142. 2012年12月01日 09:46:45
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中日新聞に意見広告を!名古屋市の河村たかし市長は2012年2月20日、中国共産党南京市委員会の代表に、「戦闘はあったがいわゆる南京事件はなかったのではないか。いずれにせよ、友好のためにも議論をしたい」と発言した。この市長発言に対するバッシングは凄まじく、中国共産党の「必ず代償を払うことになる」(人民日報)という恫喝や報復措置のみならず、国内からも「発言を撤回せよ」との圧力が加えられた。 こうした言論否定の動きに疑念と危機感を抱いた人々が、河村市長発言を支持する緊急国民集会を開催した。その集会の賛同団体の代表が集まって、「河村発言を支持し『南京』の真実を究明する国民運動(略称「南京の真実国民運動」)という組織を結成した。3月15日の会合で、代表には渡部昇一氏が就任し、私は他の3人のメンバーとともに副代表に選ばれた。 その会合では今後の活動方針が討議されたが、その中で、河村市長をサポートする方法として、名古屋市に圧倒的なシェアを有する中日新聞に意見広告を掲載してはどうかという話が持ち上がった。 私は委員会の他のメンバーとも協議して、3月20日頃までに、次のような意見広告の組み立ての骨子を決めた。 (1)中日新聞の名古屋市内板に河村発言支持の意見広告を出す。 (2)各政党の有力メンバー、地方自治体の首長、日本を代表する識者・文化人に「呼びかけ人」になっていただく。 (3)意見広告には、賛同者として現役の衆参国会議員の氏名を掲載する。 (4)費用は一般から寄付金を募る。 (5)意見広告はシリーズ化し、寄付金が集り次第、全国紙に第二弾、第三弾の広告を打つ。 この方針に基づき、@呼びかけ人就任の依頼と国会議員の賛同者の署名集めA意見広告掲載媒体(中日新聞社)との交渉B寄付金呼び掛けの広告出稿、の3系列の作業を同時並行で進めた。中日新聞との交渉は、広告業界の事情に詳しい評論家の西村幸裕氏のご協力を得て具体化し、同氏に委員会のスタッフに加わっていただいた。 呼びかけ人への就任を承諾していただいた方々は、50音順に安倍晋三、石原慎太郎、上田清司、櫻井よし子、すぎやまこういち、原口一博、平沼赳夫、渡部昇一の8氏。政界、言論界などで日本を代表する、錚錚たる顔ぶれである。 特に3人の政治家の方々には、河村市長との政策。政綱上の違いを超えて、呼びかけ人となる決断をしていただいたことは誠に有難く、歴史に残る快挙である。 4月末までに、国会議員の賛同者は超党派で58人となった(5月10には61人)。 中日新聞社への意見広告掲載の申込みは3月22日に、西村氏の紹介による広告代理店を通して行った。名古屋市内版に全ページの意見広告を5月中旬頃に掲載したいというもの。3月23日、中日新聞広告局から回答があり、@名古屋市内版のみの意見広告の掲載はできず、中日新聞全域での掲載となることA料金は料金表通りで値引きを一切しないので、「料金が高いのであれば掲載の段数を減らしてご検討下さい」とのことで、この他「広告の見本ゲラがほしい」と伝えられた。 そこで委員として種々検討の結果、全ページ広告は資金的に難しいので紙面の3分の1となる全五段の意見広告としたい旨を、4月2日に申し入れた。これで意見広告のサイズが確定したので、4月5日には中日新聞の全五段の広告サイズのデータ(天地176ミリ、左右385ミリ)が送られてきた。私たちはこのデータをもとに広告をデザインし、見本ゲラを作成して4月10日に審査用に提出した。広告代理店の担当者のメールには、「専属代理店△△(社名を秘すー引用者)に原稿案を渡して早速審査してもらうことになりました」と書かれている。 私たちは、広告の審査では数日で結果が出るものと理解していたので毎日、首を長くして結果の連絡が来るのを待っていた。というのは、意見広告の寄付金を募る広告を雑誌『WiLL』6月号(4月26日発売、69ページ)と『正論』6月号(5月1日発売、38ページ)にそれぞれ1ページ広告として出稿の予定であり、その締切に間に合わせたいという希望があったからだ。審査がパスすれば、広告の中の<掲載紙>の欄に「中日新聞」と書くことができる。その方がより具体的でイメージが湧くので、募金を呼びかける効果が大きいのだ。 広告ゲラが審査を通過
しかし、デッドラインの日までに回答は得られなかった。そこで信義を守るため、やむなく、「<掲載紙>現在調整中」とせざるを得なかった。審査の結果の連絡があまりに遅いので、代理店を通して催促した。中日新聞の代理店からは4月17日、「掲載の可否について必ず近いうちに結論は出す」との回答があった。 4月19日、やっと広告ゲラの審査が通った旨の連絡があった。同日付の中日新聞側の広告代理店が発信したメールには、「今回の掲載につきまして、新聞社から了解の返答がありました」と明記されている。9日間もかかったのだから、よほど慎重に審査したに違いない。中日新聞社からは、広告原稿についての確認事項が3点にわたって述べられている。 第1は、現職の国会議員が名を連ねることは公職選挙法に抵触する可能性があるのではないかという問題。これについては、国会議員秘書を通して総務省に問い合わせてもらい、全く問題はないとの回答も得た。 第2は、「意見広告」であることを表示する文字を大きくして欲しいというもの。これについては、デザインを微修正することにした。 第3は、「最終原稿で再度審査をさせていただきます」というもの。本件の場合は、予定通り国会議員の氏名が入るだけで、他の要素は全く変わらないので、最終審査といっても一応確認するという程度のものであることは自明である。 第4は、定価料金の確認で、値引きは一切しないことが改めて確認された。 以上の経過から明らかなように、この時点で広告依頼主である「南京の真実国民運動」と中日新聞との間で、意見広告掲載に関する合意と契約が成立したことになる。 4月25日、両者の契約関係が成立したことを受けて、当方の広告代理店を訪問し、掲載日などについてのツメの協議を行った。その場で、@掲載日は5月16、17、18日のいずれかとすることA原稿の入稿は5月10日とすることB料金の支払いは掲載月の翌月に請求書を出し、その翌月の末日とすること、などを決めた。@Aについては中日新聞社に申し入れた。 連休に入る直前の4月27日には、面取り(新聞紙面のスペースの確保)に関して「5月16〜18日では5段面が取れない」との回答があり、「23日ではどうか」との逆提案があった。いずれにせよ、4月19日以降は、掲載を前提とした実務的な調整の段階に移行していたのである。 一転、掲載拒否を通告
中日新聞専属の広告代理店の幹部が当方の広告代理店を突然訪れたのは、5月2日の朝イチの時間帯だった。そして、今回の広告については「社論に合わないので掲載できに」と、一方的に通告してきたのである。 右に記したとおり、中日新聞社はすでに広告ゲラを審査し、合格させていたのである。それを一方的に覆すとは何事か。社内的にどんなことがあったのか、外部からの強力な圧力でもあったのか、真相はわからない。いずれにせよ、信義に悖る一方的な通告であり、断じて認めるわけにはいかない。 連休明けの5月8日、日比谷の中日新聞東京本社にて、広告局第二部の菅野和之部長と面会した。スタッフとして西村幸裕氏も同席した。事前に、訪問の趣旨は一旦認めた意見広告の掲載を拒否するに至ったのはなぜかその理由を聞くことである、と伝えていたにもかかわらず、当方の@「社論」とは何かA意見広告のどの部分が社論に合わないのか、という2つの質問に、菅野部長は「この決定に関与していないので、私には答えられない」と述べた。 この誠意のない中日新聞社側の対応に憤慨したが、「社を代表して、回答できる立場の人物を出してほしい」と強く要求した結果、翌日、再度中日新聞社の広告局の幹部との会見がセットされた。 5月9日、前日と同じ中日新聞社の社屋内で、吉川克也広告局次長と面会した。西村氏も同席した。私は、事前に「質問」と「申し入れ事項」を文書にしておき、それを提出した。 第1の「社論とは何か」という質問への答えは、≪この場合の社論とは、社説で2回(2月23日付けと2月28日付け)にわたって、「河村市長発言は不適切だった」と書いたことである≫というものだった。 次に、意見広告のどの部分が社論に合わないのかを尋ねた。それに対する回答は、≪社説で社論を展開している以上、たとえ広告といえども、「名古屋市長の『南京』発言を支持します」という内容のものを掲載することはできない≫というものだった。 そこで私は、「意見広告の趣旨は河村市長の発言のすべてを支持しているわけではなく、その訴えの核心は『自由な議論をしよう』というものであることは、広告の右にあるタテ見出しや本文の文章を読めば自明だが、これも社論に合わないことになるのか」と質問した。これに対して吉川局次長は、≪これ以上のことは申し上げられない≫として回答を拒否した。 もう1つの「申し入れ」の方は、意見広告の掲載について再検討し、期日を決めて結果を知らせてもらうという手筈を提案したものだったが、これは即座に拒否された。以上が、中日新聞「南京意見広告」掲載拒否事件の全貌である。 意見広告の掲載を一旦は認めながら、一転して拒否してきた中日新聞社の振る舞いは、極めて重大な問題を孕んでいる。 社論は拒否の根拠になるのか
第1に、成立した契約の一方的な破棄・不履行という問題である。4月19日、中日新聞社は明確に「掲載を了解」したことを伝えてきたのである。もともと、河村名古屋市長の発言への支持表明だから、意見広告を名古屋市民に見てもらう必要がある。そのためには、ほとんど独占的なシェアを有する中日新聞以外に有効な媒体はない。 広告の掲載が決まってからは、国会議員の賛同者を募る際には「意見広告が中日新聞に掲載される」として依頼している。多くの国会議員はそのつもりで賛同して下さったのである。また、私自身もいくつかの会合で、「中日新聞に意見広告が載る」ことを広言している。意見広告への寄付金もすでに5月中旬までに500万円近く集まりつつあり、もし掲載されない場合、この寄付金の処理をめぐる困難に加えて、当方が蒙る社会的信用の低下など、被害は甚大である。その意味で、中日新聞社の一方的な契約解除通知は到底、認められるものではない。 第2に、「社論に合わない」というのは、この案件の場合、意見広告の掲載を拒否する根拠にはならないし、まして、一旦審査を通した意見広告を一転して拒否するほどの理由には全く当たらない、という問題である。 私たちは、一般論として言えば、新聞社が「社論に合わない」と判断する広告を掲載しない自由は、編集権の範囲として認められるものと考える。しかし、「社論」とされた2回の社説を読んでも、今回の意見広告の掲載をどうしても許容できないという論調には思えない。 例えば、社説は「敏感な問題でも、政治家が主義主張を掲げるのは結構だ」と述べており、政治家が南京事件などの「敏感な問題」について「主義主張を掲げる(=発言する)ことは認めている。その上で、「名古屋のトップとしての公式発言としては不適切だった」(2月28日付け)としているものである。 これに対する市長側の言い分を想定するなら、「南京事件は日中間に刺さったトゲであり、日中友好を妨げている」という認識であり、日中間の関係の在り方や外交姿勢として、どちらがより望ましいかは議論の余地のある政策判断の次元のことだと言える。 だからこそ、中日新聞は1度は掲載を承諾したのであろう。「社論に合わない」という言い分は、一旦承諾した意見広告の掲載を覆す理由としては、あまりに根拠薄弱と言わざるを得ない。 言論機関としての自己否定
第3に、中日新聞の意見広告掲載拒否の議論は、言論機関としての自己の存在根拠の否定になりかねないという重大な問題がある。 中日新聞の社説は、南京事件そのものの認識については「大虐殺があった」ことを信じる立場で書かれていると考えられるが、意見広告は河村市長の発言のうち、「いわゆる南京事件はなかったのではないか」という発言を支持しているわけではない。そうではなくて、南京事件について自由に議論しようという提起を評価し、その部分に共鳴しているのである。そのことは、意見広告の文面でも誤解のないように注意深く書かれている。 ≪私たちは、「南京事件」について様々な見解があることを承知していますが、率直な討論の提起した河村発言は貴重な提言だと考えます。その意味で党派を超えて河村発言を支持し、この問題についての議論が国民の間でも広がることを期待して、ここに意見を表明いたします≫ もし、これが社論に合わないとすれば、中日新聞社は議論を否定することを社論にしていることになり、これは極めて重大な結果となる。新聞は言論の自由を享受している。だから、新聞には言論の自由を擁護する義務が課されている。その言論機関としての新聞が議論を否定することを社論とすることは、言論機関としての自己否定であり自殺行為であると言える。 吉川広告局次長とのやりとりも中で、この点を指摘した質問に対し≪これ以上のことは申し上げられない≫として回答を拒否した。このことは、中日新聞の今回の対応が論理的に破綻していることを証し立てる事実である。 会談の帰り際、中日新聞社の網領的文書をいただきたいという依頼に対し、社是ならあるとして、1枚の紙をいただいた。それには「真実、公正、進歩的」の3文字だけが書かれてあった。 アイリス・チャンの役割
さて、ここで今回の意見広告の位置づけについて、本誌の読者が抱くかもしれない疑問について述べておきたい。すでに見たように、南京事件に関する河村市長の発言は、(1)南京事件はなかったのではないかという発言(2)友好のためにも議論しようという呼びかけ、の二つの内容からなっている。 南京事件否定説は、過去十数年の日本国内の研究成果と合致するものであり、河村発言もそれを踏まえてなされていることは明らかなのだから、意見広告を出すなら、河村市長が勇気をもって発言した(1)の内容を焦点とすべきではないか、という疑問である。そしてその部分を避け、議論を求めた(2)の部分に限定して賛同を呼びかけるのは、人を多く集めるための戦術であり方便にすぎないのではないか、という疑問である。 これは大変もっともな疑問であるように見えるが、実は状況認識を間違っている。この問題を考えるためには、1997年の「南京事件60年」を期してアメリカで出版されたアイリス・チャンの『ザ・レイプ・オブ・南京』がいかなる役割を担って出版されたのかを分析しておかなければならない。 南京事件とはそもそも、日中国交回復への流れのなかで、1970年代に中国共産党と朝日新聞の合作で「仕込み」が行われ、80年代に「全面開花」した反日プロパガンダである。 しかし、90年代のはじめの時点でも、南京事件否定説の流れは地下水脈のように脈々と存在しており、90年代の中頃にはすでに無視し得ない存在となっていた。特に1997年に「新しい歴史教科書をつくる会」が生まれて、「自虐史観」の克服を掲げてからは一つの社会的潮流となりつつあった。 チャンの本は、(1)従来、主に日本人向けに製造され宣伝されていた南京事件のプロパガンダを英語圏に広げることが狙いであるが、もう一つは、(2)日本国内における南京事件否定説への反論という動機も存在した。 たとえば、チャンの本のなかで「学術界における隠蔽(いんぺい)」という小見出しのもとに批判されているのは、不肖・私(藤岡信勝)である。そこでは「南京大虐殺の歴史と第二次世界大戦史のその他の性質を歪曲する改革運動に立ち上がった有名な歴史修正主義者」として私の名前が紹介され、「彼の扇動的な主張は、たとえば、南京大虐殺で殺された人数は中国人が主張するものよりも遥かに少ないとか、南京のほとんどの被害者は民間人ではなくゲリラ兵だったとか……いうようなものである」(巫召鴻訳、新時代社刊、250ページ)と書いている。 ここで、私に「歴史修正主義者」というレッテルが貼り付けられていることにご注目いただきたい。チャンの本は、日本史に関する夥(おびただ)しい幼児的な間違いに満ちた学問的にとるに足りない本であるが、その最大の役目は、同書のサブタイトルが「第二次世界大戦の忘れられたホロコースト」となっているところに表れている。 中国系アメリカ人の女性ジャーナリストが書いたこの本の最大の「功績」は、南京事件をホロコーストと結びつけたことにあったのである。忘れられてはいるが、南京事件とは実はホロコーストであったというメッセージを英語世界の読者に刷り込むこと。チャンの本の役目はこれに尽きると言える。 「事件否定説」違法化の策謀
それはどういうことかというと、ヨーロッパでは、ホロコーストを否定することは犯罪と見なされる。ドイツ、フランス、イスラエルでは刑事罰の対象である。アメリカでも、ホロコースト否定説を言うと社会的に糾弾され、制裁を受けることに変わりはない。「歴史修正主義者」とは、そうした意味での「犯罪者」のレッテルなのである。 そこで、「南京事件=ホロコースト」だという認識が定着すれば、西欧では南京事件を否定する言説を吐く者は刑務所行きということになりかねない。 日本でも「つくる会」ができた頃、「南京事件がなかったというような発言には法律をつくって罰則を科すべきだ」という説を左翼学者がある団体の機関紙で発言しているのを読んだことがある。 実証的な議論のステージではもはや勝てないことを、彼らはすでに知っているのである。そのために、法律を作って南京事件否定説を唱えることを、ちょうどホロコーストについてヨーロッパの諸国がしているように違法化しようと考えたのである。 この左翼の願望は放棄されたどころではない。民主党政権下で、「人権侵害救済法案」などという新しい装いのもとに、まさに左翼学者が願っていたことと同じ効果をもつ法律を制定しようとする策動があとを絶たないのである。 河村発言後、中国の国会に当たる全国人民代表大会で、「南京大虐殺否定罪」の制定を呼びかける提案があった。これが制定されれば、河村市長が中国国内に足を踏み入れると直ちに逮捕されることになろう。そうしたなかで、南京事件否定説を日本で主張できる自由を保障することが最も重要な分岐点となるのである。河村市長が否定説を述べただけでバッシングが起こり、発言を撤回せよという圧力がかけられるという状況こそ、克服しなければならない最大のポイントである。 南京事件否定説を唱える自由を与えることがしっかりと保障され、タブーを排した自由な議論が行われるようになれば、自ずから多くの国民が南京の真実に目覚めていくであろう。だからいま、直接、否定説への同意を求めるのではなく、否定説を主張できる討論の自由を確保することが、大局的に見て、より重要なのである。 アイリス・チャンが仕掛けた「南京事件=ホロコースト」という罠にはまらないようにすること、議論の自由を守ることを目下の焦点にすることは、戦術的小細工でも何でもない。右のような状況認識に基づく、この問題の分水嶺なのである。 河村発言は、日本民族の汚名を雪(すす)ぐ「自虐史観」克服の闘いにとって干天(かんてん)の慈雨(じう)、またとないチャンスである。この機会を生かさなければ、悔いを千載(せんざい)に残すことになる。「南京の真実国民運動」は5月15日、中日新聞社を相手取り、意見広告の掲載命令を司法に求める仮処分を東京地方裁判所に申請した。 http://ameblo.jp/nankinkokumin/entry-11300011783.html
仮処分申請却下について記者会見 2012年07月11日 19時03分13秒 テーマ:お知らせ 本会は、7月9日に中日新聞に意見広告の掲載を求める仮処分申請が却下されたことを受けて、7月11日、記者会見を行い、東京地裁の決定を批判するとともに、中日新聞に対して損害賠償を求める本訴を行うことを公表しました。 記者会見の模様(7/11東京地裁・司法記者クラブ 左から西村幸祐氏、藤岡信勝副代表、代理弁護団) 記者会見で発表した本会の見解は下記のとおりです。 ------------------------------- 中日新聞「意見広告」仮処分申請に関する東京地裁の決定について 河村発言を支持し「南京」の真実を究明する国民運動 (代表・渡部昇一) 当会は、名古屋市の河村たかし市長の「南京発言」(2月20日)に対し、発言の撤回と謝罪を求める内外の圧力が強まる中、言論の自由を守り、「南京」の真実を究明するために、3月15日に結成された団体である。 当会は、3月22日、中日新聞に意見広告の掲載を申込み、4月19日、広告の文案審査終了の通知を受け、五月中旬の掲載を目指して実務が順調に進行していたところ、5月2日に突然、中日新聞は「社論に合わない」という理由で掲載拒否の通告をしてきた。新聞社が審査の結果、掲載を承諾していたからこそ進めてきた国会議員の先生方の賛同署名を無にすることはできない。そこで、当会は5月15日、東京地裁に、中日新聞に広告の掲載を命じる仮処分の申請を行った。 東京地裁民事九部は、7月9日、当会の仮処分申請を却下する決定を行った。これについて、以下の通り、見解を表明する。 東京地裁民事九部は仮処分の申請に対応する部局で、通常は1人の裁判官が担当するところ、本件は3人の裁判官の合議で決定がなされた。それなりに重要な案件として扱ったものと考えられる。 しかし、決定の内容は中日新聞側の主張を何から何まですべて認めた極めて一方的なものであり、当事者として到底承服しがたいものである。 第一に、決定の文面はことごとく債務者(中日新聞)の主張をなぞっており、これを論理的に粉砕した債権者(当方)の主張は一顧だにされていない。少なくとも「契約の成立条件」などの主要な論点については、双方の主張を引用して検討し、しかじかの理由でどちらの主張が妥当であるという判定を下すのが裁判所に求められていることである。しかし、そうした検討はほとんどなされていない。これは、結論をあらかじめ決めておいて、あとで理屈づけを考えたという疑念を抱かせるものである。 第二に、裁判官は、事実経過をよく理解していないか、誤認していると思われる。決定文は、5月1日時点で賛同者の欄の氏名が埋まっていなかったことが掲載拒否の理由になるかのように書いている。しかし、意見広告は本文と見出しが審査の対象であり、空欄になっている呼びかけ人1名と賛同議員名は、掲載直前の最終原稿の段階で氏名が埋まるものであることは、関係者の間で自明のこととして了解されていたことである。中日新聞の吉川広告局次長も、陳述書(乙十六)で、「最終原稿の審査」の内容として、@「意見広告」の文字サイズの確認、A呼びかけ人及び賛同者の欄が埋まっていることの確認、をあげているだけで、広告の内容にわたる審査を行うとはどこにも述べていない。裁判官は債務者側の詭弁に惑わされ論理が混乱しているが、いずれにせよ事実誤認に基づく決定は根拠を失う。 第三に、決定の構造も不可解である。本件は中日新聞側の主張によって争点が二つ生じた。その第一は、中日新聞は契約の当事者ではない(当事者は中日新聞の専属の広告代理店である)とするものである。第二は、広告掲載の契約が成立していたか、いなかったかという争点である。裁判所は、中日新聞側の主張をどちらも認めた。しかし、第一の争点で中日新聞側の主張を認めるのなら、第二の争点は検討するまでもなく仮処分申請却下の結論を下すのに十分であるのに、あえて、第二の争点にも踏み込んで、一方的な判定を下したのである。 以上検討したとおり、今回の東京地裁民事九部の決定は、全体として極めて不当であり、承服しがたい。私たちは、中日新聞に対し損害賠償を求める本訴を提起してたたかうことをここに表明する。 言論機関として自殺行為を行った中日新聞に対しては、法廷外でも、世論を喚起し、批判活動を展開していく方針である。 平成24年7月11日
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