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文藝春秋 1999年9月特別号 所収 「日本国憲法改正試案」小沢一郎(自由党党首)
http://www.ozawa-ichiro.jp/policy/04.htm
第九条はこう修正すべきだ
参議院を「権力なき貴族院」にせよ
日本国憲法が衆議院本会議で可決されたのは、昭和二十一年八月二十四日のことである。同年十一月三日に公布され、翌年の五月三日に施行された。占領軍総司令官であるマッカーサーが政府に草案を出したことは広く知られている。半世紀以上もの長きにわたって、一度も改正されることなく、現在に至っている。
「この憲法は、国の最高法規であって、その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部又は一部は、その効力を有しない。」
これは日本国憲法第九十八条の規定である。数多くの法律のうち「最高法規」と位置づけられているのか憲法である。国民の生命や財産や人権を守るために定められ、平和な暮らしを実現するために自分たちで決めたルールである。時代が変わればルールも変わるはずなのに、五十年以上も憲法は改正されていない。新しい時代に必要な価値観を書き加えられることもなく、化石同然の代物を後生大事に抱えている。それなのに現行憲法が完璧であるかのように主張する人たちが多い。
さらに誤解を恐れずに言えば、占領下に制定された憲法が独立国家になっても機能しているのは異常なことである。民法においては、監禁や脅迫により強制された契約が無効であることは自明の理である。それなのに話が憲法になると「占領下であっても国会で論議されて、正当な手続きを踏んだ上で定められている」などと、法の精神を無視した主張が罷り通るのである。
昭和二十一(一九四六)年、日本は軍事的占領下にあった。日本人は自由に意思表示できる環境になかった。正常ではない状況で定められた憲法は、国際法において無効である。これは一九〇七年に締結されたハーグ条約に明記されている原則であり、日本が終戦後に受諾したポツダム宣言にも、日本国の統治形態は国民の「自由に表明せる意思に従う」という条項があった。
他国の憲法をみても、例えばフランス共和国憲法には「いかなる改正手続きも、領土の保全に侵害が加えられている時には開始されず、また、続行されることはできない」と書かれている。東西ドイツ統一以前の連邦共和国基本法(通称、ボン基本法)には「この基本法は、ドイツ国民が自由な決定により議決した憲法が施行される日に、その効力を失う」という文言があった。
日本では長い間、憲法改正を論じることさえも憚られていたので、私のような政治家がこのように主張すると「平和憲法」を有難く戴いている人達は「右翼反動」というレッテルを貼るかもしれない。もちろん、占領下に制定された憲法だからと言って、すべて間違えていると思っているわけではない。私はこの憲法をそれなりに評価している。学生時代には法律家を志して、特に憲法はよく読んでいた。しかし平和とは、なんであるか。憲法とは、なんであるのか。もう一度、冷静に考えるべきではないか。
占領下に制定された憲法は無効
結論を言えば、昭和二十六年にサンフランシスコ講和条約が締結され、国際的に独立国として承認されたことを契機に、占領下に制定された憲法は無効であると宣言し、もう一度、大日本帝国憲法に戻って、それから新しい憲法を制定すべきであった。もちろん新しく制定される憲法が「日本国憲法」そのものであっても、何ら問題はない。これは私のオリジナルな考えではない。占領下に制定された憲法が無効であるのは、かつては日本でも普通に論じられていた。佐々木惣一氏や大石義雄氏など、京都学派の代表的意見がそうであった。
米ソ対立の五五年体制の下、ひたすら高度経済成長に邁進するうちに、日本には独特な精神風土が育まれていた。「護憲」と言うといかにも信念があるようだが、その実態は思考停止の馴れ合い感覚で、現体制のままでいいではないか、そんなに難しいことを考えなくてもいいではないかという無責任な考えが深く浸透していたのである。「守らなければならないのだから、議論をしてはいけない」と、すぐれて日本的発想に支配されていた。政権党である自民党は当初は綱領にも書いてあった「自主憲法」の制定にいつのまにか蓋をし、野党第一党の社会党に至っては「平和憲法」をひたすら標榜するだけで、いつしか憲法は不磨の大典となった。佐々木氏や大石氏を始めとする京都大学の学者の見識も忘れられるようになったのである。
二十一世紀を迎えようとしている今、日本は大きな転換期にあることは否定する人はいないだろう。日本的な馴れ合い主義では内外の変化に対応することはできない。江戸時代のような鎖国状態に後戻りする事を望む国民は一人としていないであろう。ならば、国民の意識を世界に通用するように変革すること、それが唯一の道である。そのためには、まず法体系の根幹である憲法が様々な不備を抱えたまま放置されていることから改める必要がある。憲法改正論議こそ時代の閉塞状況を打破する可能性がある。
私は個人的にも代議士生活三十年の節目を迎えて、改めて戦後の日本のタブーに異議を申し立てる決意を固めている。折しも国会には憲法調査会の設置が決まった。これは発議権のない調査会という曖昧な位置づけではあるが、これまでの状況を考えれば一歩前進とも言える。ここで私なりの「憲法改正の考え」を発表し、出来るかぎり自由な発想による憲法論を展開して、国民の冷静な判断を仰ぎたい。
尚、最初からお断りさせていただくが、私は法律の専門家ではないので、法規範としてとらえれば、非常に不適切な文言、稚拙な表現が多々あると思う。従ってこの文章は、あくまでも憲法に対する自分の主張を表現したものであるということで、ご理解いただきたい。
表現はシンプルであれ
昭和二十二年に施行された日本憲法は、わずか六百字程度にすぎない「前文」から始まる。
「日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたって自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないようにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する……」
あらかじめ知ってほしいのは、憲法解釈のときに時代背景などを理由づけの根拠にするのは禁じ手であることだ。法解釈には立法者の意思を持ち込まず、あくまでも条文に従って解釈すべきだと断っておく。例えば、憲法制定時の経緯からすると、アメリカ占領軍は、当初は日本に二度と戦力を持たせないようにしようと考えていた。日本人は鬼畜米英を唱える狂信的な民族であると思っていたのである。この方針は米ソの冷戦構造がはっきりしてくると変わっていくのだが、このような歴史的経緯を憲法解釈に持ち込むべきではないことは、法律解釈のイロハである。
この前文には日本国憲法の基本原則が書かれている。平和主義の原則。基本的人権の尊重の原則。国民主権の原則。さらに付け加えて強調したいのは、国際協調主義の原則が謳われていることだ。この四原則を変える必要はないと、私は考えている。
ここではわかりやすいように新字体、新仮名で引用したが、実際の憲法には「日本國民は、正當に選擧された」と旧字体で書かれてあったり、文章自体も翻訳調で読みにくいなどの形式的な問題はあるが、この点について今回は触れない。あくまでも憲法の内容について論じる。ただ、表現はできるだけシンプルであることが望ましい。さらに我々の伝統や文化に基づいた日本人独自の内面的資質についても、前文で踏み込むべきではないかという議論もあって、それにも私は基本的に賛成である。
また、本来なら前文で書かれるべき抽象的な理念が、遂条部分に書かれていることで、裁判に混乱が生じていることも事実である。例えば第二十五条の「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」などは本来、前文に置くべきで、むしろ国際協調主義などは遂条にもあって然るべきであろう。
天皇は日本国の元首だ
第一章には、「天皇」(第一条〜第八条)の項が設けられている。日本国憲法第一章第一条は、この一文である。
「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。」
いわゆる、戦後左翼の主張のように、単純に「平和憲法」と思っている人達は、前文の理念的なメッセージに引きずられて勘違いしている。日本国憲法は立憲君主制の理念に基づく憲法である。天皇が一番最初に規定されていることからも。それは明らかではないか。
元東大教授の宮澤俊義氏などが「国家元首は内閣総理大臣である」と主張しているのも間違いである。宮澤説は大日本帝国憲法との比較において日本国憲法は共和制であると位置づけているのであるが、例えば第六条に書かれているように、主権者たる国民を代表し、若しくは国民の名に於いて内閣総理大臣及び最高裁判所長官を任命するのは天皇である。又、外国との関係でも天皇は元首として行動し、外国からもそのようにあつかわれている。このことからも国家元首が天皇であることは疑うべくもない。天皇が国家元首であることをきちんと条文に記すべきであると主張する人もいるが、今の文章のままでも天皇は国家元首と位置づけられている。宮澤説は私も学生時代に何回も呼んで勉強した経験をもっているが、戦後社会や今日にも成されている、戦後左翼が好んでする議論に通ずるものだと思う。
条文の順に従って、第二章「戦争の放棄」(第九条)に移る。
「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。」
この第九条は、戦後日本において最大の論点であった。ここにかかれているのは国権の発動、すなわち自衛権の発動は個別的、集団的を問わず抑制的に考えるべきであるという原則なのである。平たく言えば、直接の攻撃を受けなければ武力による反撃はしないということだ。第九条の小見出しも〔戦力の不所持〕や〔交戦権の否認〕ではなく、〔自衛権の発動〕とすべきである。
自衛権というのは、人間に譬えれば正当防衛権である。これらの本来的な権利は「自然権」として認められていて、最高法規の憲法や国際条約は言うに及ばず、いかなる法律もその権利を否定することはできない。一国の中で強制力を持つ刑法体系においても、正当防衛や緊急避難は認められている。強制力を持つ統一した法秩序の存在しない国際社会では更に当然の国家としての自然権である。国家の正当防衛権が認められなければ、憲法など成り立たない。したがって、憲法九条はこうなる。
[自衛権]
一 「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。」
二 「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。」
三 「前二項の規定は、第三国の武力攻撃に対する日本国の自衛権の行使とそのための戦力の保持を妨げるものではない。」
(編集部注・小沢試案)
「正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求」すべしと、第九条では冒頭に説いている。さらに前文には「平和を維持し、専制と、隷従、圧迫と偏狭と地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたい」と、日本は平和創出のために積極的な役割を担うことを表明しているのだ。しかし実際には、どのようにして国際社会における正義と秩序を維持すべきであるのか。
日本の平和活動は世界の国々が加盟し、唯一の平和機構である国連を中心にやっていくしかないと、私は考えている。全文で書かれている国際協調主義は、遂条にも具体的に盛り込まれることが望ましい。そこで日本国憲法第二章第九条に続いて、新たに次のような一条を創設することにより、憲法の目指す国際協調主義の理念はより明確になるだろう。
[国際平和]
「日本国民は、平和に対する脅威、破壊及び侵略行為から、国際の平和と安全の維持、回復のため国際社会の平和活動に率先して参加し、兵力の提供をふくむあらゆる手段を通じ、世界平和のため積極的に貢献しなければならない」(編集部注・小沢試案)
この条文の精神は国連憲章第七章の「平和に対する脅威、平和の破壊及び侵略行為に関する行動」と同じものであり、又日本が国連に加入する際に発出した文書と同じ趣旨のものである。
国連に加入して国連憲章を是認しながら、「国連が認める平和活動に参加することは国内憲法によって許されない」と言うのは支離滅裂である。先述のように、憲法の前文には国際協調主義が貫かれている。その原則に従って、新しい時代における平和主義の理念を表明すれば、なし崩し的な軍事大国化という近隣諸国の懸念を避けて、誤解を解消することもできる。現行憲法の前文には「国際社会において、名誉ある地位を占めたい」とある。名誉ある地位を占めるために、我々はあらゆる努力をする必要がある。「お金だけ出します」は、もはや通用しない。
「国連常備軍」を創設する
直接的に武力攻撃を受けたときの反撃手段のため、最小限度の軍事力として自衛隊を持つ。加えて国連の一員として平和維持活動に協力して「国連常備軍」の創設を計画したり、軍縮や核兵器廃絶などの具体的な目標を法律(安全保障基本法)に織り込むことも可能である。
新世紀を迎えようとする日本が平和を維持し、生き残っていくためには、国際社会との協調を図らないければならない。そのためには、国連を中心としたあらゆる活動に積極的に参加していく以外に道はない。その意味で私は、日本が率先して国連常備軍の構想を提案すべきだと思う。兵器・技術の発達により、もはや昔の主権国家論は通用しなくなった。個別的自衛権や集団的自衛権だけで、自国の平和を守ることは不可能である。集団安全保障の概念、すなわち地球規模の警察力によって秩序を維持するしかない。自衛隊は歴史的使命を終えて、これから縮小することになる。そして日本は国連常備軍に人的支援と経済力を供出すべきである。
明治維新のとき、朝廷は武力を持たなかった。警察力も権力もなかったので、薩長を中心に親衛軍をつくったのである。今の国連は、ちょうど維新後の朝廷と立場が似ている。固有の力を持っていないので、事が起きた時に、その都度各国に呼びかけPKOを始めとして多国籍軍の編成を行うことになる。これでは、緊急な時に迅速な行動がとれないという事もあり、又、その時々の各国の思惑や事情により実効があがらないという面も多々ある。従ってこういうやり方でなく、一歩進めて国連に常備軍を設けるべきであるというのが私の主張である。日本は国際協調によらなければ生きていけないのだから、日本が積極的にこの常備軍創設を呼びかけるべきだ。アメリカはこの考え方に賛成ではないが、日本はその説得にあたると同時に、経済的にも軍事的にもその力の備わった有力な国々に積極的に提唱し、それを率先して実行する姿勢を示すべきである。
一概に、国連を中心とした集団安全保障とは言っても、もちろん実はそこに国益が絡んでいることもある。湾岸戦争のときにも、アメリカはメジャーの石油資本を守りたいという思惑があると主張する人達がいた。確かに、自らの利権を守るために軍隊を派遣する側面もあった。しかしアメリカはけしからんと短絡的に批判することに、何の意味があるのか。
これはグローバリゼイションの問題でもある。この流れに反感をもつ人達の中には、「グローバリゼイションとはアングロサクソン原理の国際化である」と言って批判する人がいる。しかし、そんなこと言っても、どうしようもない。世界はそれに基づいて動いているのだから、きちんと対応して克服するしかないのである。アメリカと手を切ることは、日本が鎖国するということに等しい。それでいい、それこそが真の幸せだと確信できるのであれば、それも一つの行き方であり哲学だと私は思う。しかし、物資的豊かさは人一倍享受したいと願っているくせに、口先でだけそんな事を言うのは、日本的"アマッタレ"以外の何物でもない。
結論として言えば、国際の平和と安全の維持、回復のため我が国が積極的に貢献することは、憲法第九条に言う「国権の発動たる戦争」とは全く異質のものである。
すなわち、我が国が世界の恒久平和のために、国連権章に基づき、兵力の提供を含むあらゆる手段を用いて貢献することこそが、結果として我が国自身の平和と安全を守ることである。
そして、これこそが日本国憲法の目指す「国際協調主義」の原点そのものである。
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小沢一郎は改憲論者である。はっきりいって自民党の憲法改正草案と言ってる趣旨や改憲内容がほぼ同じである。法律によって民主的手続きで制定される軍の運用方法について小沢一郎なりの国連中心の考え方があるだけである。
本質論を言えば、日本政府が対米、自立した上でその結果として改憲というのが
小沢一郎の考えであろう。そういう意味では自民党の改憲の提案は時期尚早とも取れる。
だが日本は民主政体である。最終的には選挙を通じて具体的にどうするかは国民が決める話だ。対米従属で酷い目にあってもそれは国民の判断だという事だ。
小沢支持者が改憲と特に九条について批判をするのが全く、私には理解できない。
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