http://www.asyura2.com/12/senkyo142/msg/146.html
Tweet |
今月の日経新聞「私の履歴書」は森元首相である。
話のどこまでが本当かはともかく、現在の政治情勢につながるものもあるので紹介したい。
12月のはじめに投稿した「人材育成、派閥の役割 元自民幹事長 古賀誠氏:幹事長時代の小泉首相の誕生に忸怩たる思い」(http://www.asyura2.com/12/senkyo140/msg/595.html)で、「森首相から退陣後の総裁選は党員票をオープンにするようお願いがあった。都道府県連幹事長と議論し、各都道府県3票に増やした。最多得票の候補が総取りする方式になった理由は記憶をたどっても答えが出せない。総裁は国会議員で選ぶべきだ。じくじたる思いはある」という古賀元自民党幹事長の話を紹介したが、関連の話が森元首相からも出ている。
古賀氏は、「最多得票の候補が総取りする方式になった理由は記憶をたどっても答えが出せない」としているが、森氏は、「古賀さんは地方票を各県3票まで増やし、1位候補者が総取りする仕組みにしてくれた。これが小泉さんに決定的に有利になった」と明確に書いている。森氏の意向を受け容れて総取り方式になったと判断していいようだ。
小沢氏と福田元首相の大連立構想についても、森氏は、「私は「大連立で何をやるの」と聞いた。「まず消費税を片付けよう」と小沢さんは言った。私も賛成した。増税だけではまずいと思い、私は「憲法改正もやろう」と提案した。小沢さんも「いいよ、やろう」と応じた。これで政策の大筋が固まった」と書いている。
========================================================================================================
(27) 後見役 郵政解散に強く反対 小泉首相は意見を聞かず
私の後継総裁問題は微妙だった。小泉純一郎さんには「君は2度総裁選に負けている。こんど負けたら政治生命は終わりだ。だから勝機があればやってもいいが、勝つことが前提だよ」とアドバイスした。
カギを握っていた平成研(橋本派)の候補者選びは難航した。野中広務さんを推す声もあったが、派内は「うん」と言わなかった。
橋本龍太郎さんが手を上げた。積極的に支持する声は少なく、最後は見切り発車のような形で出馬した。
小泉さんは「勝算あり」と見て出馬に踏み切った。私は古賀誠幹事長に「総裁として最後の頼みだ。地方票をもっと増やす工夫をしてほしい」と依頼した。古賀さんは地方票を各県3票まで増やし、1位候補者が総取りする仕組みにしてくれた。これが小泉さんに決定的に有利になった。
小泉さんの首相就任に伴い、私は清和会会長に復帰した。それまで小泉さんが留守番役で会長をしていた。今度は私が小泉さんの後見役のような役回りになった。
私は小泉さんに「参院は難しいから青木幹雄さんの意見だけは常に耳を傾けたほうがいい」と忠告した。小泉さんは人事でも派閥の意見は聞かなかったが、参院の入閣者は青木さんの推薦を受け入れた。この辺が小泉さんの政治的な勘の鋭いところだった。
田中真紀子さんの外相起用に私は断固反対した。小泉さんは「外相で約束しちゃったからどうしようもないんだ」と弁解した。これで外務省はめちゃくちゃになった。
小泉さんは政調会長に平沼赳夫さんを起用するつもりだった。平沼さんは小泉さんに「亀井(静香)さんの了解を取ってほしい」と答えた。小泉さんが亀井さんに電話すると「江藤(隆美)さんの了解を取ってくれ」との返事だった。これに小泉さんがぶち切れて人事は白紙になった。
「政調会長はだれがいい」と相談があった。私は「麻生太郎でどうか」と進言した。小泉さんは「あっ、そうだ。そうしよう」と同意した。
私は麻生さんに電話し「小泉さんから電話があると思うが、『河野(洋平)さんの了解を取ってくれ』とは絶対に言わないように」と忠告した。「わかりました。そのかわり、森先生から河野さんに話してください」
この一件で小泉さんと亀井さん、平沼さんの関係は決定的に悪くなり、その後の政局の波乱の目になった。
私は郵政解散にも強く反対した。首相公邸に乗り込んで「解散する理由はないぞ」と説得した。小泉さんは「郵政法案が否決なら国民の意見を聞くと最初から決めていた。これだけは譲れない」と言い張った。
会談が決裂して私が「外にどう説明しようか」と聞くと小泉さんは「小泉は殺されてもやると言っていた、と説明してください。その方が私もやりやすい」と答えた。
亀井さんたちは「解散なんてできるわけがない。これで小泉は終わりだ」と祝杯をあげていた。私は小泉さんとの会談後、記者団に「(会談では)缶ビールとひからびたチーズしか出なかった。けしからん奴(やつ)だ」と話した。
党内外に「小泉は本気で解散をやるぞ」というシグナルを送ったつもりだった。世間では「ひからびたチーズは実は高級チーズのミモレット」ということばかりが話題になり、チーズの宣伝をしただけに終わった。
(元首相)
[日経新聞12月28日朝刊P.32]
(28) 大連立構想 小沢氏とひざ詰め談判 消費税・憲法改正でも合意
小泉純一郎さんの後継首相には福田康夫さんが適任と党内外でささやかれた。小泉さんの5年間で外交も国会も、役所との関係もかなり荒れていた。政治をいっぺん落ち着かせる必要があった。
それには安定感のある福田さんが一番ふさわしいと私も考えた。小泉さんは後継に安倍晋三さんを推した。
私は安倍さんに「あなたはまだ若い。一回見送ることも考えていいのではないか」と忠告した。安倍さんは報道各社の世論調査を示し「見てください。どの調査でも私が福田さんより圧倒的に高いんです」と非常に強気だった。
首相になった安倍さんは参院選で思わぬ大敗を喫し、体調を崩して1年で退陣した。代わって首相になった福田さんは参院がねじれて非常に苦労した。そこへ大連立問題が急浮上したのである。読売新聞の渡辺恒雄さんから私に電話があった。
「(小沢)一郎が何度もおれに『大連立をやりたい』と言ってくる。その都度、福田に取り次いだが、福田は煮え切らない。おれも電話交換手みたいなことをいつまでもやってられない。あんたが一郎と話をしてくれないか」
私は福田さんの了解をとって渡辺さんが指定したパレスホテルに出向いた。そこへ小沢さんもやってきた。小沢さんは張り切っていた。
「おれは参院選で大勝して党内から選挙の神様みたいに尊敬されている。今なら党内は全部おれの言うことを聞く。みんな、おれのマジックにかかっているんだよ」
「民主党にはろくな人材がいない。みんなバカばっかりだ。このまま政権をとっても危うい。一度、大連立を経験した方がいいと思うんだ」
小沢さんは大変な鼻息だった。私は「大連立で何をやるの」と聞いた。「まず消費税を片付けよう」と小沢さんは言った。私も賛成した。
増税だけではまずいと思い、私は「憲法改正もやろう」と提案した。小沢さんも「いいよ、やろう」と応じた。これで政策の大筋が固まった。
私は福田さんに報告し、伊吹文明幹事長にも「大連立で執行部をまとめてほしい」と話した。中川秀直さんを呼んで「各派閥に根回ししてくれ」と頼んだ。
2回目の会談では閣僚ポストを詰めた。「あなたは入閣するの」と聞くと小沢さんは「国会答弁が面倒だが、入閣せざるを得ないだろうな。副総理かなあ」と答えた。外務と大蔵、経産と厚労は両党で分け合い、その他は議席に応じて配分することにした。
私はこれでできたかなと思ったが、小沢さんが民主党に持ち帰ると見事に党内の猛反対に遭って、この話はご破算になった。小沢さんから詫(わ)びの言葉もなかった。その後の民主党は手のひらを返したように強硬路線を突っ走った。
小沢さんと私は昭和44年(1969年)初当選の同期である。同期で小沢さんが一番若く、次に若いのが私だった。小沢さんとは一緒に仕事もしたが、振り回されて煮え湯を飲まされることも多かった。
民主党政権は小沢さんの予言通り政権担当能力の無さを露呈して混迷続きだった。小沢さんもいつもの悪いクセを出して民主党をかき回し、結局は離党してしまった。
小沢さんの神通力もすっかり色あせた。そうした小沢さんを見て私も「もう引退していいな」と確信するに至ったのである。
(元首相)
[日経新聞12月29日朝刊P.36]
この記事を読んだ人はこんな記事も読んでいます(表示まで20秒程度時間がかかります。)
▲このページのTOPへ ★阿修羅♪ > 政治・選挙・NHK142掲示板
スパムメールの中から見つけ出すためにメールのタイトルには必ず「阿修羅さんへ」と記述してください。
すべてのページの引用、転載、リンクを許可します。確認メールは不要です。引用元リンクを表示してください。