、実家の近くにある政党の地元事務所に出入りして、年長者と政治の議論をしていたという。そして、大学に入学して勉強に必死に打ち込むなかで、政治への思いを具体的なものにつなげようとしていた。
「けれど、それでは『社会に自分が何かしている』という感覚を得ることはできなかった。どうにか社会を変えようとしている人々に会いたいと思った。そして、それは『左翼』って呼ばれているような人だった」
こう考えたタカイは、終戦記念日にデモをしている集団の中に飛び込み、シュプレヒコールをあげていた。その集団がAだった。
活動に参加した当初は、それほど熱心に活動する気はなかった。それは、「自分が平和主義者であって、『暴力革命』とかそういう怖いことまでは」という躊躇があったからだ。
「気持ちが変わったのは、戦後自民党政治の権化とも言える安倍政権が倒れたとき。仲間からメールがきて『安倍政権を倒した』っていう文があって、自分が運動を通して社会をつかんでいるんだぞっていう。『倒れた』んではなく『倒した』んだっていう、自分勝手な解釈だと言われてしまえばそうかもしれないですが、その感覚、主体性のあり方に心が動いたんです」
タカイがデモをしていてはじめて逮捕されたとき、実家から来た親がガラス越しに発した「お前はAにだまされてんだ」という言葉に、泣きじゃくりながら「うるせー!」と返答した。
「自分の全人生をかけられることでないと、やる意味がない」
そう語るタカイに対し、今では両親も「自分で決めたことなんだから」と一定の理解を示しているという。そして、「平和に暮らすというのは、現状肯定でしかない。現状を乗り越えるために戦いたい。そのためには『物理的な武装』だっていとわない」と、彼は拍子抜けするほど「爽やか」に語るのだった。
「クリーンなNPO」に潜む闇に気づかず入会
また、こんなこともあった。
「どうしてここに来たんですか?」
直前まで、デモの先頭で帽子にマスクをして顔を隠しながらも、ひときわ目立つ大きなシュプレヒコールをあげていた、都内の有名大学に通っているという若者が私に声をかけてきた。
今から3年ほど前、ここ最近の社会運動の盛り上がりなど予想し得ない「冬の時代」らしい雰囲気のなかだったが、若い世代の社会運動離れが進むなかで「左翼」がいかなる状況にあり、どのような活動をしているのか、そこに今から集う人々は何を思っているのか取材しているんだ、という旨を答えた。そして、「先頭で拳振り上げて叫んでいたけど、Aで腰据えてやっていくつもりなの?」と尋ねると、その若者の口からは「迷っているんです」と、先ほどのシュプレヒコールの勢いを感じさせない、自信のなさそうな声が返ってきた。
かねてから社会問題に興味があったというその若者は、所属する大学を拠点に活動するNPOに顔を出すようになった。表面的には平和や労働、環境といった社会問題の解決を看板に掲げた「普通の人」による団体。しかし、実際に中に入ってみると、時に異様な雰囲気を醸し出すことに気づいていった。
活動に参加した当初こそ、団体のメンバーは、優しくて良い人、社会問題の解決に使命感を持っている人のように見えた。そして、具体的な行動を起こして、外部のNPOや研究者などと協力して成果をあげていることに、「ただ勉強会だけやったら終わりという大学の勉強会サークルの一歩先を行き、尊敬できる」と思っていた。ところが、外から見える「クリーン」な表情の裏には、対称的な闇が潜んでいた。
例えば、構成員でありながら、内部の論理に疑問を持つことは許されない。仮に、その疑問を表に出そうとすれば、あらゆる制裁が待っていた。幹部たちとの「話し合い」は半ば軟禁状態において行われ、長時間に及ぶものになる。構成員が一人の人間を取り囲み、「お前は間違っている、間違っている、間違っている……」と、同じ言葉をかけ続ける「儀式」も存在する。
また、活動への迷いを抱いていそうな者が、脱退した者への盗聴を強要されたという話も聞いた。当然、「お前もそうするぞ」と言われているような恐怖感を感じた。さらには、活動費として学生にとっては高額な寄付金の支払いを求められ、「そんなの聞いていない」と口にすることもできず……。
その「クリーンなNPO」に見える団体は、実は、公安のマークもついたカルト的な新左翼・「過激派」の一党派だった。
現在の「過激派」に若者が集う当然の理由
一見特異な話のようにも思えるこういった事例は、決して特殊なことではない。
先述した近年の「過激派つぶし」によって、あるいはつぶされるまでもなく、高齢化やヒト・モノの供給不足によって自然消滅に向かうなかで、「暴力革命」やカルト性を放棄しながら生き長らえる道を選んでいった党派がある。全体から見れば、Aのように結成当初の形態を保ち続けるほうがむしろ特殊であり、NPOになったり、一般の人も手に取れるような媒体を作るようになったりしながら、その暴力性・カルト性を漂白する等の努力のうえに、その多くが「普通の市民」に受け入れられる形に変わろうとしていったのだった。
そのように、器用に振る舞いながら生き残ること自体は悪いことではなく、むしろ、「暴力革命」やテロを放棄し、一般にも認められる具体的な社会貢献活動を担うようになっていることは評価しなければならない。
ただ、団体によって程度は違えども、一般社会から見た場合に、少なからぬ異常さの「残余」がそこにあるのも確かだった。
「革命」に向かう姿勢に対する物足りなさや、「一見クリーンに社会変革を求めているようでいて、その内実は、暴力性を消し去った分だけ過激派と同じかそれ以上にカルト化している」陰湿な「残余」に触れた若者の中に、不器用に、オープンに、旧来の作法を守り続けているAのような組織に惹かれていく者があるのも理解できる話だ。そこには、よりわかりやすく、生々しい革命にむけた闘争があるようにも見えるのだから。
合宿所のような共同生活。玄関には靴が溢れている
彼らの普段のコミュニケーションを見てわかるのは、何より「明るい」ことだ。部屋では冗談も織り交ぜながら楽しそうに会話を交わし、まるで学生の部活動の合宿所や修学旅行に来たかのような錯覚さえ覚えるほどだ。聞けば、セブンイレブンでバイトをし、「和民」や「さくら水産」といったありふれた居酒屋で酒を飲んでカラオケに行き、構成員が結婚するとなるとレストランを貸し切って「祝う会」を開催することもあるという。
考えてみれば、「過激じゃない派」化してからすでに20年。活動の主軸は、デモ・集会・署名・オルグ(組織拡大)活動という、一般的な社会運動と大差ないものになっている。その中で、「普通」の若者がそこにいることは不思議ではない。
むろん、彼らが今も掲げ続ける「暴力革命の必要性」は、倫理的・人道的に許されないことは確かだ。今も、彼らの活動に対する周囲の目は厳しい。しかし、「ヘルメットにタオル」「鉄パイプ」「火炎瓶」というイメージもまた、現実とは乖離して来ていることも確かなことである。
それでは、そんな彼らの「革命」に向けた日々とは、現在いかなる姿を見せているのだろうか。
忘れられた「途上国」の人々
集会があっても、「野戦病院」にはかつてのように死傷者が運び込まれることはない
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モノクロの映像の中には、今では整然とコンクリート舗装された成田空港のかつての姿があった。
農作業着姿のまま、地面に打ち付けた杭に自らを鎖で結びつけた老人たちは、はじめこそ「絶対に動かない!」と叫び散らしていたが、棍棒を持った機動隊に袋叩きにされると立ち退いていく。ヘルメットをかぶった「少年行動隊」の子どもたちも、機動隊めがけて消石灰のような粉を投げつけるが、身体を持ち上げられ、泣き叫びながら連れ出されていく。
はじめてその映像を見たとき、「どこの途上国だよ……」と絶句した。
上野から電車で一本、1時間10分ほどで京成線成田駅に到着する。「成田山」で有名な駅の周辺には寺や土産物屋・旅館などが立ち並び、賑わっているようにも見える。しかし、駅から少し車を走らせれば、たちまちそんな光景は消え、目に飛び込んでくるのは田畑と山ばかり。かつてこの地は、森と竹林に覆われていた。そして、移住してきた者たちによる困難な開拓の末に築き上げた農業で成り立つ地域だった。
空港近隣には今も廃港を求める農家がある
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1962年、今からちょうど半世紀前のこと。日本の経済成長はめざましく、羽田空港における国際線の便数・利用客数の増加への対応策として、新国際空港の建設計画が持ち上がる。翌年にはいくつかの候補地の名があがるなかで、現在の成田国際空港が位置する地域が最有力候補となる。そして、農民による土地を守る反対運動として「三里塚闘争」が始まっていった。
その歴史をここで単純化して振り返ることはできない。あまりにも重層的で複雑なそれを、紙幅が限られる中で語ることは困難だ。ここでは、そこにあった歴史を、空港建設反対運動と新左翼・「過激派」との関わりの中でまとめるに止めよう。
成田空港建設の閣議決定と建設反対運動の激化は1966年からのこと。初期の空港建設反対運動は、議会に議席を持つ社会党・共産党によって支援されていた。しかし、計画が具体的かつ強引に、暴力的に進められていくなかで、「暴力には暴力で対抗しなければその勢いを止められない」という気運が生まれ、60年代末までに両者は決裂していく。そして、新左翼・「過激派」だけがそこに残った。
いくらか残る大衆的な共感を軸に運動は続いていくが、空港建設・開港(1978年)への流れは止まらず、「資本主義の打倒」をうたいながら、暴力・テロをも辞さない「暴力革命」を先鋭化させていく勢力は強まる。農民や活動家と同様に、機動隊にも死傷者が出始めていた。
1978年3月の開港予定時期には、三里塚闘争に興味はなくても名前を知る人が多いであろう「管制塔占拠事件」が起きている。また、開港の後には、党派間での「内ゲバ」が激化し、空港関係者など一般人にも死傷者があった。
その結果、この運動に関わった新左翼・「過激派」は、「普通の市民」からより一層目を背けられるようになっていく。それと同時に、成田空港が今に至るまで抱え続けてきた問題までも「普通の市民」から見えにくい場所へと追いやられていった。
今も残る無数の爪痕、「への字誘導路」「岩山鉄塔」……
しかし、その血塗られた歴史と課題が「普通の市民」の意識の上からは消えようとも、彼らの「革命運動」は今も途切れることなく続いている。
当初は数十団体あった党派の大部分が去っていったが、今も4つの党派がそこで活動を続ける。また、毎年3月と10月に開かれる集会・デモ、農地などの収用に対する裁判や署名活動など、空港建設反対運動の支援を行うなどしている。
滑走路と農地が隣接。デモの際には大量の機動隊が
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現在でも空港の周囲にはいくつもの爪痕が残っている。その一つは「への字誘導路」だ。
近年、幾度か新聞記事にもなったために記憶している方もいるであろうが、成田空港のB滑走路にある誘導路(飛行機が滑走路とターミナルの間を移動するための通路)は、不自然に「への字」型に曲がっている。なぜか。それは、「への字」の下部に未買収地が残っているからだ。本来なら直線に開通させるはずの道路が、その「障害物」によって曲げられている。
その一部は、ここ数年の裁判などを通して、事実上、国・空港側のものとなっていったが、いまだ住民の手で管理されている農地もある。そこでは、従来からそこにいた農民と、今も「成田空港廃港」を掲げている複数の新左翼・「過激派」党派による「援農」要員によって、農作物の栽培が行われている。
他にも同様の「未買収地」は残り、農地の上空40mをジャンボジェット機が通過するところもある。
「岩山記念館」からはA滑走路を見渡すことができる
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もう一つだけ爪痕をあげておこう。反対同盟が「岩山記念館」と呼ぶ建造物がある。
その上に立って北西側を向くと、眼前には4000mのA滑走路が真っ直ぐに延びているのが見える。すると、助走を始めた飛行機がこちらに直進してきた。コックピットのパイロットと目が合っているような感覚にすら陥る。その機体がふわっと浮き上がると、一瞬の後に頭の真上を通過していった。
かつて、この建造物の上には、1972年に反対派が建てた高さ100mに及ぶ巨大な塔「岩山鉄塔」があった。滑走路の延長線上の最も空港に近い敷地に塔を建てることによって、飛行機の離着陸を妨害していたのだった。
かつて100mの鉄塔があった「岩山記念館」の真上を飛行機が通過する
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反対派は「開港阻止」を掲げながら、「岩山鉄塔」以外にも様々な手段を講じていった。だが、開港は実現することとなる。鉄塔の撤去を巡る攻防は激しくなり、1977年4月、2万3000人が集まった「鉄塔防衛全国総決起集会」のデモは、逮捕者7名、負傷者100名以上を出すほどのものであったが、結局、同年5月にはこの鉄塔が撤去され、翌年の開港につながっていった。
鉄塔の土台のみが残ったこの敷地の中には、今も活動家が住み続けているという。
それぞれが編んできた物語も「あってはならぬもの」へ
空港敷地の周りには今も鉄骨でできたヤグラや監視小屋が複数残る。窓にはかつての「闘争」の記事も
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両脇をフェンスに囲まれた道路を抜けた先に、「東峰神社」が見えてきた。ここは「農村」に生きていた人々の「拠り所」であり、これ以上の空港建設を阻止するために、そこに残った農民が土地の売却を拒みながら作った「飛び地」でもある。その鳥居の前に降り立つと、周りを囲むフェンスの隙間から監視を続ける警備員の姿が見えた。そして、背後にはB滑走路が延びている。
成田空港の拡張工事は現在も進行しており、近年、その動きはより加速しているようにも見える。
ここ数年、首都圏近郊の空港の動きだけでも、羽田空港への国際線乗り入れ、LCC(格安航空会社)対応を売りにした茨城空港のオープンといった大きな変化があった。拡大するグローバル化は、当然「空」の秩序も乱し、この地を以前とは違った意味で混乱させている。
集会には今も数百人の新左翼党派の構成員が集まる
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路線誘致・価格引き下げ競争が激化するなか、成田空港の地位が相対的に低下することへの危機感が、少なくとも空港運営会社や地元自治体・住民らにあるのは確かだろう。
かつてそこでは、地域住民も、警察も、「過激派」も、そこに関わりを持とうとしたすべての人々が、それぞれの「正義」を掲げながら血を流してきた。時代は変わり、血が流れることはなくなった。だが、今でもそこにはいくつもの傷跡が残っており、そして、その傷が癒えるどころか、毒が回り、もはや壊死しそうになっているようにも見える。
「正義」は常に重層的なものだ。それは、社会の中に常に複数、分散、乱立して存在する。しかし、あたかも一つの「正義」があるかのように装うことで社会は凝縮し、安定を保とうとすることもある。
「正義」「善良」「合理」「中心」、あるいは「普通」といった価値。それらは常に、その時々の状況で一時的に構築されたものだ。「構築されたものに過ぎないから」と相対化するのもいいだろうし、「構築されたものだからこそあえて」と利用するのもいいだろう。ただ、その重層性に無自覚なままに、一つの絶対的な「正義」を求め続けることは「正しさなき『正義』」や「普通ではない『普通』」を生み出していくだろう。そして、それが結果的に、ナイーブな正義が求めていた良き社会の実現をむしろ遠ざける結果になるのならば、その「善意」にとって不幸なことである。
「自らこそ前衛的な存在であり、未来に普遍化する認識を体現している」。そう主張する「普通ではない市民」が、いつしか社会からは「あってはならぬもの」とされていくなかで、彼らが向き合い続けてきた問題もまた、社会の無意識の中へと葬り去られていった。それこそが、「平和で豊かな今の社会」を生み出したと見る者もいるだろうが。
「自らこそ世論を体現する存在であり正統で合理的な認識を体現している」と、時に強引にも見える形で主張する「普通の市民」。そして、そこに投影される「普通の市民」の「革命」願望。それに支えられた社会が向かう先は、未だ見えない。「あってはならぬ正義」が漂白された時代の「正義」の行方は――。
東峰神社のすぐ上を今日も飛行機が通り過ぎていく
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大きな音が聞こえ、空を見上げると、着陸態勢に入った飛行機が神社のわずか数十メートル上空を飛行していた。あの機体の中には、疲れて眠る者も、映画や音楽を楽しむ者も、スケジュール帳を開いて仕事の予定を確認する者も、そして、窓の外に広がる平和で豊かな日本の風景を見ながら旅の終わりを噛み締めている者もいただろう。
彼らの中に、今もここに残る「あってはならぬもの」の存在に気づいた者はいたのだろうか。「普通の市民」が溢れ、熱狂する社会の中で、今もここに残る農民の、あるいはここを去っていった者の、この空港を新たな生活の拠点としていった者の、そして「革命戦士」の、それぞれが編んできた物語の存在に気づいた者はいたのだろうか。
「マッサージどうですかー」。都会だけでなく、地方の駅前や繁華街でも、「○○式エステ」「リラクゼーション」などと称し、アジア系外国人がマッサージを行う店舗を見かける。彼らはどこから来て、なぜそこにいるのか。そして、これからどこへ向かうのだろうか。第10回は、意識することはなくても、すでに多くの人の視界に存在する風景の裏側に迫る。次回更新は10月9日(火)予定。
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デモで社会は変わるのか?
福島からの避難、瓦礫受け入れ、農産物の風評被害など、一般市民の善意が現地の人々にとっては悪意となり、正義と正義がぶつかり合う現実。そして、過去の沖縄基地問題に象徴されるように、反原発運動もまた、新手の社会運動のネタとして知識人たちに消費されるのではないかという危惧。震災後も精力的に現地取材を続ける著者に見えてきたのは、早くも福島を忘れ、東京と地方の歪んだ関係を固持しようとする、「日本の変わらなさ」だった
第8回 “普通の人”を誘う「脱法ドラッグ」の真実
加藤嘉一×開沼博トークイベントレポート 僕たちが大切にしている3つの行動規範
第7回 ソーシャルメディアが生んだ未成年少女の闇 高付加価値商品に巣食う「援デリ」
http://news.nifty.com/cs/magazine/detail/diamond-20120925-25229/1.htm
国語世論調査:「むかつく」と言う人 半数を超える
毎日新聞 2012年09月20日 21時17分(最終更新 09月20日 23時41分)
国語世論調査の結果
「腹が立つ」ことを「むかつく」と言う人が半数を超え、「ゆっくり、のんびりする」ことを「まったりする」と表現する人も3割いることが、文化庁が20日発表した「2011年度国語に関する世論調査」で分かった。また、インターネットや電子メールの普及で「漢字を正確に書く力が衰えた」と感じる人も7割近くに達している。同庁担当者は「若者言葉が広まる一方、ネットの普及で『書く』能力が落ちており対応が必要だ」と分析している。
同庁は1995年度から、日常生活での言い回しを7〜8年ごとに調べている。「むかつく」と言う人の割合は、96年度が43.2%、03年度48.1%。11年度は51.7%と半数を超え、「言わない」(11年度48%)人を上回った。また、新たな設問で「ゆっくり、のんびりする」ことを「まったりする」▽「しっかり、たくさん食べる」ことを「がっつり食べる」▽「中途半端でない」ことを「半端ない」−−と言うかどうか聞いたところ「まったり」という人は29%、「がっつり」が21.8%、「半端ない」は20.1%だった。
日本人の日本語能力についても調査。01年度と比較したところ「低下していると思う」と回答した人が「読む力」で9.6ポイント増の78.4%、「話す力」が10.7ポイント増の69.9%になった。パソコンや携帯メールの影響を複数回答で聞いたところ「漢字を正確に書く力が衰えた」と感じる人が25.2ポイント増の66.5%、「手で字を書くことが面倒臭く感じるようになった」が10.1ポイント増の42%となった。
文化庁の氏原基余司主任国語調査官は「『むかつく』は感情を投げつけるような言葉で使う人の気持ちに沿うのかもしれない。また、手書きの機会が失われ『書く』能力が衰えるのは好ましくない。子供への対応を考える必要がある」と指摘する。
調査では「にやける」の意味や「他人事」の読みも聞き、本来の意味が捉えられていない言葉や読み方を誤った漢字もあった。
調査は今年2〜3月、全国の16歳以上の男女3474人(無作為抽出)を対象に面接方式で実施。2069人(59.6%)から回答を得た。【石丸整】
http://mainichi.jp/select/news/20120921k0000m040076000c2.html
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