139. 2012年11月27日 23:29:59
: 8Ux1kbQRho
日本のマスコミは最早、自由の国のメディアとも独立国のメディアとも言えないのではないか。そのことをはっきり示したのが、「南京大虐殺はなかった」として、南京市に討論集会を呼び掛けた名古屋市長の河村たかし氏に対する非難の大合唱である。「南京大虐殺」があったかなかったかには、日本人の名誉がかかっている。子供たちが犯罪者の子孫の汚名を被るかどうかという、考えようによっては目先の消費税増税などにより、よほど重大な問題だ。 ところが、政治家にはこれが分からない。「新しい歴史教科書をつくる会」が都内で開いた「河村発言を支持する緊急国民集会」は、会場は超満員だったのに駆けつけた国会議員は稲田朋美氏一人だった。 藤村修官房長官は村山談話まで引用して、「非戦闘員の殺害、略奪行為は否定できない」などと無知をさらけ出し、日教組、自治労には一歩も退かない橋下徹大阪市長までが、「発言は慎重に」と出来の悪い外務官僚のようなコメントをした。 だがそれ以上にひどかったのがマスコミである。 TBSの「朝ズバッ!」(2月23日)は、出てくるコメンテーターが皆、「南京事件」を既定の事実だとしたうえで、河村氏の発言を「軽率」と攻め立てた。 司会のみのもんた氏は、「中国側がね、『山のような証拠、資料がありますよ』って、その『山のような』ってのはね、ウソじゃないんですよ。当時も写真という技術がありますんで」と語っていた。だが、みの氏に学んで欲しいのは、毒ギョウザ事件でも尖閣侵略事件と言った卑近な例でも分かるように、「息を吐くようにウソをつく」のが中国だということだ。 中国のウソは、知的所有権の侵害から歴史問題まですべてウソと言ってもいい。何しろ大躍進政策の失敗で4500万人の人民を餓死させ文化大革命では少なくとも2000万人が処刑されたと指摘されながら、その歴史研究すら許さないのが中国である。 現に「南京大虐殺」についてもその場に居合わせた宣教師や海外のジャーナリストは誰も虐殺を見ていない。南京陥落後、逆に人口は増えている。 みの氏の言う証拠となるはずの「南京大虐殺館」の展示写真も、すべて偽物であることは研究者によって証明されているのだ。 ところが、新聞各紙も、みの氏と同様に「南京大虐殺」を既定の事実として河村氏の発言を「軽率」と断じ、河村氏をつるし上げにかかっているのである。 名古屋市で圧倒的なシェアを誇る、中日新聞(東京新聞はその子会社)がその典型だ。≪歴史認識はしっかりと≫と題した社説(3月23日)は、はじめから「歴史認識に食い違いのある問題で自らの見解を一方的に公にしたのは配慮が足りなすぎる」「市長としての発言はもっと慎重であるべきだ」と非難している。
その理由として、「日中歴史共同研究」を<双方が歩み寄った知恵>と手放しで評価し、「虐殺行為に及んだ日本側に責任があるとの認識では一致した」という。 さらに、<歴史をひもとけば、名古屋生まれの松井石根(いわね)陸軍大将は終戦後、極東軍事裁判で「南京大虐殺」の責任を問われ処刑された。国交回復後、名古屋市は当初、天津市との提携をあえて決めた。まさに、歴史を鑑(かがみ)に前に進もうとした当時の日中関係者の英断であった>という。 だが、日本の新聞として、しっかりしてもらいたいのは中日新聞の方である。「日中歴史共同研究」は、初めから結果や結論を求めたものではない。そんなことは土台、無理だ。まして、その報告が両国を拘束するものではない。はっきり言えば、参加した学者がそれぞれの意見を言い合ったに過ぎない。 また、松井大将が処刑されたというが、極東軍事裁判(東京裁判)が勝者が敗者を裁いた復讐劇だったことは明らかではないか。 「歴史を鑑に」というのも納得できない。この表現は、中国が歴史を武器に日本に優位に立とうとする時の外交用語、常套句だからである。 それに、中日新聞が無視しているだけで、河村氏の発言は一方的でも思いつきでもなかったのである。 河村市長が南京事件について討論を希望したきっかけは、2011年の夏、「30万人南京大虐殺」のデタラメが教科書に載ることに疑問を持った河村市長と有志議員が、中国総領事館と意見交換したことだったという。 率直な議論をして「ノドの棘を抜いてこそ姉妹都市」ということで、2012年2月初旬には藤沢忠将氏ら名古屋市議3人で南京市を訪れ、友好都市関係を深めるためにも議論したいと南京市幹部に申し入れ、同様の趣旨の河村氏の親書も手渡していた。 これに対して中国側はその都度、「議論することはいいことだ」という返答だったという。問題の2月20日の面談でも、河村市長の呼びかけに、やはり議論を認めるような返答をしていた。ところがその後、一方的に「許せない、名古屋との交流を停止する」と豹変したという。 以上は、藤沢市議が緊急国民集会で明らかにしたものだが、このどこが軽率だったのか。どこが一方的だったというのか。藤沢市議は「友好都市というなら、勝手に南京大虐殺館を建てた南京こそ問題だ」というが、その通りだろう。 しかし、中国側はその後も問題をエスカレートさせ、国交樹立40周年を記念して南京市で予定されていた日中共催の「ジャパンウィーク」を中止。また、中国大使は河村氏の面会要請を拒否した。
議論もできぬ、会うこともできぬ、とは何たる無礼だろうか。 だが、中日新聞は討論を呼びかけた経緯にも中国の姉妹都市に対する横暴にも関心を示すことなく、中国の意向を代弁するように<なぜ素直に発言を撤回しない>(2月28日)と再度社説で畳みかけた。 その内容はこうだ。 <中国主張の「30万人」を真っ向から否定しては議論のテーブルにはつけぬだろう> <敏感な問題でも政治家が主義主張を掲げるのは結構だ。だが、歴史的な日中国交正常化の扉を開いたピンポン外交の舞台である名古屋のトップの公式発言としては不適切だった。「公の交流停止」という南京市のシグナルを、敏感に受け止めてほしい> 中日新聞が「日中友好」を信奉し、何が何でも河村氏を中国に屈服させたいと考えていることだけはよく分かる内容だった。 だが、議論することはいいことだと考えているのか、やっぱり駄目なのか、肝心なことは意味不明だ。 他の新聞も似たようなものだ。 毎日新聞の北京発(2月23日)は、こう書く。 <南京事件を巡る河村たかし名古屋市長の発言について、南京市内では22日、大きな抗議行動は見られないものの、市民は深い失望感を抱いていた。 中国国内では一部の保守政治家の極端な発言と受け止められてきたが、河村氏が22日に発言を撤回しない考えを明示したことで、中国政府も強硬姿勢に転じざるを得ず、外交問題に発展する可能性が出てきた> 「市民は深い失望感を抱いていた」って?情報は統制され、言論の自由もない中国が、まるで普通の国のような書きようではないか。「中国政府も強硬姿勢に転じざるを得ず」とは、これではまるで中国の代弁者そのものではないか。 朝日新聞も、問題は「南京大虐殺」を否定する河村市長にあるという姿勢で一貫していた。 <河村市長の南京事件発言 観光・経済交流に波紋>(2月24日)と題する記事は、<持論を崩さない河村市長の姿勢が波紋を呼んでいる>として、こう続けている。 <名古屋市幹部は「1人の政治家による発言で、34年間に及ぶ友好関係の積み重ねが吹っ飛んでしまいかねない」と指摘する> <自民党名古屋市議の1人は「気が大きくなったのではないか」> しまいには、<「河村市長も深く考えずに踏み込んでしまった」(評論家の呉智英さんの話)>などと一方的に攻撃している。 社説(3月7日)は、「自治体の首長はモノを言うな」と言わんばかりだった。
やはり、順序を経て討論の申し入れをしたことを完全に無視し、「日中歴史共同研究」を盾に<そういう重い経緯のある問題で、河村氏が一方的に自らの考えを示したのはあまりに配慮がない><河村氏の発言は、政治家としても市長としても不適切である>という。 さらにこう続く。 <歴史認識や尖閣といった問題で、日中双方がともに満足できる魔法の杖をみつけるのは至難のことだ。そうであるならば、日中両国は友好と安定の大局を選ぶしかあるまい> それぞれ言うべきことを言った上での「友好」など、朝日新聞には考えもつかないことなのだろうか。議論もしないで「日中友好の大局」とは、「属国の勧め」のようにしか聞こえない。 朝日新聞は人民の粛清、虐殺にしか過ぎなかった文化大革命を「近代化への模索」と称賛したことで知られる。北朝鮮を「驀進する馬」、ソ連のスターリンを「子供好きのおじさん」と称えたのと同じである。 文化大革命下に「中国の旅」を連載し、中国側の用意した「証人」の「証言」として「南京大虐殺のウソ」を垂れ流したのは朝日新聞である。どの面下げて、河村氏に「配慮が足りない」などと言えるのか。 朝日新聞の言うことを聞いて中国との「友好と安定の大局」に走れば、その先にあるのは亡国であろう。 実際、この社説でも、日本がこれまで名前のなかった尖閣諸島の4つの島に命名し、直ちに中国も数日後に命名したことに言及して、<中国がただちに反応したのは、(中国の)世論を沸騰させないためであろう>と『評価』している。なぜ日本の島に命名するのかと中国に抗議すべきことを、むしろ評価しているのである。朝日新聞は、尖閣諸島は日本の領土だということすら忘れているのだろう。 朝日新聞が「友好と安定の大局」という属国化の勧めを行ってしばらくして、2年前の尖閣侵略事件の中国人船長が強制起訴された。 これに対して、中国外務省の報道官はこの事件での中国の正当性を強調するとともに、「日本が『大局的』に両国関係に役立つことを行うことを希望する」と述べた。 朝日新聞と中国との『深い関係』はダテではない。
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