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野田総理はついに解散を明言した。次の選挙の結果第一党となるのは、おそらく自民党だろう。
しかし、自民党政権になれば、再び検察が力をつける可能性も否定できない。「小沢問題」は、自民党政権と検察の結託により始まったのだから。
もう二度と国策捜査に振り回されないためにも、司法の判断がどれほど信用ならないものであるかということを、改めて認識しておく必要がある。
『月刊日本』編集部ブログより
http://ameblo.jp/gekkannippon/entry-11403377163.html
12日に東京高裁で行われた控訴審判決において、小沢一郎議員に再び無罪判決が言い渡されました。指定弁護士が上告するとは考えにくいので、無罪確定と見ていいでしょう。
小沢氏をめぐる一連の司法の問題について、改めて論じなければならないことがあります。それは検察の「善意」、そして裁判所の「良識」についてです。
検察の捜査を批判する人たちはこれまで、「検察は善意に基づいて捜査に踏み切った。しかし、その善意が怖いのだ」、「裁判所の良識ある判断を評価したい」といった主張を行ってきました。
しかし、そもそもこの「善意」とは一体何を意味するのでしょうか。検察の「善意」を批判する人たちは、彼らが「悪意」に基づいて小沢氏を捜査した方が良かったとでも言うのでしょうか。
裁判所の「良識」についても同様です。今回の無罪判決についても「良識に基づいた無罪判決」といった見解が発せられていましたが、検察の「善意」は疑うが裁判所の「良識」は評価するというのであれば、司法の判断を正しいとしている点で、小沢氏に対する国策捜査を評価する人たちと何の違いもありません。
かつてソクラテスに死刑判決が下された際、ソクラテスの妻が「あなたは不当に殺されようとしている」と述べたのに対して、ソクラテスは「それならお前は、私が正当に殺されることを望んでいるのか」と応じたといいます。司法の「善意」や「良識」に振り回されている点では、私たちはソクラテスの時代より何一つ前進できていないと言えそうです。
小沢裁判の本質は「善か悪か」ではなく「友か敵か」(カール・シュミット)にあります。小沢氏が狙われたのは、小沢氏が「悪」だったからではなく、官僚の「敵」だったからです。この裁判は、小沢氏と官僚機構による壮絶な権力闘争の結果生じたものなのです。
「善意」や「良識」などといった言葉に目を奪われてはなりません。裁判とは常に「政治的」であって、「公正」や「道義」など求めても意味がありません。これは弊社で出版予定の志岐武彦氏と山崎行太郎氏の共著『最高裁の罠』のテーマでもあります。
人物評価というものは人それぞれです。それは人に強制してよいものではありません。小沢氏を好きな人もいれば、毛嫌いする人もいて当然です。
しかし、小沢氏を支持していようがいまいが、政治家と官僚機構との権力闘争が生じた場合は政治家側につくというのが、国民のとるべき姿勢だと思います。なぜなら、政治家は選挙で落とすことができますが、官僚を国民の力で入れ替えることは困難だからです。
もし今回の権力闘争で検察側が勝利していれば、検察の力が強大化し、政治家が検察の言いなりになるといった状況が生まれていた可能性さえあります。検察を擁護してきた人たちには、その危機感が完全に欠如していたと言えるでしょう。
現在の検察にはかつてほどの力はありません。しかし、彼らが再び力をつけ、権力を振りかざす日が来ないとは言えません。その時のためにも、私たちは「政治的なもの」が付きまとわない裁判など存在しないということを、しっかりと認識する必要があります。
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