http://www.asyura2.com/12/senkyo140/msg/722.html
Tweet |
日本ジャーナリスト会議 Daily JCJ
2012年12月10日
「亡国」「改憲」潮流が跋扈する総選挙報道=日本の選択肢はこの二つだけではない
日本の近未来を用意し、決定付けることになる大事な総選挙が、16日に迫る。
選挙期間中で唯一の日曜日となった9日には、各党の党首らが舌戦を繰り広げ、批判の応酬が激しさを増す。 主要争点は、原発、TPP、消費増税、それにオスプレイなど米軍基地問題。しかし、それに通低する「米国・米軍との関係」の見直し再構築の課題や、結局、下野しても右翼小児病を脱し切れず、さらにその傾向を強めるに至っている自民党の「改憲」「国防軍創設」や、青年将校気取りのロートルと若手がタッグを組んでの、その名を思い浮かべるのも恥ずかしくて反吐が出る「日本維新の会」の「核保有」「集団的自衛権の行使」など、後ろ向きで非生産的・独りよがりの「改憲」策動が、うごめいている。
(JCJふらっしゅ「Y記者のニュースの検証」=小鷲順造)
いずれも「公約」に「憲法」改定、というか、現在の日本国憲法の根幹部分=平和主義、民主主義、人権尊重を否定して、「憲法」をつくりなおそう(内容は、日本を大日本国憲法の時代に戻そうとする主張ともとれる)を全面に打ち出したのだ。
その「改憲」2派は、安倍・自民総裁を軸についたりはなれたりしている。安倍氏が維新を、自民総裁返り咲きの足場の一つとしてつかったこともあるが、返り咲き後はいったん冷え、右派メディアを軸とした世論調査で自民の「台頭」が報じられ、一方で維新の大阪以外での不調が明確になってくるや、維新の自民への擦り寄りも表れた。維新内部の「たちあがれ」勢力の思惑やリードがあるのだろう。
「改憲志向」「好戦的体質」などに顕著にみられるように、体質的には維新は、自民の別働隊ともいえるが、今回、代表に石原・前都知事をすえたことで、選挙後の自民・維新の合体の可能性はより複雑化した。こぶしを振り上げ、日本を右傾化させ、経済社会を古臭く、あぶない「国家社会主義」へ統合させ、国民をその道に大動員して、自らのしあがったり生き残ったりしようとする策動に、私たちの国を同化・同調させるようなことがあってはならない。
安倍・自民総裁については、「安全保障はタカ派、経済はハト派」などと称するむきもあるようだが、その「経済はハト派」についても、どうも眉唾だ。消費増税について「単純には言えない。デフレ傾向がさらに強まっていくようであれば(増税は)できない」などと発言しているようだが、ようするに原発、TPP、消費増税など重要政策で「あいまい」姿勢をとりつつ、集団的自衛権行使容認や教科書検定制度見直しなどで、正常な「保守」とはいえない「右傾」色を打ち出している。
維新はいうまでもなく、自民党も、総選挙で「勝利」するようなことがあれば、自分たちの「公約」が承認されたとして、日本国憲法と関連法規の「停止」あるいは「解釈変更」を強行するなどして、日本社会を米国の戦争やビジネスの遂行基盤として機動的に駆使できる社会へと誘いかねないのではないか。米経済や米軍依存・癒着の指摘を受ければ、「自主独立」と称して実態を覆い隠し、野田民主党がひいた武器共同開発の路線や、あるいは「核」の持ち込み容認などの路線へと突っ走りかねない危うさがある。
亡国的なTPP容認、原発容認(維持・推進)、消費増税容認。これらを私は「亡国潮流」ととらえているが、これは、かつての自民党の失政のツケを民主党政権が自らかぶろうとし、フォローしようとする流れであると思う。また、自民党のほうも、国を根本から「崩壊」に近い状況へと誘った自らの失政・悪政の責任を、民主党政権になすりつけ、それで「みそぎ」とする行為にほかならないのではないだろうか。
3年以上の下野でも、自民党は変われなかった。もっとひどくなっていることが「公約」の中身からも、それをこのタイミング、この段階で打ち出すことからも、はっきりと読み取れる。
景気低迷・世界不況にあえぐ経済状況のなか、民主党は「デフレ脱却をできなかった」と、それまでの自民党の失政・悪政をたなあげして、無責任に自己正当化し、「日本を、取り戻す」とキャンペーンを張る。あいかわらず、まったく無責任な、ダブルミーニング、トリプルミーニングのキャンペーンではないか。そこにこめられた執念もさることながら、「公約」に「改憲」「壊憲」を堂々と打ち、TPP、原発、消費増税、オスプレイ・基地問題はあいまい、あるいはスルーを決め込むやり方には、あいかわらずの姑息と独りよがりがにじみ出ている。
いかに眉唾の「世論調査」でも、その自民党が「優勢」であるかのような報道がなされるのは、メディアの中に依然として、これも賞味期限切れが顕著な「二大政党制」への幻想が残ったままであるためなのかもしれない。その幻想を、幻想として見極めたい者たちが、これまた「第三極」に幻影をみてきたためなのかもしれない。
いずれにしろ、メディアが健全な力を発しているとは到底いえない状況である。
そうした混乱は、自らの確固たる足場を築けずに自滅した民主党の稚拙さによるのかもしれない。政権や役所に依存する習性から抜け出せないでいるメディアのそうした稚拙さ、もはや稚拙では済まされないほどに罪深くなっている。
これまでのところ、総選挙報道は「亡国」潮流、「改憲」潮流が跋扈するような状況で推移してきた。だが、日本社会の選択肢は、この二つに限られるわけではない。
それをメディアが、実態としてこの2者の選択へと誘導しまうようなことがあれば、それは日本社会の視野を狭窄させ、結果、投票行動においても、政治への期待においても、この国・この社会の将来への信頼や展望についても、ゆがめ、判断を誤らせることへとつながりかねない。なにより、投票率の低迷を引き起こしかねない、と私は心配になる。
そうしたメディア状況も含めてとらえなおせば、いま日本社会は、「壊国」か「再建」か。その究極の選択を迫られているといえるのかもしれない。今度の総選挙は、私たちの社会でそれをしっかりと問い直す、重大な分岐点といえるのかもしれないとも思えてくる。
民意の醸成に寄与するのではなく、民意を競争に駆り立て、勝ち馬はどこかを当てさせたり、競争をあおったりするような「選挙報道」は、あるべき「選挙報道」とはいえまい。総選挙の意義を、国の主体者である民衆とともに問おうとする姿勢を薄れさせるばかりで、まるで「予想屋」の軍団のような姿に、マスメディアが堕し続ければ、政治だけでなくマスメディアの凋落にもさらに拍車がかかるばかりだろう。
政治家は選挙で選べるから、一進一退はあっても、それで一定の歯止めも、交代も成し遂げられていくが、マスメディアの場合は事情が異なるし、役割も異なるし、歯止目のかかり方も交代の実現の仕方も異なる。重たい公的使命も役割も担いながら、担っているはずでありながら、公務員ではない。当然だが、そのことに誇りと自覚をもつのが、マスメディアの従業員たち、記者たち、編集者たち、ジャーナリストたちであるはずだ。権力機構と同化してしまうようでは、もはやその任は果たせない。浅知恵で上っ面ばかり追い、自らの保身や生き残りをはかるだけの輩の蔓延に注意が必要なのも、政治家だけでなく、メディア界も同様だろう。
民主主義社会における、その初歩であり基本であり基礎である命題について、この総選挙は問いかけている。現場の記者やジャーナリストには、(一部はちがうかもしれないが)エリートを気取ってあいまいな態度をとり続けるヒマも趣味もないのが実態だろうが、なぜか、マスメディアから垂れ流される「情報作品」は一様に「第三者」然としていて、「勝ち馬」を見極めさせようと競争心をあおっていないか。取材プロセスだけでなく、自らが創出している情報環境のチェックが欠かせなくなっていることも、あらためて想起しておきたい。
メディアの貧困は、政治の貧困を生み出す。それはわかるが、政治の貧困が、メディアの貧困を助長し続けねばならない理由はない。「客観報道」「不偏不党」という美名に隠されたご都合主義が、そのタテマエさえ保てなくなり、無責任な報道を生み、無責任な政治を生む要因として働いているならば、大急ぎでその泥沼から抜け出さねばならない。いまこそ急ぎ、メディアは真に「政党からの独立」を果たさねばならない。メディアは体質も、緩みも、癒着も、基本理念・基本姿勢の確認も、取材現場・デスク・本社の指示や連携や確認や判断のプロセスやシステムのありようについても、総合的かつ仔細に問い直す時期にいる自覚を急がねばならないとの認識を、さらに強めるべき時期にあるのではないだろうか。
今度の総選挙は、小泉・自公政権時に顕著となった「負のスパイラル」から、日本社会を脱却させ、救い出す選挙である。安倍・自公政権の「復古改憲」の潮流がその「負のスパイラル」に輪をかけ増幅させたことも忘れるわけにはいかない。ファシズムは「笑顔」で近づいてくる。「笑顔」で人や文化や敵対する勢力を切り捨てようと策謀をめぐらす。その流れに気づかずに、「笑顔」や「威勢のよさ」などに揺さぶられながら、そこに一縷の望みを託したりする安易な投票行動こそ、戒められねばならないだろう。
後ろ向きにアクセルを踏もうとする「改憲」か、亡国のTPP容認、原発容認、消費増税容認か。それとも、そうではない日本を基盤から支えなおし築きなおしていく道か。そして「戦争か平和か」(桂敬一)、そのきっちりした「選択」も、問われているのである。
メディアとジャーナリストは、「いま言うべきことを言っているか」「いま伝えるべきことを伝えているか」(新井直之)。16日までの残された日々を、いかに過ごすか、いかに生きるか、いかに動くか。 政治家もメディアも、市民もジャーナリストも、私たちすべての当事者が、当事者意識を失うことなく、やるべきこと、果たすべきことを、いまやることをはっきりと心に決めて、とりかかる大事なときをむかえている。いまほど一人ひとりが問われ、一人ひとりが求められ、一人ひとりが生き、活かしあうことが期待されているときはないだろう。
3・11の打撃と爪痕からいかに人の生命と自然を守り、未来を切り開いていくか。いかに日本の経済社会を、長い長い景気低迷と世界不況の打撃から脱出させていくか。いかにアフガン、イラク戦争の惨劇と、その後に引き続く世界の不安定、人々の苦難苦境を乗り越えていくか。今度の総選挙を、すべてを好転させていくための第一歩を日本社会が雄々しく踏み出すきっかけ、基盤としていかねばならない。私には、そう思えてならないのである。
(こわし・じゅんぞう/日本ジャーナリスト会議会員)
http://jcj-daily.seesaa.net/article/306177023.html
この記事を読んだ人はこんな記事も読んでいます(表示まで20秒程度時間がかかります。)
▲このページのTOPへ ★阿修羅♪ > 政治・選挙・NHK140掲示板
スパムメールの中から見つけ出すためにメールのタイトルには必ず「阿修羅さんへ」と記述してください。
すべてのページの引用、転載、リンクを許可します。確認メールは不要です。引用元リンクを表示してください。