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“民主もダメ”ではっきりした2つの構造要因
第1回 岩井奉信・日本大学教授に聞く
2012年11月28日(水) 安藤 毅
12月16日の投開票に向け、政党の離合集散と激しい舌戦が繰り広げられている衆院選。この国の舵取りをどの党に託すのか、有権者の真贋を見極める目も問われている。そこで、判断材料となる民主党政権の失政の背景や衆院選の争点について、識者などに語ってもらう。第1回は岩井奉信・日本大学教授。民主政権の失敗には2つの構造要因があったと説く。
「政権交代」の熱狂から3年余り。民主党政権への高い期待は剥げ落ちた。政権交代への評価と民主の失政の背景をどう整理しているのか。
岩井奉信(いわい・ともあき)氏
1950年東京都生まれ。76年日本大学法学部卒。81年慶応義塾大学大学院法学研究博士課程修了。2000年から現職。新しい日本をつくる国民会議(21世紀臨調)の運営委員や政策研究フォーラム理事などを務める。
岩井:「政権交代そのものが失敗だった」との声もあるが、意義は大きかったというのが結論だ。
稚拙な政権運営などにより国政が混乱したのは間違いない。その代償は小さくなかったが、政治が停滞する背景に、制度と政党のガバナンス(統治能力)という2つの構造問題が横たわっていることが浮き彫りになったことは、日本政治の未来を考えるうえで大きい。
政権交代の意義は大きい
民主党政権が大きく躓いた理由は幾つもある。まずは外交の失敗。鳩山由紀夫・元首相による米軍普天間基地移設問題を巡る混乱は日米同盟を弱体化させ、それが中国、韓国、ロシアなどとの領土に関する摩擦を拡大させることにつながった。
東日本大震災後の対応も危機管理能力の欠如ぶりを露呈した。党内に目を向けると、「親小沢一郎か、否か」の路線対立が続いたことが響いた。
さらに、「政権を取れば何でもできる」といった根拠なき自信も官僚との対立などの無用な混乱を招いた。「政治主導」の意味するところを党内で共有できていなかったことが最初の躓きだったと言える。
躓きの要因として、政権交代の原動力となった2009年マニフェスト(政権公約)の作成過程の問題を挙げているが?
岩井:あのマニフェストは、当時、数人だけで短期間で作成したもので、党内論議はほとんど尽くされていなかった。財源などの実現可能性の検証がいい加減になったのは当然だ。
それに加え、党内論議を通じて政策や党の基本理念を一体化させていくというもう1つのマニフェストの重要な機能を損なってしまった。後から主要政策を巡る党内対立が頻発したのはこのためだ。そもそも「政治主導」と「政治家主導」の違いすら党内で整理できていなかったのだから、すぐに矛盾が顕在化するのは必然だった。
損なわれたマニフェストの機能
“政策を競うマニフェスト選挙”の意味合いが本来の姿から乖離してしまった面もある。
確かに有権者にとって各政党が提案する政策は分かりやすくなった。しかし、その背景にある政党の理念やビジョンは決して明確ではなかったし、民主党内で共有もされていなかった。ここに大きな問題があった。
例えば、民主党が掲げた「コンクリートから人へ」というスローガン。個人的には、自民党政権時代との違いや現在の経済状況を踏まえ、ビジョンの転換をアピールするいい理念だったと思う。
だが、民主党内でその認識が十分に共有されず、理念を肉付けする現実的で具体的な政策を打ち出すこともできなかった。党内論議が不足していたというほかないだろう。
マニフェストは個々の政治家本位ではなく政党本位の政治を実現するためのツールなのだが、まだまだ理想の姿から遠いというしかない。
いくら綺麗な政策を掲げても政党のガバナンスが欠如すれば結局、物事は動かないことが浮き彫りになった。では、もう1つの制度上の問題点についてはどうか。
岩井:象徴的なのが、衆参で多数派が異なる「ねじれ国会」の問題だ。自民党政権も苦しんだが、民主政権も、菅直人首相の時に参院で敗北してから、同じように苦しむことになった。
自民も民主も苦しんだ「ねじれ」
民主、自民、公明3党が来年度以降、2015年度まで予算案が成立すれば自動的に赤字国債を発行できるよう合意したことは、不毛な対立を防ぐうえで前進だ。
とはいえ、予算の議決などを除き、法律案は原則、衆参両院の可決を必要としているなど「強すぎる参院」問題の本質はほとんど変わっていない。これまでは、自民党が単独で両院の多数派を占める時代が続いていたことでこうした問題が顕在化していなかっただけだ。
小選挙区制導入の結果、衆院の多数派が頻繁に変わる状況になり、この参院の在り方が日本政治の深刻な障害に一気に浮上してしまった。事態打開のため、大規模な政党の再編や選挙制度の見直しが俎上に上るが、それだけでは今後もねじれ状態に直面する可能性は残ってしまう。
根本解決のためには、「政治改革」で手つかずだったこうした参院問題、2院制の関係という問題に向き合うしかない。このことも、政権運営に四苦八苦した民主政権の経験から導き出される教訓といえる。
平たく言えば、制度をいじることで片付く問題と、そうではない政党の強靭化という問題が失敗のポイントであり、この2点の改革を進めない限り、政治の混乱は今後も続きかねないと思う。
「政権交代可能な2大政党制の確立」がいわゆる政治改革の目指す姿と言われてきた。それなのに、民主党への失望は大きく、今回の衆院選は第3局や小政党が乱立する展開だ。2大政党化への流れはすっかり変容したのか。
岩井:社会構造や国民意識の多様化が進む中、政党が多党化していくのはある意味、当然の流れだ。だが、最終的に政治は物事を決めていかなければいけない。
多様な意見を前提に、政党間で合意形成を図るには、各政党の統治や組織運営などが成熟していないと難しい。
容易ではない「多党間合意」
こうしたことから、1990年代の政治改革論議では、各政党内でグリップを強めることで政策実行が迅速にできることを重視し、2大政党化につながる小選挙区制の導入という選択をした経緯がある。
民主党は成長を前提とする利益配分構造から脱せないままだった自民党の1党支配体制を崩す役割を果たした。その意味はあったものの、次の政治のステージを形作ることができなかった。
民主の失敗は新たな政治を構築していくうえでの生みの苦しみともいえ、今後の日本政治がどんな姿になっていくのか、重要な節目を迎えている。
政党というものは、時代とともにそれに適合する姿に変わっていく努力も求められる。
自民党の政権奪還が有力視されているが、自由主義から社会主義的政策まで混在してきた自民党が、今の姿のまま、従来の利益配分中心から、増税などの“負の配分”を本当に実行していけるのか、疑問を禁じ得ない。
そういう観点からすると、目指すべき社会の姿などに基づく再編が行われていく可能性もあり、その方が望ましいとの声もある。そう考えると、日本政治はしばらくの間、流動化、混迷が続くのではないか。
衆院選の争点は何か。
岩井:政策の中身だけでなく、政治を進めていくための枠組みが重要となる。誤解を恐れずに言えば、「面白くないが安定」を選ぶのか、「次のステップを期待し、面白いが混乱必至」を選ぶのかということだ。
政権の枠組みも重要争点に
前者は、民主、自民、公明の3党連携の維持路線。後者は日本維新の会など第3極の躍進と、その後の大規模な再編を期待する選択となる。
隠れた争点として、憲法も挙げられる。改憲を掲げる政党が増えているが、自民の安倍晋三総裁が話すように、仮に来夏の参院選で自民が躍進すれば、憲法改正に向けた議論が本格化する可能性がある。
憲法は国の在り方、形を映すものだ。各党はどんな国を目指し、そのために憲法をどのように変えようというのか、
あるいは変えないのか、明確に示すべきだろう。
安藤 毅(あんどう・たけし)
日経ビジネス編集委員。
2012 衆院選 ニッポンの行方
12月16日に投開票となる第46回衆院選。師走の総選挙は1983年以来、実に29年ぶりとなる。経済や外交など様々な分野で課題が山積する中、有権者はどのような判断を下すのか。識者へのインタビューなどから、今回の選挙戦の争点をまとめ、今後の日本の針路を探る。
http://business.nikkeibp.co.jp/article/interview/20121127/240125/?ST=print
小泉構造改革3つの誤解
日本経済の運命を左右する「世紀の誤解」
2012年11月28日(水) 小峰 隆夫
最初に私の問題意識を確認しておこう。私は、日本経済の先行きに大きな懸念を抱いているのだが、そう思う理由の1つは、経済学の常識が必ずしも通用していないことだ。こういう言い方をすると「違う経済学もある」と言われるかもしれないが、以下、「経済学の常識」と言っているのは、「私が考える経済学の常識」という意味である。
一例をあげると、財政赤字の解決のためには、消費税を引き上げ、社会保障費の削減を図るしかない。これは私の考えというよりは、「オーソドックスな経済学の考えから導かれる、ごく常識的な対応」だと思われる。恐らく大部分の経済学者はこの基本方向に大筋としては賛成するだろう。
問題はここからである。私はこのコラムの前に「ワンクラス上の日本経済論」という連載を持っており、この中で上記のような常識的な対応方向を示してきたのだが、私が非常に驚いたのは、日経ビジネスオンライン記事の後に掲載される読者からのコメントが、圧倒的に反対論が多かったことだ。
例えば、「消費税の引き上げは当然だ」という内容のコラムを書いた時は、118件ものコメントが寄せられたのだが、そのほとんどは「消費税引き上げ反対」(しかもかなり激越な反対論)だった(2010年6月7日「なぜ消費税でなければならないのか」。関心のある方はコメントの現物を見てください)。
こうした経験から、私は「経済学から導かれる当然の政策対応」と考えられるものが、一般には必ずしもそう思われていないという深刻な事実を思い知らされたのだった。前回まで考えてきた日本型雇用慣行の問題は、こうした問題意識で書かれたものである。私は、ごく常識的に考えて、日本型雇用慣行は改めるべきだと考えているのだが、世の中の人々の多くは必ずしもそうは考えていないからだ。
同じような問題意識で、今回は小泉型構造改革について考えてみたい。その結論は、今こそ第2次小泉構造改革が求められているのに、国民の多くはこれに反対している。これは、多くの人々が小泉構造改革について誤解しているからだ、というものだ。その誤解は、次の3つに大別される。
構造改革と格差
第1の誤解は、「小泉構造改革によって日本は格差社会になった」という考えである。私は、この部分の原稿を松山市内のホテルで書いている。松山に講演で呼ばれて、前日到着し、午前中の時間が空いているので、この時間を利用してホテルの部屋で原稿を書いているわけだ。この稿を書くに当たり、「何かうまい実例はないか」と思っていたのだが、今朝の食事の際に、愛媛新聞が置いてあったので、これを見ていたら「どんぴしゃり」の例が出てきた。よくあることだが、「探している情報は向こうから飛び込んでくる」という典型例だ。それは「奨学金の利子が人生の重荷になっている」という記事なのだが、この問題についての有識者のコメントの出だしが「小泉内閣の構造改革などで国民の貧富の差が拡大する中、…」となっていた。
このコメントに象徴されるように、「小泉構造改で貧富の差が拡大した(または格差社会になった)」というフレーズは、今では「枕詞」になっている。つまり、こういうことだ。
今、奨学金について話をまとめようとする。その場合、導入部で何か社会全体の流れを示し、その中で奨学金問題を位置付けたいと考える。そこで「小泉改革で格差社会になる中で…」と言いたくなる。しかし、これは本題ではないし、「本当に小泉改革で格差が拡大したのか」を検証して言っているわけでもない(と思います)。これが「枕詞になっている」という意味である。こうして枕詞が何度も繰り返されるたびに、それは次第に常識化してしまうのだ。
しかし「小泉構造改革で日本は格差社会になった」というのは誤解である。この点についての実証的で分かりやすい解説としては、一橋大学の小塩隆士教授の『効率と公平を問う』(2012年、日本評論社)があるので、以下、これに準拠して話を進めることにする。
格差はむしろ縮小したと指摘する論も
小塩氏はこの本で、小泉構造改革で日本の格差が拡大したというのは誤りだと指摘する。理由は簡単だ。格差のデータは逆の事実を示しているからだ。まず、日本の格差が拡大しているということを示すデータは2000年以前のものである。また、日本の格差、貧困が先進国の中でも高めであるという指摘の基となるデータも2000年までのものである。小泉政権が誕生したのは2001年4月だから、これだけでも「小泉構造改革で格差が拡大した」というのは誤りだし「小泉構造改革によって日本は国際的に見ても格差の大きな社会になった」というのも誤りだということが分かる。
小塩氏はさらに、OECDが2008年に“Growing Unequal?”という報告を出しており、この中で「日本の所得格差と貧困は、長期にわたる拡大傾向に反して、過去5年間で縮小に転じた」と指摘したのだが、当時これはほとんどメディアに取り上げられなかったと指摘している。つまり、小泉構造改革によって、格差はむしろ縮小したことになるのだが、それまで「格差の拡大」を指摘したメディアは、その逆の結論を取り上げにくかったのだろうと推測している。
さらに、格差という点では、小泉内閣時代の規制緩和で派遣可能な業種が大幅に拡大し、これによって身分の不安定な非正規労働者が増え、景気後退期に「派遣切り」などの現象を生むことになったという指摘もある。この点については、国際基督教大学の八代尚宏教授が『新自由主義の復権』(2011年、中公新書)の中で事実誤認を指摘している。八代氏は、労働者派遣法の改正は小泉政権発足前の1999年に実現したものであること、この改正は、ILOの条約を批准したことに伴うものであり、その狙いは企業のためというよりは、労働者にとっての雇用機会拡大のためであったことなどを指摘している。
ではなぜこれほどまでに「小泉改革で日本は格差社会になった」という誤解が広がったのか。私は要するに経済が低迷していたからだと考えている。小泉構造改革が行われていた時代は、失われた20年の真っただ中であり、経済は低迷し、名目所得は減り、若者の失業率は高まり、企業は正社員の採用を抑制し、非正規の労働者が増えた。多くの人はこうした現象を「格差の拡大」と認識したのではないか。しかし、それは「格差が拡大した」のではなく、絶対的な所得水準が低下し、絶対的な雇用のレベルが下がったことによるものだったのだ。
多くの人は、自分の身の回りの状態が悪化した時、それは「他の人との差が広がったことによるものなのか」それとも「みんなが同じように状態が悪化したのか」を特に区別せずに議論しているように思われる。そもそもこの点を自分の身の回りから判断することは難しいから、やむを得ないことなのかもしれない。
格差は経済が成長しているときにこそ広がりやすい。成長している時には、発展分野が次々に現れ、その分野に属している人とそうでない人との間で差が広がりやすくなるからだ。逆に経済が停滞しているときには、それまでの既存の分野が総じて停滞するので、格差は縮小する傾向がある。
結局のところ、小泉改革の頃の日本経済は総じて経済が低迷したため、いわば「絶対的な貧困」が広がった。多くの人はこれを「相対的な貧困」と受け止め、これが格差論を支えることになったのではないか。
市場原理と社会保障
第2の誤解は、市場原理主義者は日本を弱肉強食の社会にしようとしており、国家による社会保障や福祉に冷淡だという考えである。
小泉構造改革以後、「市場原理主義者」というと、まるで「何でも市場に任せ、その結果生まれる弱者のことを省みない人たち」と受け取られるようになってしまった。これは誤解である。私自身、自分はかなり徹底した市場原理主義者だと思っているのだが、弱者のことを省みない冷酷な人間でないことは自分自身が一番良く知っている。
しかしこの誤解は、政治プロセスを通じて大きな影響力を発揮した。小泉改革を批判してきた民主党についてみると、鳩山元総理は2009年就任直後の所信表明演説で、こう言っている。「市場における自由な経済活動が、社会の活力を生み出し、国民生活を豊かにするのは自明のことです。しかし、市場にすべてを任せ、強い者だけが生き残ればよいという発想や、国民の暮らしを犠牲にしても、経済合理性を追求するという発想がもはや成り立たないことも明らかです」
実は、自民党も同じだった。2009年の衆議院選挙時の自民党のマニフェストは次のように言っている。「戦後の日本を、世界有数の大国に育てた自負があります。しかし、その手法がこの国の負の現状を作ってしまったことも、近年の行き過ぎた市場原理主義とは決別すべきことも自覚しています」
要するに、民主党も自民党も市場原理に批判的な姿勢を持つようになっているのだが、これは誤解に基づくものである。私の見るところ、こうした誤解が生まれる理由としては次のような2つがあるようだ。
1つは、「市場原理で考える」ということが誤解されていることだ。私が考える「市場原理」とは、経済的資源配分を考えるとき、市場を通じた価格メカニズムによる資源配分を基本とする考え方である。考えてみれば、我々の身の回りの財貨・サービスは、誰かが「何をどれだけ生産して、どんな値段で売るか」を指示しているわけではない。生産者も消費者も自分たちで売りたいものを売り、買いたいものを買っている。それで世の中はうまく回っているのだから、基本的には世の中は市場原理で動いているのだ。逆に「市場原理が基本ではない」という人は、どんな原理で経済が動いていると思っているのだろうか(計画経済?)。ぜひ聞いてみたいものだ。
ただし、「市場原理が基本だ」ということは、「すべてを市場原理で決めろ」と言っているわけではない。その意味では、鳩山元総理が演説で言っているような「市場にすべてを任せ、強いものだけが生き残ればよいという発想をしている人」はこの世に存在しない。どんな市場原理主義者でも、全部市場に任せておけばいいとは絶対に考えないからだ。例えば、警察、道路などの公共サービス、外部性のある環境問題などは市場原理では処理できない。政府が供給したり、一定の規制をすべき分野は当然あるのだ。
もう1つは、市場原理は福祉に冷たいという誤解だ。この点については、市場原理はそもそも所得再配分の問題には適用されないということに留意する必要がある。それはこういうことである。
市場原理を貫徹すると、経済は効率化し、われわれが持つ資源を最大限有効に活用することができる。しかし、そのとき所得分配がどうなっているかは分からない。極端な不平等が生じているかもしれない。しかし、そのときは所得再分配政策(税制や社会保障)でそれを補正すればいい。その時、これをどの程度補正すればいいかは市場では決められないから、社会的合意に委ねるしかない。
多くの人々は、市場原理を貫徹すると、格差が生まれ、弱肉強食の世の中になってしまうとしてこれを攻撃する。しかし、仮にそうなったとすれば、それは市場原理が悪いのではなく、市場原理の結果を分配政策で補正しなかったのが悪いのである。
小泉内閣の下で社会保障予算を削減したことは事実である。しかしこれは、2006年の骨太方針で歳出項目ごとの削減幅が決定されたのを受けて実行されたものである。財政再建という目標達成のための手段であったわけで、市場原理を追求したから社会保障を減らしたわけではない。
もし社会保障を充実させたいのであれば、市場原理を追求する一方で、社会保障費を増やせばいいだけの話である。小泉内閣が社会保障を削ったことを批判したいのであれば、社会保障をもっと手厚くしろと言えばいいのであって、市場原理をやめろと言う必要はないわけだ。(詳しくは2010年6月25日「市場原理を貫いたことは反省すべき?」を参照)
民主党は小泉改革を否定しているのか
第3の誤解は、自民党時代の小泉構造改革は社会を大きく変えたのに対して、民主党政権はそれをストップさせる役割を果たしているという認識である。
まず、小泉構造改革の成果についてだが、私自身は、経済成長を十分高めるという意味では、小泉構造改革はそれほど大きな成果を挙げるまでには至らなかったと考えている。潜在成長力を十分発揮するためには、医療・介護の分野に民間活力を活かしていくこと、市場開放を進めて、国内の競争環境を整備すること、農林漁業の生産性を高めていくこと、労働分野の流動性を高めていくことなどが必要だが、いずれもいまだに未完成である。
私は、2006年に『日本経済の構造変動』(岩波書店)という本を出しているが、その中で「目に見えて格差が拡大するほど改革が進めば、それはそれで立派なものだとさえ考えている」と書いた(242ページ)。本当に市場原理を徹底させれば、格差は拡大する可能性があり、これを所得分配で補正する必要が高まる。しかし、前述のように、小泉改革の過程において日本の格差が拡大しなかったということが正しいとすれば、このことは「格差が拡大し、それを所得分配政策で補正しなければならないほどには市場原理は貫徹されなかった」ということを示しているのだと私は思う。
にもかかわらず、多くの人が小泉構造改革で世の中が変わったという印象を持っているのは、次のようなことがあるのではないか。
1つは、小泉元首相のキャッチフレーズがあまりにも印象的だったことだ。「改革なくして成長なし」「民でできるものは民で」などの言葉が強力に流布したので、世間の人々は本当に大改革が行われたように感じたのではないか。
もう1つは、不良債権処理、郵政民営化という大プロジェクトが実施されたことだ。この2つが重要な課題ではあったことは間違いない。しかし、不良債権処理は、バブル後の停滞からの脱却のための過渡期にのみ求められるものであり、郵政民営化も、象徴的な意味合いはあったものの、成長のための構造改革という意味では1つの部品に過ぎなかったと言えるだろう。
日本経済が求めるのは再度の小泉改革
さて、民主党はこうした小泉構造改革路線へのアンチテーゼとして登場し、政権交代を果たした。すると多くの人は、民主党は小泉構造改革とは全く異なった路線を歩もうとしているという印象を持っただろう。しかしこれも誤解である。成長戦略という点では、民主党は小泉改革路線を踏襲しているとさえ言えるからだ。
2012年7月に閣議決定された「日本再生戦略」を読むと、至るところに小泉構造改革と同じ思想だとしか思えない表現が出てくる。例えば、「デフレ脱却に向けた政策の基本方向」の部分では、次のように書かれている。「規制・制度改革は、市場における競争を促し、我が国の経済構造を変革し、経済活性化につながる必要不可欠な取り組みであることから、より一層強力に推進する」
「更なる成長力強化のための取組」には「…、起業家精神に富んだ世界に雄飛する人材を育成するとともに…(中略)民間活力の活性化によるダイナミックな成長を目指す」としている。
詳しい紹介は省略するが、同じような考え方は個別政策にも頻繁に登場する。例えば、4つの重点施策の1つである「グリーン成長」の部分では、「…グリーン成長を社会の大変革につなげていく。そのため、…(2)競争的な市場の創出、(3)規制・制度の見直しを実施していく」とされている。
こうしてみれば分かるように、民主党の成長戦略は小泉構造改革路線を踏襲している部分が相当ある。素直に考えれば、「構造改革を通じて民間活力を最大限に発揮し、財政に頼らないで経済の活性化を図っていく」ということを成長戦略の柱として打ち出せばよいと思う。しかしそれができないのは、自分たちが小泉構造改革を批判することによって政権交代を果たしたというしがらみから抜け出せないためだと私は思う。
今、日本経済が求めているのは再度の小泉構造改革である。しかしその改革は多くの誤解に基づいて批判され、その批判に乗って民主党は政権交代を実現した。このため本音では構造改革を前面に押し出したくてもそれができない。仮に自民党が政権を取っても、「また市場原理の構造改革か」と言われるのを恐れて、これを前面に出せないかもしれない。その意味で、小泉構造改革にまつわる誤解は「世紀の誤解」と呼べるほど、日本経済の運命を左右している大きな誤解だと私は考えている。
(前回までは、この連載もネタ切れになってきたので、そろそろ一段落にしようかと考えていたのですが、総選挙が行われることとなり、場合によっては経済政策がさらに混乱しそうな雲行きになってきましたので、さらに連載を続けることにします。全く日本経済の課題は尽きないですね。次回は、選挙後の経済政策の行方について考えるつもりです。掲載は年末になる見込みです)
小峰 隆夫(こみね・たかお)
法政大学大学院政策創造研究科教授。日本経済研究センター理事・研究顧問。1947年生まれ。69年東京大学経済学部卒業、同年経済企画庁入庁。2003年から同大学に移り、08年4月から現職。著書に『日本経済の構造変動―日本型システムはどこに行くのか』、『超長期予測 老いるアジア―変貌する世界人口・経済地図』『女性が変える日本経済』、『データで斬る世界不況 エコノミストが挑む30問』、『政権交代の経済学』、『人口負荷社会(日経プレミアシリーズ)』ほか多数。新著に『最新|日本経済入門(第4版)』
小峰隆夫の日本経済に明日はあるのか
進まない財政再建と社会保障改革、急速に進む少子高齢化、見えない成長戦略…。日本経済が抱える問題点は明かになっているにもかかわらず、政治には危機感は感じられない。日本経済を40年以上観察し続けてきたエコノミストである著者が、日本経済に本気で警鐘を鳴らす。
http://business.nikkeibp.co.jp/article/opinion/20121126/240022/?ST=print
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