145. 2012年12月28日 00:14:25
: BTNJ5gxVm2
左翼思想の欺瞞 http://www3.hp-ez.com/hp/constitution/page9> @人権擁護法案 「基本的人権尊重」大多数の日本人が良いものだと信じているこの概念 本当に正しいのでしょうか? 名称はコロコロ変ってますが通称「人権擁護法案」なる法案が国会に提出されています。人権侵害を防ぐ目的で「人権委員会」と言う組織を作る法案です。 「あいつが悪口言ったから人権侵害だ」 と言われれば それで捕まる可能性が生じます。守るべき人権の定義もないまま 人権委員会が取締りをするならば 戦時中の特高警察と なんら変りません。そんな訳で人権擁護法案に反対する人も沢山居られます。 ですが、基本的人権の尊重には異を唱える人が殆ど居ません。 では基本的人権って何でしたっけ? 「生きている人が生まれながらにして持つ権利」 こんな ところでしょう。危険な匂いは ここから発せられてます。どこか 分りますか? ”生きている人”に限定し 死んだら権利は消滅します。亡くなった人に「あなたは自由に生きる権利がある」と言えないのだから当然と言えば当然です。 でも思い出してください。殺人事件の裁判で 死んだ被害者よりも 生きている人殺しの人権を優先させますよね。これ完全に人権思想の賜物です。いわゆる人権弁護士だけでは無く 良識のある裁判官も 憲法に基本的人権の尊重を掲げる以上、死者の尊厳より 人殺しの人権を優先させなければならないのです。端的に言うと 人権思想は人殺しを擁護する思想です。肉食獣が草食獣を喰らい「自分には生きる権利がある」と咆哮するなら妥当だと思ひます。基本的人権の尊重と言ふのは、原始の論理なのです。 死者の尊厳を大切にするのが我が国の文化です。人への敬意は 生死に関係無く、お世話になつた方は、亡くなつた後でも恩人です。人権思想は、我が国の文化にはそぐわないと考へます。 人権擁護法案に反対しながら基本的人権の尊重には賛同する態度を取るならば、何が違うのか指摘する必要があります。しかし、「是認出来る人権」と「是認出来ない人権」の線引きが可能でしょうか?私には出来ません。人権擁護法案を提出している議員さん達も その線引きはしてません。要するに出来ないのです。 人権擁護法案は これからも繰り返し国会に提出されるでしょう。なぜなら 憲法で基本的人権の尊重 を謳っているからです。憲法から人権思想を駆逐する事が人権擁護法案を完全に葬る唯一の方法でしょう。 A人権の由来 人権は自然権を基に作られました。その自然権は欧州のキリスト教徒達が、神様が人間に与えた権利と言う程度の穏健な意味でした。 ホッブスが、リヴァイアサンと言う著書の中で基本的人権と言う言葉を使います。このリヴァイアサンと言う本は、「もし神様が居なくて世界が無秩序だったらどうなのか?」と思考実験したものです。その中で ホッブスは、自分の身を守るために 自分に危害を加える可能性のある者を予防的に殺して良い権利の事を 基本的人権と呼びました。 この無秩序の世界は、弱肉強食より過酷な地獄になります。強い者も いつ寝首を掻かれるか分らないからです。ホッブスは、このような地獄を抜け出すには 全員が一斉に 基本的人権(殺す権利)を放棄する事で 殺されない権利が獲得出来ると考えました。しかし、ズルい人間が勝手に 基本的人権を行使する可能性も否定出来ません。それを抑止する為に、国家を形成し国家権力で 人々が基本的人権(殺す権利)を行使しないか見張る必要があるとしました。こうして神の居ない世界で 国家が出来上がるモデルを考えたのです。 ここまでは まぁ マトモでした。この後に ロックと言う思想家が ホッブスをパクリますが 同時に捻りを加えます。元々 神様の居ない世界で考案された基本的人権を 神様が人間に与えた神聖な権利と言うのです。凶暴な人権思想の誕生です。実社会には 法律もあれば秩序もあるのですが、相手が 自分を殺そうとしていると言う不安を理由に 人殺しをする権利を人々が持つ事になりました。 GHQが書いた我が国の現行憲法は このロックの基本的人権の流れを汲みます。ここまで読んで「学校で習った基本的人権と違う」と思った人も居るでしょう。気を付けて下さい。日本人が普段人権と言った時に 弱者救済の意味しか持たないと 勝手に思い込んでいるだけです。思想史として人権は 自衛の為に予防的に人を殺す権利を含みます。そして 我が国は憲法でその権利を守ると宣言しているのです。日本社会を混乱に叩き込みたい為政者が 悪用されたら酷い事態となるでしょう。 http://www3.hp-ez.com/hp/constitution/page9
しかし、日本人は人権を弱者救済と言う意味だけだと思ってる筈だと考える人も居るでしょう。もしそうなら人権擁護法案も 全く問題の無い法案になります。現実には 人権から弱者救済だけを切り離す事が出来ていません。だから人権擁護は危険なのです。それと同じ話で基本的人権の尊重が危険なのです。人権擁護法案に反対だけど 基本的人権の尊重には賛成という人も多く居ます。そうした人には もう一度 人権に関して考えて欲しいと思ってます。 > ロックにはじまり ルソーが 後世左翼思想と呼ばれる思想を発展させます。ルソー自身、社会に不適合で幸せに暮らす人を妬み、自分が惨めなのは世の中が悪いと考えてました。障害者の召使に性的暴行を繰り返し子供を産ませ 孤児院に捨てた真性の精神分裂患者です。 そのルソーの主張の基本路線は「人々が国家を都合良く設計すれば良い」です。その気になりやすい人を釣る優秀な釣り針です。同時に裕福な人を妬み、自分は不当に虐げられていると主張し 破壊活動や略奪行為を正当化する事で 人間の暗黒面を刺激した為に 沢山の人がルソーの思想を受け入れてフランス革命を支える思想になりました。 フランス革命を日本では人類の進歩の様に取り上げますが、端的に言うと共産革命です。数十万人に及ぶフランス人の虐殺も行なわれ、その後のナポレオンに依る侵略戦争も起きた点を考えれると支那共産党と何ら変りません。 ルソーの思想を基に「人々が経済を都合良く設計すれは良い」と考えたのがマルクスです。これがロシア革命の基になる思想です。 共産革命には概して似たような傾向があります。フランス革命 ロシア革命 支那の文化大革命 ポルポト政権下のカンボジア、何処でも共産化すると 自国民を虐殺してます。基本的人権を行使するからです。文化遺産 特に宗教関連施設を破壊します。伝統文化を否定して「人間の意志を至高」と考えるからです。また、伝統に則った考えを古臭いと蔑視します。 また、いずれも周辺国へ軍事行動を起こしてます。ルソーの思想では国民全体の意思が国家の主体としています。他国の為政者を殺したり 他国の政治機構を解体しても その国の国民全体の意思に沿っているなら侵略では無いと規定しているからです。チベットや東トルキスタンやモンゴルなどを 支那共産党が開放していると呼ぶのは この為です。 > ・基本的人権の尊重を掲げてます ・伝統や慣習の軽視が散見されます ・宗教を軽視する風潮が強いようです 元々 憲法に左翼思想が入り込んで居る上に 共産化と同様の社会風潮が強まっています。身近なところから 伝統文化を大切にしましょう。文化とは行動が伴って初めて文化です。お正月に お餅を食べるのは立派な文化ですが、TVでお正月番組を観るだけでは文化と呼びません。念の為。 > 平等:左翼が好んで喧伝するものの一つ そもそも我が国には平等思想など在りませんでした。それでも社会の中で それぞれが役割分担しながら お互いを尊重して暮らして居りました。その基にあったのは「分相応」の考え方です。元々 人は十人十色。皆 違うのです。自分の身の丈にあった仕事をして 人並みの賃金を得て人並みに暮らせれば それが真っ当です。 ところが平等思想に染まった人は、自分より秀でた者を妬み「平等じゃない」と不平を鳴らします。いや、実際に他人が自分より良い待遇を得ていると言うのも幻想で、「隣の芝が青く見えるのは不公平だ」と煽って居る事例すら見られます。 平等思想は 不和を招く思想です。「人は皆同じ」と言う前提で 他人と出会ったならば違う所探しをして差異を確認する事になります。「人は皆違う」を前提に出会ったならば 共通点探しをします。どちらが仲良く成れるか 言うまでもありません。 また、「人は皆同じ」を前提にしたならば「個性探し」をしないと アイデンティティーを保て無くなります。これは「己は一体何者か?」と言う問いと同じで禅問答の類です。進学や就職の面接に間に向けて 答えを用意出来るようものではありません。人生の中で こうした洞察を行う事は有意義だと思いますが、改めて確認しなくても 誰もが そのままで個性を有して居り 確認の必要は無いのです。少なくとも平等思想が輸入される以前の日本人は してませんでしたし それで社会は上手く回ってました。 庭園を見れば日本と西洋の思想の違いが端的に分ります。日本庭園は自然の姿を写して居るのに対し 西洋では木が植物の形すらして居ません。幾何学模様を作る構造物でしか無いのです。そうした発想で会社経営や国家運営をするから そこで働き暮らす人々は均一化された方が管理者は都合が良いのです。 > http://www3.hp-ez.com/hp/constitution/page9
これに関しては動画で述べます http://www.youtube.com/watch?v=vk9p8bqIHZ8&feature=youtu.be 個人主義や人権などの思想は舶来物です。弱者救済と言えば 直ぐに「人権」が持ち出されますが、人権思想が輸入される以前 我が国では人間関係をどのように考えて居たのかを簡単に動画にしました。 弱者救済を考えた場合でも「人権思想」は不要だと考えます。
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