49. 母系社会 2013年1月24日 16:48:35
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>>19さん、どうもすみません。私は、マルクス思想を、ヨーロッパに生まれた仏教的世界観に基づく 思想と解釈する広松渉を基本的に支持する者でもあり、仏教徒としては 未熟者で、他宗派は批判するなという釈迦の教えを、当分は守れません。 申し分けないです。 マルクスの「関係主義」=「事的世界観」と仏教の「縁起論」は同じもの =関係主義的世界観=であり、東洋大学の仏教哲学者の竹村牧男氏も、 「哲学としての仏教」(講談社現代新書)で、広松渉の造語を駆使して 仏教の根本哲学を解説しています。 ★これはパラダイム的レベルの問題なので、実は両方とも「独断論」と 言えば「独断論」です。 ですから、我々の立場を、一応言語で説明することも、そして他派を批判 することもできるのですが、実はお互いに自説を厳密には「証明」も 「論証」も言語(概念)ではできません。 最終的には、総合的な<判断>の問題であり、立場的<選択>の問題です から、一応、我々のような考え方もあるという知識の問題としてお聞き 下さい。 それで、釈迦は他の宗教の批判を禁じたのだと思いますが、我々のような 凡夫は、ついつい、他を批判してしまいます(汗) つまり、19さんを論破するというようなことは不可能であり、そのような 意図もありません。 ★こうした創造神話を否定する理神論的キリスト教の流派もあるらしいので、 そのような特殊なキリスト教は、ここでいう「キリスト教」からは除きます。 ●この「関係主義」の立場からキリスト教の根本的な世界観=パラダイム= を考えると・・・ 「全知全能の神が万物を創りだした」というユダヤ教やキリスト教の創造神話 そのものが、我々や仏教の立場では肯定できないのです。 なぜなら、仮に、そうだとすると、神が万物を創造した時、まず神はどの ような「モノ」を創るかまず、考えたはずです。創造する「物」の コンセプトですね。 そして、そのコンセプトで、その「物」の姿形だけでなく、その性質=属性= 本質も同時に神は創造してそれに込めたことになります。 すると、「人間」や「生物」、「物」などには、それぞれ、内在的に性質= 属性=本質が具わっているということになります。 つまり、「物」は何らかの素材的なものに、性質が具わっているものという ことななり、これが哲学で言う「実体」です。 ですから、この世界は、こうした様々な「実体」がまず存在し、それから、 それらの様々な「物」が相互に様々な「関係」を結んでいるという世界観= 「実体主義的世界観」=になります。 ●それに対して我々は、まず「関係」が存在し、その次にその「関係」に規定 されて「物」が存在すると考えるので、常識とは逆にです。しかし、これは 時間的な前後関係ではなく、論理的前後関係ですから、誤解しないで下さい。 では、なぜ、「関係」に規定されて「物」が存在するのか、教師と生徒の 場合で説明すると・・・ 教師と生徒と言っても、特別外見も中身も違うわけでもなく、同じ人間ですが、 教師が教師であるのは、教師が生徒に教え、生徒が教師から教わるという機能 的関係が、それぞれを照らし出して=反照=して、一方が教師で、もう一方が 生徒ということになります。 しかし、時には教師が今の子供が何に興味があるのかとか、生徒から教 わることもあり、両者の機能的関係が逆になり、教師は生徒に、生徒は 教師になります。教師と生徒の関係は固定的ではなく、「関係」次第で 相互に替わり、固定的ではありません。 実際に、教育では、一項目毎に教えー教えられる(理解したかどうか) という関係を維持しないと教育そのものが成り立ちません。 つまり、両者の「関係」が両者が何者であるかを規定しているのであり、 ある人Aが教師であるのはAは教師だからと考えるのは、この「関係」が 規定する人間関係を固定化して考えた場合です。王と臣下の関係も、 社長と社員の関係も同じです。 自然物の磁石の磁性という性質も、磁石の何らかの機能と、鉄の何らかの 機能との相互的関係性が、磁石が鉄を引き寄せるという機能的関係を生み 出し、その関係性が磁石に反照して、磁石の内在的性質と固定的に考えた 場合に、磁石には磁性という性質が内在的に存在すると我々は認定するの であり、磁石の磁性とは磁石と鉄の関係性が生み出したものと考えます。 ●このように、人間や物を、それ自体として考えるのではなく、周囲=環境 との関係性で考えるのが「関係主義的世界観」で、「実体」がまず存在し、 それから、それらの様々な「物」が相互に様々な「関係」を結んでいるという 世界観=「実体主義的世界観」=「本質主義」を否定する立場です。 ですから、我々は、この世には悪人や善人、利己的人間、利他的人間も存在 しないと考え、それらが存在するかのように思えるのは、ある種の関係の中 に置かれた場合の瞬間だけと考えます。 善人が豹変して残虐なことをしたりして、「まさかあの人が・・・」 などと驚く場合がありますが、誰でも、ある関係の中に置かれたら残虐な こともするし、逆に、聖人のようなこともすると考えます。 親鸞の『歎異抄』に、親鸞が絶対的忠誠を誓う唯円に1000人殺せと 命じたら、唯円がいくら親鸞の命令でも、それは出来ないと言った話が ありますが、あの話は、人間を規定するのは<関係>で、この関係が全て を決めているという「関係の絶対性」(吉本隆明)のことを示唆した話です。 この「関係の絶対性」を、マルクスは「存在が意識を規定する」(関係の 自覚化=対自化が意識)とか、人間とは「社会的諸関係の総体」と規定した のと同じ世界観であり、仏教の縁起論と同じ思想なのです。 ですから、自己責任論とは逆の立場なので、楽に生きてゆけるし(笑)、 無抵抗なビンラディンを射殺するような残虐なことは仏教の立場では しません。 あのようなことができるのは、もちろん、生かしておくと様々な不都合な ことが起こるという判断もありますが、殺せと命じた大統領か司令官かが、 ビンラディンは生まれながらの悪人、つまり、神が悪という性質を与えた 人間と考え、殺すのが神の意思と考えるから出来たのでしょう。 ★ただし、聖書は、ほとんど現代人と同じ知性を持つ人が書いたと思う ので、部分的には関係主義的発想で書かれた話もあるのではないかと 思います。 しかし、「実体主義的世界観」=「本質主義」は、人類が誕生した時から 思考のベースとなっている世界観で、この世界観に基づいて創造神話は 出来たので、実はキリスト教の問題というよりも、人類全体の問題でも あります。 ところが、どういうわけか、アジアでは、仏教も、古代中国の陰陽説や 陰陽五行説も「関係主義」的思想であり、人間は悪だ善だというような 「本質主義」的ではない発想法も代々伝えてきました。 日本の「死ねば誰でも神になる」というのも、「本質主義」とは異なる 発想法の産物であることは明らかですから、日本はアジア的文化の国です。 ★マルクス思想は、弁証法的な思想なので、「関係主義」そのものは マルクス思想の原理=パラダイム=ですから別ですが、それ以外は全て 未完成なもの、媒介物という位置づけです。 ですから、広松思想も絶対的な真理とかではなく、暫定的なものでしか ありません。
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