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2012年12月23日 世相を斬る あいば達也
国会は自公連立で衆議院2/3が成立、次の焦点は来夏の参議院選で自公が過半数以上を制し、思う存分“決められる政治”が行える状況に持ちこめるかどうかである。今回の選挙のように有権者に、政治や経済への関心に水を差すようなマスメディアの論調が続けば、地滑り的に自民党が圧勝する事も考えられる。本来、民主主義国家に居住する国民であれば、自分の国の政治経済に対する情報収集と、そのジャッジメントは誰に強要される事なく実行できる素養を持ち合わせている事が求められるわけだが、その肝心な部分が抜け落ちているのが、日本と云う国の民主主義の特長である。
そのような観点から考えてしまうと、日本のマスメディアの醜悪な報道体制を非難するのはお門違いといえるかもしれない。マスメディアの報道や論調をキャッチアップすると同時に、その中身を吟味する器量が国民に備わっていれば、マスメディアの記者クラブスクラム報道の威力は削がれ、夫々の報道機関が独自性を発揮せざるを得なくなるわけだから、報道機関の質を変えるのも、実は国民の民主主義における自立的思考があるかないかで決定するわけで、一面的にマスメディアが糞だと断じてばかりいても解決をみることはないのだろう。
現実に若者世代が政治的ニュースをキャッチアップしてないわけではない。ただ、その媒体がスマートフォンに完全に移行した事実である。SNSにしても、スマートフォン経由が優勢だ。PCによる情報収集も古臭くさえなっている。必ずマスなメディアの価値は下がる。この流れに最も敏感に反応し、対応したのが誰あろう、保守勢力である。或いは右翼勢力である。故に、ネトウヨは水を得た魚の如き振舞いに出ているわけである。ブログランキングでも、ネトウヨ陣営が9割を占めている。ニュートラルやリベラルな人びとの発信は僅かだ。これでは、ニュートラ、リベラルが政治の世界でも勝てるわけがない。
なぜこのようなイビツな民主主義国家が生まれたのかと考えると、問題は複雑化する。短絡的に考えれば、戦前、戦中の日本国民は“お上に逆らわず”と云う教育を心身に叩きこまれていたわけだから、表面的従順と引き換えに、自己責任から解放されると云うバーター取引意識が蔓延していた。徳川幕府体制における農民職人町人と同じように、国家を牛耳る権力は“お上にあり”庶民が口出しすべきものではないと云う自己のポジション認識は、庶民において定着した文化になっていた。勿論、歴史的には、そのような考えでは駄目なのだと云う勢力も現れたが、庶民にメジャーな文化として定着させることはなかった。このような意識構造が庶民の中に根深く浸透していた日本に、突如敗戦により国家の主権は国民に存すると云う“民主主義”が天から舞い降りたわけである。
このような“仏作って魂入れず”で導入された当時から形骸化した国家体制が、日本の現在の“民主主義”なのだと考えて問題はないだろう。表層的に“お上に逆らわず”を標榜し、もっぱら庶民は、日常的には自己の生活を維持する、或いは改善する努力が庶民の“善”と認識されていたに違いない。それが日本人の、国家的政治経済に対する無関心を育む元凶なのである。バーター取引意識下では、国家の政治経済は“お上の責任であり”庶民に責任はないと云う意識は当然強い。故に“敗戦”の責任は“お上”にある。つまり、日本の庶民には、自己責任が不在なのである。
言動などで窮屈さはあるが、その目を掻い潜る限り、自己の生活を向上させることは可能であり、生きて行くことは可能であり、多少豊かになることも可能だったと言えるだろう。徳川幕府の“生かさず殺さず”の支配構造を熟知した生命力豊かな日本の庶民は、強かな狡さを身につけてきたのである。その庶民の性向に、金儲けと云う概念は非常にマッチングした。それが江戸時代の町人勢力であり、戦前、戦中、戦後における財閥の力の源泉であり、最近までの“高度経済成長”に結びつくのである。まさに、日本の国民が活きていいぞと言われた領域は金儲けだけだった、と言っても過言ではないわけである。
つまり、今日の短絡的結論だが、主権が国民にあると言われようが、主権を誰が握っていようとも、庶民の興味は“自己の生活”と云う領域から逸脱したくない性向を未だに根強く持っていることが理解できる。筆者はコラムで、愚民だ、馬鹿だと嘲笑するが、裏返せば“国民は狡賢い”に言い変えることも可能ということだ。このような国家における民主主義の原点、国政選挙は根本的には馴染まないのだろう。非常に憂慮することなのだが、ちょっとやそっとでは、この国民が持つ庶民文化は覆らないだろうから、“待てば海路の日和あり”と云う幸運に恵まれる可能性も低い。
いや、09年の政権交代は鳩山・小沢の“自立と共生”が支持されたと云う人もいるが、現実に起きている“事実”や現象を観察する限り、“自立と共生”と云う理念が、有権者に理解されていたとは言えないので、あの政権交代は単なる大衆の世間的雰囲気に対する迎合だっただけと考えるのが妥当である。視点を変えれば、日本の民主主義が未熟であり、二大政党による政権交代可能な選挙制度(小選挙区制)の導入が早すぎたとか、マスメディア発信の情報と、ネット上で発信される情報の間に乖離があるとか、色んな時代的問題も考えなければならなくなった。
つまり、民主主義と云う意識が未熟な上に、国民の多様なニーズを纏めきれる政党が存立し得る条件が厳しくなっている。その上、その多様性はマスと云うメディアではキャッチアップも出来ないし、整理整頓した上で情報を発信する事は不可能になっていると言っても良いだろう。にも拘らず、2大政党が前提の小選挙区制度が、混乱に拍車をかけているのが現状なのだろう。今回大勝ちした自民党と雖も、数年後には同じような憂き目に遭うことになるだろう。これでは、何時まで経っても、日本の政治経済外交防衛に民意が反映し、国民の強い支持の下、政治主導を実行できる政党は現れないのだろう。
最近筆者は、自分自身「理念政治」や「イデオロギー政治」の枠に捉われすぎていたのかもしれないと、軽く反省している。何故なら、筆者自身は“将来に不安など持ちえない”し、“今後の生活が厳しくなるとも思っていない”、かなり安定した立場で物事を切り刻んでいた傾向がある。或る意味で“強者の理想論”なのである。故に、小沢一郎の理念政治に共鳴しやすいわけだが、今の国民は、理念や理想よりも、明日のおまんまの心配であり、職の確保の心配である。昭和の繁栄の恩恵を蒙った世代の独りよがりであった可能性はかなりある。平成の日本には繁栄はなく、すべてが右肩下がりなわけで、その人々に向かって、理念だ理想だと、人間の矜持だ、日本文化だとご託宣を垂れていても、なんの聞く耳を持たれないような気がしてきた。
勿論、理想や理念は大切であり、捨てるべきものではないが、その前に、今の国民が求めているものへのアンテナを、もっと優れたものに切り替えていかなければならないと切に思っている。「日本未来の党」の行く末も心配だが、彼らは、小沢一郎も含め、些か国民の求めるものを勘違いしていたのではないかと云う疑問にぶち当たるのである。卒原発の公約も良い、女性が子供を生み育てやすい社会への変革も良い。しかし、それは最終的到達地点であり、その間の国民の疲弊をどのようにするかが欠けていた。おそらく、此処が最大の難点だったのだろう。
少子高齢化の問題を追及していくと、女に向かって“結婚しろ”と云うわけで、“結婚なんかしなくても”と云う世代には、意味不明の念仏に聞こえてくるだろう。夫婦・結婚・出産・家族がワンパッケージであった時代を、どのように読み解き、21世紀を担う人々の意識を吸収するか、元に戻そうとするのか、違う価値観を共有するのか、そう云う主張が必要になってきたような気もする。このような傾向は若い世代ほど顕著で、それこそ“未来の人々”のそれなりの哲学が変わっている点に視点を当てる政党としての立ち位置も必要になってきたようだ。その意味で、家族が見取る介護制度等と云うモノも、時代から乖離した福祉政策等だと思う。
そう云う意味では「日本未来の党」が今のままの公約に拘泥して行くなら、来夏の参議院選も、これと言った成績が挙げられず、その他大勢の弱小政党に埋もれてしまうのだろう。ここは考えどころである。実質的リーダーになるとみられる阿部知子代表が、その辺の情報発信に熱心であるかどうか、地道な選挙戦と空中戦的ネットでの情報発信、この二つの要素を組み入れないと、埋没する事は間違いがない。霞が関改革で地方主権になり、国民経済生活がどのように具体的に変わるのか、公式サイトですら、何ら説明に及んでいない。今、政党の公式サイトで、最も不熱心なのは「日本未来の党」である。これでは、この政党に未来はない。
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