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2013年01月22日 板垣 英憲(いたがき えいけん)「マスコミに出ない政治経済の裏話」
◆大阪市教育委員会は1月21日午後4時から開いた会議で、「犯罪空間」市立桜宮高校について、5人の教育委員のうち4人が中止に賛成、体育科とスポーツ健康科学科の入試中止を決定した。普通科で受験生を受け入れるといい、橋下徹市長は、「ベストの決定だ」と評価している。
今回の騒動で、思わぬ副産物が生まれた。それは、教育委員会のあり方である。現実には、ほとんど「死人の集まり」のような機関になり下がっていた。大事なときに何もせず、それどころか、「隠蔽することのみに専念する」悪害機関であることが、改めて判明し、その責任が問われるようになったことだ。
皮肉を込めて言えば、今回、ある意味で新鮮だったのは、大阪市教委が、「公開」されたことだ。これまでは、「教育」を隠れ蓑にして、あらゆる事柄を「隠蔽」し、何事も起こらなかったように、事なかれ主義で、だれも責任を取らない体質が形成されてきた。
読売テレビは1月21日午後7時5分、「大阪市教委、桜宮高校の体育科入試中止決定」というタイトルをつけて、以下のように報じた。
「大阪市立桜宮高校の体育科などの入試は中止と決まった。最終決定を下す臨時の市教育委員会は21日午後4時から開かれ、5人の教育委員のうち4人が中止に賛成、体育科とスポーツ健康科学科での入試はなくなり、普通科で受験生を受け入れる。各委員は受験生への影響に悩んだとしながらも、やはり学校の抜本的改革が必要であり、将来きちんと改善された環境で生徒を迎えるべきだとの主張が大勢を占めた。中止によって体育科の募集を普通科に振り替え、体育科の受験日と入試科目のままで受験可能とする。入学後のカリキュラムもスポーツに特色のあるものとすると配慮している。教育委員会は受験生の混乱を最小限に抑えた上で、橋下市長の強い意向を受け入れたといえる」
◆安倍晋三首相は、戦後教育の見直しを政策課題掲げて、本格的に取り組む姿勢を示しているけれど、本気ならば、「教育委員会制度」をもう一度「公選制度」に戻すことである。戦後、米国流の教育委員会制度、すなわち、教育委員を都道府県・市町村議会の議員と同様に、地域住民の投票による選挙という民主的な方法で選び、公開の委員会で運営すべきである。
せっかく、民主的な教育委員会制度を米国から継受しておきながら、共産党が教育委員会を占領するのではないかという恐怖感と警戒感から、これを止めて、首長が教育委員を任命する文字通り官僚的な制度に変更してしまった。この結果、「民主制の論理」がまったく作用しない制度になり、「隠蔽主義」と「事なかれ主義」が、蔓延するに至ったのである。この意味で、戦後教育の見直しをするならば、何はさておいても、「教育委員の公選制度」に戻すことから始めなくてはならない。
◆公選制度により教育委員が、地域住民の選挙により直接選ばれていた実例が、埼玉県の旧与野市(現、さいたま市中央区)に伝えられているので、紹介しておこう。
「*武井武博士は、郷土与野町の教育委員に選出され教育委員長となり、町立与野高校の県立移管に奔走した武井武博士は、郷土与野にも教育者として貢献している。昭和二七年(一九五二)一〇月、教育委員会法が施行され、全国各市町村に民選の教育委員(任期四年)が選出されることになったのに伴い、与野町でも選挙が施行された。このとき、武井武博士は、父や慶応大学工学部長に相談し、地元・大戸地区のPTAの推薦を受けて出馬した。街頭演説や夜間演説を行い、選挙運動最終日には、牛車に乗って町内を回り、その結果、定員4人に対して7人が立候補、最高点で見事に当選し、副委員長に選ばれた。この半年後、与野町長選挙があり、教育委員の井原和一、茂木喜之の2人が立候補したことから、武井武博士は、教育委員長に就任した。教育委員任期四年の間、小林栄次郎教育長と相談し、小中学校校舎建築のための膨大な予算を立て、昭和三〇年(一九五五)度当初予算額一億五〇四六万円余りのうち五八パーセントにあたる八七八五万円余りを教育費として確保に成功している。また町立与野高校の県立への移管問題にも取り組み、県知事にも熱心に陳情するなど奔走して、解決した。昭和三一年(一九五六)任期満了となり、再出馬の声を断り、惜しまれながら、大学での研究生活に戻った。与野市の白鳥三郎市長は昭和五二年(一九七七)一一月一四日、武井武博士を「永年にわたり広く社会文化などの興隆に寄与した功績により、「与野市名誉市民第一号」に推挙した。武井武博士は平成四年(一九九二)三月一二日に亡くなっている」(うらわ法人会機関紙「なぜ? 浦和・与野の不思議」文・板垣英憲)
なお、武井武博士とは、「フェライトの父」として世界的に知られた電気化学者の武井武博士(東京工業大学名誉教授、慶應義塾大学名誉教授、理学博士)である。フェライトは、複合酸化物で、磁性材料として幅広く利用され、現在のテープレコーダーやコンパクトカセット(ビデオカセット)、ビデオテープレコーダなどの磁性記録など多くの電子機器の基礎となってきた。
武井武博士は、埼玉師範付属小学校卒業、浦和中学校(現在の県立浦和高校)卒業、大正六年(一九一七)四月、東京高等工業学校(現在の東京工業大学)電気化学科入学、師である加藤与五郎と出会う。同期生に、茅誠司(後の東大総長)、土光敏夫(後の経団連会長)などがいた。大正九年(一九二〇)四月、同校卒業後、東北電化株式会社入社する。
しかし、大正一一年(一九二二)一〇月、東北電化株式会社解散のため退職し、関東亜鉛鍍金株式会社入社、東北帝国大学入試のため退職、陸軍工兵少尉として入営。大正一三年(一九二四)四月、東北帝国大学部理学部化学科入学、昭和二年(一九二七)三月、東北帝国大学理部化学科を卒業し、東北帝国大学金属材料研究所助手となる。
さらに、東京工業大学助教授、東京工業大学教授、東京工業大学を辞職後、慶應義塾大学工学部教授となり、慶應義塾大学定年退職、昭和四四年(一九六九)年四月、慶應義塾大学名誉教授、昭和五二年(一九七七)四月、東京工業大学名誉教授となる。
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