http://www.asyura2.com/12/senkyo141/msg/632.html
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「日本低国の民主主義とは、テレビで暴言妄言を吐くアンポンタンを民が熱狂支持して権力者に仕立て上げる制度のようなのである」と私は以前書いたが、太田昌国によれば「選挙とは、もっとも性悪な人物を自らの代理人として選ぶ儀式」となる。
しかしそれにしても日本低国の貧乏人とは何者なのだろうか?なぜ真逆の選択をするのだろうか?
小説『火車』のモデルにもなった弱い者の味方――宇都宮健児とは正反対の高利貸しの味方の悪徳弁護士――橋下徹に熱狂し、オバアには価値がないと言う石原慎太郎に熱狂し、高速道路の維持管理コスト3割カットを提言した猪瀬直樹が、手抜き検査で結果的に笹子トンネルの天井崩落事故で9人の死者が出たにもかかわらず、その責任が何ら問われることもなく400万票超という大量得票で当選という悪い冗談といい、理解不能な事態が頻発する。
そういえば1万円札の野郎(福沢諭吉)が、権力者にとって貧乏人が知恵がつくと最悪だと、性悪人間の統治の本質を吐露していたが、今現在の日本低国の貧乏人とはまさに福沢諭吉にとっては理想の貧乏人である。あの世も地獄もないが、この世の地獄を満喫中の貧乏人、それを見て今頃福沢諭吉は地獄で高笑いをしているのだろう。
▼・・・「橋下徹はテレビがひり出した汚物である」と辺見庸が講演で言ったと佐野真一は紹介しているが、要するにテレビのお笑い馬鹿タレント(注:お笑いタレントとお笑い馬鹿タレントとは明確に違う)は、トンデモを言っても許される存在なのであり、例えば北野武が社会的にトンデモ発言してもお笑い馬鹿タレントゆえに許されるというわけだ。そうテレビがなければ――あるいは彼らがテレビに出るようなことがなかったら――橋下徹などという権力者の存在など今現在あり得ないのである(石原慎太郎も石原裕次郎の存在を含めて同様である)。どうやら日本低国の民主主義とは、テレビで暴言妄言を吐くアンポンタンを民が熱狂支持して権力者に仕立て上げる制度のようなのである。そこでテレビの側に視点を移せば、エセ民主主義をもたらす日本低国のテレビの効用は、テロ国家アメリカが毎日毎日海外で殺人公共事業をするために国民を毎日テレビで洗脳している効用と双璧をなすものだろう。
テレビは一部では報道を担うが、それについては――「私の国であれだけ政府に都合のいい報道をさせようとしたら、ジャーナリストを拷問することになるでしょう。いったい日本政府は、どんな方法を使っているのですか?」〜ジプシー・トーブ(ロシア人ジャーナリスト)、という発言もあるが、私が問題にするのはそれ以前の問題である。テレビでは暴言妄言が野放しにされる。そうテレビではそれらが言いっ放しにされ、正当に批判されることがない。簡単にいえば、10秒の批判発言で木っ端みじんにされるデタラメが容易に生きのびてしまう。それらが積み重なり、橋下徹・石原慎太郎が今現在も権力者として生きのびてしまっているということである。
これから得られる結論は簡単である。商業テレビ放送をできるだけ見ないことだ。たまに見るとしても眉につばをしてみることだ。橋下徹の浜の真砂の悪政の数々に悪政という判断ができないなら、致命的な誤判断に加え油断大敵落とし穴の連続で、これからも貧乏人はケツの毛まで抜かれ続けるという未来になるが、ケツの毛などなくても生きて行けるとのんきに生き地獄を笑って生きればいいのである。
▼【たんぽぽ舎発】道路公団民営化と高速道路の維持管理コストの大幅削減を主張したのは誰か 猪瀬意見書を分析する 海渡 雄一(弁護士)
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=201212211238405
笹子トンネルの天井崩落事故の原因は、業務要領に定められた打音検査が、省略されていたためとの推測が強まっている。道路公団が民営化される前には実施されていたこの打音検査が、民営化がなされた2005年の検査以降省略されたことが明らかになった。打音検査が省略されるに至った経過と民営化との関連性、民営化の前後で道路の安全性に関する投資がどのように変化したのかなどを検証し、事故原因と民営化との関連の有無を明らかにする必要がある。
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▼太田昌国
状況20〜21
社会の中の多数派と少数派をめぐる断章――選挙結果を見て
2012年12月21日
http://www.jca.apc.org/gendai_blog/wordpress/?p=308
『労働情報』第854/855号(2013年1月1/15日号)掲載
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この社会の中で保守言論が次第に力を得はじめる出発点は1990年前後だったと言える。それは、「革命・革新」を掲げる言論と運動が、世界でも日本でもその影響力を急速に失い始めた時期に重なっている。私は、保守言論が根を張る社会的な基盤の問題としては軽視すべきではないと考え、それらの言論を読み込み、批判する作業をしばらくの間続けた。歴史・論理・倫理などの面から見て支離滅裂な議論を相手にするのは、深い虚しさを伴うことだった。その歴史観が若者の間に浸透しつつあるようだということが、私がその作業の虚しさに堪え得た唯一の理由だった。だが、それから20数年が経って振り返ってみれば、その言論傾向は社会全体を浸しているのであった。
決定的な契機はあった。小泉時代である。政治・社会の中で論理が機能しなくなった例を日本現代史に探るなら、すぐに行き当たるのは小泉政権時代である。思い出すことも忌わしい数々の非論理的で、無責任な発言をこの男は行なった。それが大衆のレベルでは人気上昇の契機にもなった。非論理的な決め台詞が大衆的な喝采を浴びるという状況は、この社会では議論や討論が成り立たなくなったことを意味している。〈政治〉は、テレビスタジオで声の大きな政治屋が芸人相手に与太話に興じるものと化し、投票行動もまたそのレベルで行なわれるようになったのである。
国内には、先行きに対する不安と不満が渦巻いている。その解決に向けた地道な討論よりは、外部にいる、目に付きやすいものを「敵」に仕立て上げればよい。東アジア地域には、その意味では「恰好な敵」が多い。
私たちはいつのまにか、衆寡敵せず、の状況に追い込まれていたのである。
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今回の選挙結果に見られる「危機的な状況」に即呼応できる指針があるわけではない。政治とは、つまるところ、議会内の議員の数のことだと観念するなら、確かに、危機は深い。絶対無勢ながら〈議会外〉から議会内に対応しなければならない期間が、少なくとも数年間は続く。他方、選挙とは、もっとも性悪な人物を自らの代理人として選ぶ儀式と化している、というのが私の確信だ。それが、もっとも悲劇的な形で実現してしまった今回の選挙の当選者の顔写真を一瞥すれば、納得する人も多いだろう。私たちが獲得すべき〈政治〉は、ほんとうに、こんな醜悪な連中の手中にすべて握られているのだろうか? 〈政治〉とは何か、という哲学的・現実的な問いを、選挙の結果とは別に、永続的に自らに突きつけて私たちは歩みたい。その時、「危機」はひたすら外在化されることなく、主体内部のものとしても自覚されるのだ。
(2012年12月18日記)
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