114. 2012年12月28日 22:36:30
: lr0UAXOMao
中国政府、外交文書に「尖閣諸島」明記−「琉球の一部」と認識、領有権主張の立場と矛盾【北京時事】沖縄県・尖閣諸島(中国名・釣魚島)をめぐり中国政府が1950年、「尖閣諸島」という日本名を明記した上で、琉球(沖縄)に含まれるとの認識を示す外交文書を作成していたことが27日分かった。時事通信が文書原文のコピーを入手した。中国共産党・政府が当時、尖閣諸島を中国の領土と主張せず、「琉球の一部」と認識していたことを示す中国政府の文書が発見されたのは初めて。 尖閣諸島を「台湾の一部」と一貫して主張してきたとする中国政府の立場と矛盾することになる。日本政府の尖閣国有化で緊張が高まる日中間の対立に一石を投じるのは確実だ。 この外交文書は「対日和約(対日講和条約)における領土部分の問題と主張に関する要綱草案」(領土草案、計10ページ)。中華人民共和国成立の翌年に当たる50年5月15日に作成され、北京の中国外務省档案館(外交史料館)に収蔵されている。 領土草案の「琉球の返還問題」の項目には、戦前から日本側の文書で尖閣諸島とほぼ同義に使われてきた「尖頭諸嶼」という日本名が登場。「琉球は北中南の三つに分かれ、中部は沖縄諸島、南部は宮古諸島と八重山諸島(尖頭諸嶼)」と説明し、尖閣諸島を琉球の一部として論じている。中国が尖閣諸島を呼ぶ際に古くから用いてきたとする「釣魚島」の名称は一切使われていなかった。 続いて「琉球の境界画定問題」の項目で「尖閣諸島」という言葉を明記し、「尖閣諸島を台湾に組み込むべきかどうか検討の必要がある」と記している。これは中国政府が、尖閣は「台湾の一部」という主張をまだ展開せず、少なくとも50年の段階で琉球の一部と考えていた証拠と言える。 東京大学大学院の松田康博教授(東アジア国際政治)は「当時の中華人民共和国政府が『尖閣諸島は琉球の一部である』と当然のように認識していたことを証明している。『釣魚島』が台湾の一部であるという中華人民共和国の長年の主張の論理は完全に崩れた」と解説している。 中国政府は当時、第2次世界大戦後の対日講和条約に関する国際会議参加を検討しており、中国外務省は50年5月、対日問題での立場・主張を議論する内部討論会を開催した。領土草案はそのたたき台として提示されたとみられる。 中国政府が初めて尖閣諸島の領有権を公式に主張したのは71年12月。それ以降、中国政府は尖閣諸島が「古来より台湾の付属島しょ」であり、日本の敗戦を受けて中国に返還すべき領土に含まれるとの主張を繰り返している。 領土草案の文書は現在非公開扱い。中国側の主張と矛盾しているためとの見方が強い。 http://www.worldtimes.co.jp/today/kokunai/121228-3.html 在日中国大使館の楊宇報道官は2012年12月27日の記者会見で 「たとえ文書があるとしても、中国が(固有の領土との)立場を変えることはない」とコメントした。 【解説】 中国政府の主張覆す文書、「後付け理屈」鮮明に−尖閣諸島、領土問題と認識せず 【北京時事】日中両国間で対立する沖縄県・尖閣諸島(中国名・釣魚島)をめぐる問題では、現在の中華人民共和国が成立した1949年から、中国が初めて領有権を公式に主張する71年12月30日までの間に、中国政府内部でどういう認識が持たれていたかが大きな焦点だった。50年に尖閣諸島を「琉球(沖縄)の一部」と認識し、「尖閣諸島」と日本名を明記した外交文書が作成されていた事実は、71年末から現在まで一貫する「釣魚島は古来より台湾の付属島しょ」という中国政府の主張を覆すもので、中国側の主張が「後付けの理屈」であることが鮮明になった。 これまでにも、53年1月8日付の共産党機関紙・人民日報が「琉球諸島は、尖閣諸島など7組の島しょから成る」と記述。58年に中国で発行された「世界地図集」が尖閣を沖縄に属するものとして扱ったことも分かっていた。 人民日報の記述について、尖閣問題に詳しい清華大学当代国際関係研究院の劉江永副院長は中国メディアに、「中国政府の立場を代表していない」と強調。しかし今回発見されたのは中国政府作成の文書で、対日講和に当たって政府としての立場や主張をまとめている。 注目に値するのは、この外交文書が琉球、朝鮮、千島列島などの領土問題を扱いながら、尖閣諸島を主要議題にしていない点だ。中国名の「釣魚島」の登場は皆無。日本名の「尖閣諸島」に言及したのも1回だけで、中国が領土問題として尖閣をほとんど認識していなかった表れとみられる。 中国外務省档案館の他の外交文書でも、尖閣諸島を扱ったものは見当たらない。中国政府が尖閣諸島の領有権を主張するようになるのは、68年に国連アジア極東経済委員会が尖閣周辺海域での石油埋蔵の可能性を指摘し、71年6月の沖縄返還協定で、米国から日本に施政権が返還される対象地域に尖閣が含まれてからだ。 結局、「台湾の付属島しょ」とする現在の論理は、70年代に入って中国側が領有権を主張する際、つじつまを合わせるためにつくり出されたものとみられる。 【寄稿】 「中国の論理、完全に崩れる」−松田康博・東京大学大学院教授 「対日和約(対日講和条約)における領土部分の問題と主張に関する要綱草案」(以下「本資料」)は、日本の領土と中国に返還されるべき領土がそれぞれ何であるかについての内部見解、いわば1950年5月の時点における中華人民共和国の「本音」が書かれている貴重な資料である。 71年12月30日に、中華人民共和国は初めて「釣魚島」(日本名・尖閣諸島)に対して領土主権を主張したが、その時から2012年9月の『釣魚島白書』に至るまで、中華人民共和国の主張は、一貫して「釣魚島は台湾の一部である」というものであった。 中華人民共和国の刊行物として、1953年1月8日の『人民日報』の記事や、58年の『世界地図集』では「尖閣諸島」が琉球諸島の一部であることが明記されていた。現在、中華人民共和国の一部識者はこのことを「政府の立場を代表する見解ではない」と説明し始めている。さらに、中華人民共和国は58年に発表した「領海宣言」に「釣魚島」が書かれていなくても、それは「台湾」に含まれるのであるという論理を通してきた。 言い換えるならば「尖閣諸島が台湾の一部である」という論理は、49年から71年までの間に、中華人民共和国政府が内部で「釣魚島」が琉球の一部であると認識しているという証拠さえあれば、完全に崩れることになる。 本資料は「尖閣諸島」という名称を使用しており、まず中華人民共和国政府が日本名である尖閣諸島ではなく、「釣魚島」という名称を使用する慣習が、当時存在しなかったことを示している。つまり、そういう慣習は50年5月以降、おそらく70年代になってから始まったのである。 次に、本資料で中華人民共和国は尖閣諸島を台湾の一部ではなく、台湾と琉球の琉球側境界として論じていて、「台湾の付属島しょ」とは認識していない。このことは中華人民共和国が、下関条約の締結交渉において尖閣諸島を台湾の付属島しょに入れなかった清朝と、尖閣諸島を琉球の一部として認識していた中華民国政府の立場を、49年以降そのまま受け継いでいたことを表している。 特に、尖閣諸島と「赤尾嶼」(日本名・大正島、通常は尖閣諸島の一部とされ、別扱いしない)を、琉球の一部として記述し、「台湾から距離が甚だ近く、台湾に組み込むべきかどうかもまた検討の必要がある」と記述していることは、当時の中華人民共和国政府が「尖閣諸島は琉球の一部である」と当然のように認識していたことを証明している。 したがって、本資料の発掘により、「釣魚島」が台湾の一部であるという中華人民共和国の長年の主張の論理は完全に崩れた。かつて閲覧可能であったこの資料が、現在閲覧不可になっている理由は、この点が公になるのを恐れたためである可能性がある。そういう疑念を抱かせないためにも、中華人民共和国はこの資料を再度公開し、広く歴史研究に供するべきである。 本資料はまた、中国政府がこれまで日本の琉球領有を承認したことはなく、琉球は中国に返還されるべきであると記述している。この立場は、中国による琉球領有を求めようとしなかった蒋介石とは異なる。したがって今後、尖閣諸島に関する自己の言説の矛盾を糊塗(こと)するために、将来、中華人民共和国政府が琉球を日本の領土と認めないという立場を取り始めることも、考えられないことはない。 ただし、中華人民共和国政府は日中国交正常化を決めた72年の日中共同声明の交渉過程で、日本の琉球領有を否定したことはなく、また声明にそのようなことが盛り込まれることもなかった。中華人民共和国は既に日本の沖縄領有を事実上承認しているのであり、その立場を40年以上たってから変更するとなると、日本のみならず、周辺諸国との緊張関係が避けられなくなるであろう。
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