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2013年1月23日 れんだいこのブログ
小沢系生活党が2013.1.25日に創立大会を開く。この期に同党への期待と要望を書きつけておくことにする。れんだいこツイッターに次のように発信した。「まもなく生活党エールの辞を送る予定です。2013年体制を痛苦に受け止めるのではなく、2013年体制の最中にあって更に小沢派排撃のジハードを呼び掛け悦に入る雇われ政論家の口舌をほ撃つつもりです。集中した時間が取れないので半端なものになるが書かずにはおれない心境です。ご期待あれかし」。こう書いた以上、書かずにはおれまい。
生活党は今や政界唯一の野党らしい野党である。ここに同党の意義がある。これを逆に云えば、今や政界は表が自公民、これに維新の会、みんなの党が列なり、裏に共産、社民が連合しており、独特の新参者排除の構図ができあがっていることを意味する。驚くべきは、左派勢力の共産、社民がそのような役割を果たしていることである。平素、口先では万年野党として政権与党を攻撃する気楽な稼業に勤しんでいる。しかし、いざ政権交代の機運が訪れると、共産党は独特の「真の野党論」で唯我独尊しながら正面から排撃に向かい始める。この体質は、はるか昔の宮顕時代から変わらない。社会党転じて今は社民党は、こちらも昔から変わらず表で汗をかかず裏駆け引き専門に耽るのを得手とする。こういう悪しき習性が見えてくる。
2012総選挙の構図を見れば良い。重要課題で殆ど政策一致する未来の党に対して、未来の党の方からオリーブの木連合を呼び掛けているにも拘わらず、社共の方から野党分裂を仕掛け共倒れに導くも恥ずるところがない。しかも両党とも党中央が選挙の敗北責任を負わない。政策よりも政権よりも党利党略を最優先する反オリーブの木運動の手法はいずこから発生しているのだろうか。この共産、社民両党の独特の飼われ方についての論証は別の機会に譲ることにする。
今や、2012末総選挙以降、55年体制に比すべき新秩序が生まれたと見なしてよいと思われる。これを仮に2012総選挙後体制(略して「2013年体制」)と命名する。この「2013年体制」に抗する唯一の野党政党が生活党であると云うところに同党の意味がある。その生活党の誕生経緯を確認しておく。生活党は小沢派の系譜であるので、小沢どん及び小沢派の経緯から追跡する。これを大雑把早足で確認する。
小沢どんは、自民党史上の旧主流派である田中派のプリンス的後継者であった。当時の田中派は大平派と共に戦後保守ハト派を形成していた。戦後保守ハト派とは、吉田茂を元祖とし池田隼人を中興の祖とする政治系譜である。世が世なれば小沢一郎は角栄、大平、鈴木善幸後の何代目かで首相に就く戦後保守ハト派虎の子の逸材であった。
小沢どんの政治履歴を見るのに、1969(昭和44)年、父・佐重喜の急死に伴い第32回衆院選に旧岩手2区から自民党公認で立候補し、27歳の若さで初当選。この総選挙を党幹事長として指揮したのが田中角栄で、以後、田中派の七日会、木曜クラブに所属し、角栄の薫陶を受けることになる。1976(昭和51)年、ロッキード事件が勃発し田中角栄の不遇時代が始まるも、師たる角栄を裏切らず律儀にロッキード公判を欠かさず傍聴したことで知られる。
1982(昭和57)年、自民党総務局長に就任。その後、衆議院議院運営委員長を歴任。1985(昭和60)年、第2次中曽根内閣第2次改造内閣で自治大臣兼国家公安委員会委員長として初入閣(43歳)。1985(昭和60)年、竹下登、金丸信らの田中派潰しの創政会結成に参加。これが後の経世会となる。竹下派七奉行の一人に数えられ竹下政権誕生に奔走する。1987(昭和62)年の竹下政権下で官房副長官に就任。1989(平成元)年の第1次海部俊樹内閣で党幹事長に就任(47歳)。これより以降数年間が絶頂期となる。自民党時代の以降の政治履歴は割愛する。
かく羨望される履歴を持つ小沢どんが次第に自民党内に居れなくなった政治状況こそが悼ましい。その暗雲が覆い始めたのが1976年のロッキード事件であった。この事件を契機に、自民党内のハト派が下り坂になり逆にタカ派が陽の当たる坂道を登り始めることになる。この時代の小沢どんの政治履歴は、そういう時代の写し鏡足り得ている。
戦後保守ハト派のその他大勢がタカ派系主流の新時流に迎合したなかで、この流れに義侠的に立ち向かったのが小沢どんであり、そこが共感を呼ぶ所以のものとなっている。大雑把に見て、こういう捉え方が正鵠を射ているであろう。これを逆に説く者がいるが保守系であればウヨ、左派系であればサヨと蔑視されるのが相応しい。
創立大会に向けての生活党への期待と意義考その2、小沢どんの政治履歴考その2、脱自民党時代考
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2013年1月23日 れんだいこのブログ
1993(平成5)年、細川連立政権が誕生する。この時、小沢どんは他の多くの仲間と共に自民党を離党し(今日風に云えば角栄チルドレンの決起であったと思えば良い)、8党派連立の細川政権の中核となる(小沢どん転変第1)。細川政権は羽田政権に移行する。しかし、この反自民党政権は多党派派連立故の呉越同舟政権となり崩壊する。
1994(平成6)年の自社連立による村山政権が誕生する。何と、細川連立政権時の与党の社会党が仇敵の自民党と組んで細川政変を内部から崩壊せしめたことになる。社会党の正体見たり枯れ尾花であった。小沢派は野党になり新進党を結成する(小沢どん転変第2)。その後、羽田派が分裂する。1997(平成9)年、公明党が分裂する。新進党が解散する。かくて、細川連立政権と云う果実が無残にも散らされた。
1998(平成10)年、小沢派が自由党を結成する(小沢どん転変第3)。1999(平成11)年、小渕政権下で与党入りし自自連立政権を組む(小沢どん転変第4)。ここに公明党が政権入りし自自公連立政権が成立する。2000(平成12)年、連立を解消し野党になる(小沢どん転変第5)。この時、野田毅、二階俊博などの連立残留派が保守党を結成し分裂する。2001(平成13)年、小沢一郎政治塾(小沢塾)を開設する。
2003(平成15)年、自由党が民主党と正式に合併する(小沢どん転変第6)。2004年(平成16)年、小沢系が一新会を結成する。2005(平成17)年、小沢系が一新会倶楽部を結成する。2006(平成18)年、前原代表が「堀江メール問題」の責任を取って党代表を辞任、菅直人を破り第6代の民主党代表に選出される(小沢どん転変第7)。小沢代表は菅を党代表代行、鳩山を党幹事長にするトロイカ体制を敷き民主党の快進撃時代が幕開けする。
2007(平成19)年、福田政権下で連立交渉に入り、民主党内の支持が受けられず代表辞任を表明するも党内の慰留を受け続投。2008(平成20)年、民主党代表選に無投票で3選。2009(平成21)年、西松建設疑惑関連で公設秘書が逮捕された件で民主党代表を辞任。鳩山が民主党代表となり、小沢どんは選挙担当の代表代行に就任する(小沢どん転変第8)。
同年9月、第45回衆議院議員総選挙で民主党が圧勝し、民主党が政権を掌中にする。小沢どんは鳩山政権下で幹事長に就任する(小沢どん転変第9)。2010(平成22)年、東京地検特捜部が政治資金規正法違反容疑で元小沢秘書の石川知裕衆議院議員、大久保隆規、ほか1人を逮捕、起訴。この頃より小沢バッシングが本格化する。同年、小沢系一新会倶楽部が北辰会に衣替えする。鳩山首相の鳩山美人ぶりが食傷され退陣を余儀なくされる。この時、鳩山は自らの辞任と共に小沢どんの幹事長辞任を強請、受け入れる。後継の菅政権は党内の過半を占める小沢派を徹底的に干す片肺人事を強行する。小沢どんは無役に甘んじることを余儀なくされる(小沢どん転変第10)。
同年9月、民主党代表選挙で菅と小沢が争い小沢どんが惜敗する。ムサシの開票マシーンを使っており不正代表選の噂が残った。同年10月、陸山会事件で検察審査会によって起訴議決され、2011(平成23)年、強制起訴される。民主党常任幹事会が「強制起訴による裁判の判決確定まで党員資格停止」処分を決定する。これにより代表選の立候補資格および投票権を失う(小沢どん転変第11)。
同年3.11日、三陸巨大震災が発生。菅政権の対応能力の欠陥が露呈する。同年8月、菅政権が総辞職。民主党三代目の野田政権が誕生する。野田首相は「どじょう政治」を標榜し、小沢派を限定つきながら人事登用する。但し、小沢どんに対する冷遇が続く。同年末、小沢どんを支持する内山晃ら9名の民主党議員が「新党きづな」を結成して集団離党する。
2012(平成24)年4月、東京地方裁判所の第一審で無罪判決。2012(平成24)年、野田政権が消費税増税法案を閣議決定。小沢派は法案採決で反対票を投じ、民主党に離党届を提出する。民主党は離党組を除籍処分とする。小沢どんはグループ議員とともに国民の生活が第一を結党し代表に就任する(小沢どん転変第12)。同年11月、東京高裁が一審判決を支持。控訴側が上告を断念したことで陸山会事件の無罪が確定した。何の為の小沢バッシングであったのか、小沢どんの政治能力を殺ぐ為の国策捜査であったことが裏付けられたことになった。この無罪判決は、はるけきロッキード事件も然りだったのではなかろうかとの推断を呼ぶことになろう。
第46回衆議院選を控え、国民の生活が第一を解党し滋賀県知事の嘉田を代表とする日本未来の党に合流(小沢どん転変第13)。但し、日本未来の党は61議席から9議席と大幅に議席を減らす。12月、総選挙の惨敗を受けて、小沢派と嘉田派の対立が表面化。小沢派は生活の党に改称し、側近の森裕子が代表に就任し現在に至る(小沢どん転変第14)。
ここが小沢どんの現在の立ち位置である。この小沢派の政治履歴から何を窺うべきであろうか。そもそも小沢どんは何を求めて自民党を離党し自ら苦難を引き受けてまで有為転変しているのであろうか。小沢どんを突き動かす政治理念、情動は何なのだろうか、これを問わねばなるまい。
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