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<小沢一郎の復権>
http://blog.livedoor.jp/jlj001/archives/52008826.html
小沢一郎を苦しめてきた陸山会事件に決着(11月19日)がついた。司法の全てを駆使して小沢有罪を勝ち取ろうとしてきたのだが、それを果たすことは出来なかった。司法の完敗である。背後の黒幕・CIAワシントンの陰謀から、小沢は見事に生還した。3年余の苦闘から解放された小沢の、永田町最後の戦いが、これから開始される。小沢新党「生活」に弾みがつく。この行方に注目が集まっている。最後の戦いは、CIA・財閥・官閥に操作されているメディア・マスコミである。
それにしても「敵ながらあっぱれ」という言葉が聞かれそうである。彼は心臓の手術をしている。そうした中での人格破壊のマスコミ攻撃が、3年も続いたのである。これに耐えられる人間など、この世にいないだろう。
あることないこと負の活字と映像が飛び交う中で、沈黙することはただ事ではない。大阪の橋下に至っては、週刊誌の1回目の連載で事実上、白旗を挙げてしまっていることからすると、小沢はやはり大した人物だ。正直、見直してしまった。
自殺した中川一郎のことを思い出した。彼も随分マスコミに叩かれた。筆者もまともに批判記事を書いた政治記者だった。彼が台湾の蒋介石の手先になって、日中関係を壊そうとしたことについて批判した。
自殺する直前だったと記憶している。事務所に行くと、憔悴していた中川は、一人でいた。そのときに彼は「マスコミ批判」についてさんざんにこぼした。彼は正直な人間だった。慰めるしかなかったので、筆者は「新聞に叩かれると、反対に同情する人も出てくる。そう心配しないで」と声をかけた。
同じように今の小沢にも、相当の支持者がいる。かつて小沢批判本を書いた筆者でも、彼の「生活」が一番、まともな公約を掲げている。小沢が主導権を握れば、日本再生も夢でなくなるとの期待もあるからだ。
<搶ャ平になれるか>
中国の今日を構築した人物は搶ャ平である。彼は1度ならず、2度3度と失脚したが、屈することはなかった。見事に復権して中国再生の基礎を作り上げた。
江沢民・胡錦濤は搶ャ平人事だ。彼の教えから胡錦濤は、後継者を習近平に指名した。中国の政府・党の最大の課題は、腐敗である。これを前任者が厳命して、その地位を去った。新任の党主席は、これに勝利しない限り、党も政府も潰れると信じて、既に戦いを開始した。
彼を天皇に引き合わせた人物は小沢である。日中関係の正常化は、小沢の手に握られている。財界は小沢を無視できない。日中関係をぶち壊した石原と野田の天敵は、小沢なのだ。
小沢がボケ老人と野田ドジョウを退治すれば、日本の搶ャ平になれるのである。ワシントンの罠から生還した小沢が、このまま屈することはない。
<角栄の教訓を学んだ一郎>
それにしても検察・マスコミ・CIAの悪しき野望を、いかにして逃げのびたのか?多少の推論になるが、彼は恩師・田中角栄のロッキード事件を熟知していた。
報道によれば、小沢はロッキード裁判を傍聴していた。検察・裁判官の手口をじっくりと勉強していた。なにゆえ角栄は潰されてゆくのか、をじっくりと。
彼の父親は苦学して弁護士になり、政界に出てきた。学生時代は自らも司法試験に挑戦している。刑事訴訟法を学んでいる。彼の周囲には、警察官僚の後藤田正晴や秦野章がいた。
ロッキード裁判は、それこそワシントンから飛んできた事件である。角栄失脚を狙ったもので、司法手続きには問題が山積していた。免責を取引にして、検察にとって有利な材料を証拠とした悪辣なものである。
当時、警視総監・法務大臣を歴任していた秦野からも、それらを聞いて知っているが、新聞テレビは報道しない。だから国民はわからない。
<酒におぼれなかった>
角栄は心の底から、この野望に怒り狂ってしまった。盟友の大平正芳は、議員辞職で清算させようとしたが、ロ事件は中曽根康弘事件そのものと信じていたものだから、聞く耳を持たなかった。
悪い奴が逃げのびて、無関係な総理経験者の俺をなぜ捕まえるのか、それこそ気が狂いそうだったろう。そうした事情をチャンスと見て、側近の竹下登と金丸信がクーデターを起こした。信長と光秀を連想させる。背後で中曽根も応援した。田中家と中曽根家は、今でも犬猿の仲のはずである。思えば、中曽根内閣は、中曽根が角栄秘書の早坂茂三に土下座をするところから始まった。
筆者も1度、中曽根の「日本列島は不沈空母」とレーガン米大統領の前で発言したことに衝撃を受けて、直接角栄に「いつまで中曽根を支持し続ける気なのか」と問い質したことがある。そこに早坂も同席していた。意外や、田中が中曽根をかばったのに驚いたものである。
ロ事件に続く竹下クーデターで、角栄の精神はボロボロになってゆく。酒におぼれる毎日だ。遂に脳梗塞で倒れてしまった。
小沢も、そのことをよく知っている。彼は酒に逃げなかった。それが彼を搶ャ平に近付けたのである。角栄の教訓を私生活でも学んでいた。
<検察は証拠ねつ造機>
裁判でも彼は、検察の手口を知っていた。警察官僚OBの亀井静香は「警察・検察は、男を女、女を男にする以外は何でもできる」と自らの経験則から指摘している。
要するに、どんな人間でも有罪にできる、のである。法と証拠がその鍵だ。証拠をねつ造すればいい。有罪にできる証拠を作り出すのだ。これが検察の武器だし、しかし、露見すれば最大の弱点だ。その弱点を握ればいいのである。
<秘書の隠しマイクで逆転>
秘書の取り調べに隠しマイクを仕掛けた。これによって検察の供述証拠は、実は誘導尋問でねつ造された、改ざんされたものであることが判明した。
確か石川秘書と言った、彼が進んで仕掛けたのかどうか。弁護士の指示か、それとも小沢の意向だったのか。陸山会事件は、検察の裏をかいたことで、小沢は裁判に勝利した。
ロッキード事件は、司法の独立が問われる裁判の典型となったが、小沢事件は司法そのものの犯罪が暴露される画期的な事件だった。
検察は、こうした犯罪捜査から足を洗う必要がある。検察・警察改革は、この1点に尽きる。証拠はねつ造・改ざんはしない。不利な証拠も提出する義務がある。これを実行しないと、日本の司法は根底から崩壊するのである。
小沢事件は司法の危機を露呈させたことになる。
<早坂茂三の予言>
早坂茂三は東京タイムズ政治部の先輩である。ロ事件では角栄広報官として有名になった。その早坂が、小沢の将来にかけていたのである。
今から20数年前にさかのぼる。北京で友人の中国人記者が元中国外交部OBで、中日友好協会副会長の肖向前を紹介してくれた。彼は、小沢のことを聞きだそうと執拗に、筆者に質問してきた。
肖向前は中国知日派の第一人者で、日本の政界事情にもっとも詳しい人物だった。後に、筆者の中国における恩師となったすばらしい方である。日本の恩師は宇都宮徳馬だ。
「どうして小沢に興味があるのか」と反論すると、彼は「先日、早坂が北京にきた。これからの日本は小沢の時代だと。それで小沢の人物像を知りたいのだ」と答えた。
早坂は角栄から最初、苦労人の山下元利の面倒を見るように言われた。その次が小沢だった。小沢は細川護煕内閣を誕生させたが、その後は失敗の連続だった。ようやく天下取り、その段階で「第2の角栄人生」が襲いかかった。果たして20年遅れの早坂の予言は的中するか?
2012年11月20日10時10分記
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「ジャーナリストの新聞」の悲しき顛末
『ル・モンド』20年の変遷
セルジュ・アリミ
(ル・モンド・ディプロマティーク総編集長)
http://www.diplo.jp/articles12/1207lemonde.html
訳:川端聡子
政財界の圧力に屈することのない報道を。多くの知識人・ジャーナリストの論争を引き起こしてきたこのテーマは、現在もリアリティを残している。自主編集権を次第に侵蝕されていった『ル・モンド』紙の前社長エリック・フォトリーノの証言(注1)から、その闘いがいかに厳しいものであるかが浮き彫りになる。[フランス語版編集部]
« 原 文 »
フランスでもっとも権威ある日刊紙のひとつ『ル・モンド』の前社長、エリック・フォトリーノ。彼は、経済ジャーナリストであると同時に売れっ子小説家であり、さらにはアフリカ情勢を伝えるレポーター、厳しい資金難の渦中にある同社のマネージャーも務めた。よくある話ではない。資金難がその彼を退陣に追い込んだが、そう仕向けたのは、ラ・ヴィ=ル・モンド・グループの新株主である。『ル・モンド』の編集部はそれに対し、抗議することも、また抗議しようとしてみることさえできなかった。1944年のフランス解放以降、自主権を保持してきた報道会社の譲渡をあらかじめ認めざるをえなくなっていたのである。フォトリーノは沈鬱な筆致で自著を締めくくっている。「私は意気揚揚としてル・モンド社に入社した。とても誇らしかった。日々、記者としての仕事に追われた。そして、65年の歴史をもつユートピアであり、記者会が決定権を持つジャーナリズムという理想の場所、ジャーナリストが自主管理する新聞の野心的な試みに終止符を打たなくてはならなかった。(中略)私は『ル・モンド』を売りとばした社長として名を残すだろう」(注2)。
ほぼ10年間にわたり『ル・モンド』は結束した3人の変わり者の采配の下、部数を伸ばした。1994年に選任されたジャン=マリ・コロンバーニ社長、エドウィ・プレネル編集主幹(後に編集局長)、そしてアラン・マンク監査長である。同紙は次第に 「一報道グループに“10億ユーロ”の価値があれば難攻不落になる、と発言したコロンバーニの成長志向」に巻き込まれていく。『ル・モンド』が借金を重ねるようになると、コロンバーニは少数エリートの派閥に組しない者をやっきになって排除した。派閥メンバーには、かつて首相を務めたエドゥアール・バラデュールから哲学者のベルナール=アンリ・レヴィ(BHL)までが顔を並べる。フォトリーノはこれに屈する。「当時、コロンバーニの社長命令を受けたエドウィからは、BHLのアルジェリア、コソヴォ、またアフリカやアジアでの紛争の長編ルポ掲載の要請が再三あった。私にとって、編集部にそれを納得させるのは決して容易ではなかった」
『ル・モンド』のベルナール=アンリ・レヴィ(BHL)に対する傾倒ぶり、これと手を組んだ『ル・モンド・デ・リーヴル』(注3)の執拗な行動は、3巨頭が同紙を去るまで続いた。彼らは「『ル・モンド』が好戦的で鼻持ちならないイメージを獲得するのに貢献したが、当然ながら辛辣な批判を受けた。『ル・モンド』は人間狩りに乗り出した。善悪を振り分け、一方を不意打ちしては他方をえこひいきするといった具合だ」。「えこひいき」の例として、フォトリーノは、ある内輪のランチの様子を詳細に伝えている。2006年にコロンバーニ社長がセッティングした、当時内務大臣を務めていたニコラ・サルコジとの会食である。ふたりのジャーナリスト以外に、マンクもその場に長居していた。マンクは未来のフランス大統領の本の校正ゲラを読み返していた……。
2003年、ピエール・ペアンとフィリップ・コーエンの共著『ル・モンド紙の裏面』(注4)がこの「指標的日刊紙」の権威を揺るがした。フォトリーノも以下のように認めている。この本には「信じがたい不備があるにもかかわらず、『ル・モンド』の読者に与えたインパクトは強かった。彼らは『ル・モンド』の傲慢さにうんざりしつつあった。隠されたバラデュール支持、型にはまった批判。こうしたものが、ドミニク・ボディス事件(注5)においてはもっともひどい、偏見に満ちたかたちで浮き彫りになったのである」。
フォトリーノの本を読み進むと、何人かの人物のプロフィールが辛辣な表現で描かれている。コロンバーニ、彼は2007年の大統領選でセゴレーヌ・ロワイヤル女史への投票を呼びかけながらもサルコジ氏支持の選挙活動を行なった。プレネルは「自らをジャーナリズム界の生ける神話だと信じるほどの誇大妄想を抱いている。(中略)排斥は彼の支配の手段であり、集団的いじめがその不快なやり口である」。特にマンクについては、「彼はもう知っているのではないかと人が言うことを何ひとつ知りはしなかった。彼はもう考えているのではないかと人が考えることを何も考えてはいなかった。彼が知っていたのは、ある一点についてだけ。(中略)誰もアラン・マンクの友達にはならない。あやつり人形遣いの子分にされるのが関の山だ」。
フォトリーノは黄金時代を経験したジャーナリストとしての経験を、闊達な語り口で語ってはいるが――影響力と資金力があり、長期取材が行われ、今よりも少し教養のあった仕事仲間がグーグル検索に頼らず資料収集できた時代のことだ――、世間が注目するのは、彼が編集責任者および経営責任者として赤字を抱え崖っぷちの『ル・モンド』をどう舵取りしたか、である。その話には非常に引き込まれる。
ふたつの教訓的なエピソードが書かれている。2009年5月、彼は『ル・モンド』紙の社説でサルコジ大統領の傲慢かつ過激な言動に苦言を呈した。すると、新株主から次々と苦情があった。サルコジ大統領の友人であるヴァンサン・ボロレ氏(注6)が、無料配布紙『ディレクト・マタン』を『ル・モンド』の印刷機で刷ることを打ち切ると通告した。また大統領の友人、アルノー・ラガルデール氏(注7)の所有する『ジュルナル・デュ・ディマンシュ』紙は、印刷所を変えると通達してきた。そして最後は『レゼコー』紙である。所有者は同じく大統領の友人であるベルナール・アルノー氏(注8)だ。彼は、過剰能力を抱える『ル・モンド』の自社印刷所との契約を破棄すると伝えてきたのである。フォトリーノは「権力は、ル・モンドを経営破綻に追い込もうとして経済的手段を講じた」と要約する。
銀行家たちも、経営者たち同様に報復的態度を示した。追い詰められた『ル・モンド』は複数の株主に支援を求めたが、昔からの融資元であるBNPパリバが急に援助の約束を反古にした。フォトリーノはBNPパリバ会長のミシェル・ペブロー氏と談笑していたにも拘らず、その1時間後に電話1本で、支援打ち切りを告げられたのだ。ペブロー氏は個人的に心を決めていたが(それはフォトリーノにとっては好ましくない決断であった)、交渉外の話で茶を濁していたのである……。
その後ペブロー氏は、援助を拒んだ動機を語っている。『ル・モンド』の報道に気を悪くしたというのがその理由だ。フランス式フィクサー資本主義で、BNPパリバが主要な役割を演じていると伝える記事に、複数のCAC40企業(注9)の経営コンサルティング・メンバーであるペブロー氏の名が挙っていたのである。
フォトリーノは後になって、彼が編集上犯したリスクについて思いをめぐらせる。「明らかにタイミングが悪かった。社の継続を模索していた時に、解決策を一部握る彼らを刺激してしまった。(中略)記事が彼らの気に障ったことで、『ル・モンド』は経営破綻に追い込まれたのだろうか? いずれにしろ、引き返そうとしても後の祭りだった」。
遅すぎたのだ……。新しい“メセナ”は現れず、ル・モンドは売却された(注10)。その直後、フォトリーノは新株主らによって解任された。フォトリーノ自身が導入した株主によってである。彼はこの最後のエピソードに関して、言葉少なながらも以下の教訓を引き出している。「『ル・モンド』は名士連中との交流を持った。その結果、同紙の命運は政財界のボスたちの財布と善意に左右されることになった」。「幸福なグローバル化」の擁護者であったはずの『ル・モンド』紙が、グローバル化の餌食となったのである。
注
(1)Eric Fottorino, Mon tour du ≪Monde≫, Gallimard, Paris, 2012, 22,50 euros.(日本未刊行)。
(2)同上、534頁。
(3)『ル・モンド』の別紙、書評付録。[訳注]
(4)La Face cachee du ≪ Monde ≫(日本未刊行)。
(5)ドミニク・ボディスは、トゥールーズの元市長。1989〜97年にかけトゥールーズで起こった連続強姦殺人事件において、事件関係者である娼婦が犯人の組織したSMパーティーに市長が参加していたと証言。メディアはこれを書き立てたが、その後、犯人の供述により事実無根であったことが判明した。[訳注]
(6)トマ・デルトンプ「アフリカの帝王ヴァンサン・ボロレ」(ル・モンド・ディプロマティーク日本語・電子版2009年4月号)参照。
(7)出版・通信・小売りなどを傘下に持つフランスの複合企業、ラガルデールSCAの社長兼代表取締役。[訳注]
(8)モエ・ヘネシー・ルイ・ヴィトン取締役会長兼CEO。数々の高級ブランドを手中に収め、「ファッション界の帝王」ともあだ名される。[訳注]
(9)Cotation Assistee en Continu 40の略。ユーロネクスト・パリ(旧パリ証券取引所)に上場されている株式銘柄の時価総額上位40銘柄。[訳注]
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日本の小沢事件もこのような構造で成りって居たのか。
世界に蔓延る縁故経済
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