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お父さんが大学に行った理由
2012年11月9日(金) 小田嶋 隆
来年4月の開学を目指していた秋田公立美術大学(秋田市)など3大学について、田中真紀子文部科学大臣が新設を不認可とした問題は、事件勃発から4日を経て、一転、既定の方針通り認可することで落着しようとしている。
当初「田中文科相不認可問題」というタグでまとめられていたこの話題は、いつしか、「真紀子大臣不認可騒動」という感じの微妙におちゃらけたタイトルに差し替えられ、紙面での扱いも、政治面から社会面に移った。3日目からはスポーツ新聞に下げ渡された。現在は、最終段階としてワイドショーの画面上で処理されている。なんというのか、ライオンの食べ残しをハイエナがつつき回し、そのまた残骸にハゲタカが群がっている図に似ている。
ってことになると、それをまたひっくり返している当欄は何なのかという自問がこみあげて来るわけなのだが、深く考えるのはよそう。ニュースにも食物連鎖がある。わたくしどもは清掃業を営んでいる。世界は美しい。
おおまかな経緯は以下の通りだ。
1.真紀子大臣が不認可の意思を表明(11月2日)
2.秋田美術大学長などが反発(4日)
3.真紀子大臣、文部科学委員会で「まだ不認可の文書は出していない。世間は誤解している」と釈明(5日)
4.真紀子大臣「新基準で審査する」として、3大学不認可処分を事実上撤回(6日)
5.真紀子大臣は、3大学について「今回(の騒動が)逆にいい宣伝になって4、5年間はブームになるかもしれない」と記者団に語る(7日)
こうしてあらためて起こったことを並べ直してみると、あまりにもばかばかしくて真面目に取り合う気持ちになれない。
「劇場型政治」という言葉自体、もはや手垢のついた表現だが、当件は劇場型ですらない。
ラノベ型政治、あるいは猿回し会見ぐらいに形容するのがせいぜいだろう。
とはいえ、ここまでバカげて見えるお話には、かえって大真面目な問題が隠されている。というのも、芝居がかった事件は、表面的な筋立てとは別のところに犯人を隠匿しているものだからだ。
実際、「事件」が「騒動」に変質し、「火ダネ」が「炎上」に発展して行く中で、「大学の淘汰」という、これまでたいして紙面を割かれることのなかった話題が、いつの間にやら国民的な関心事になっている。もし、誰かが大学設置問題を国民世論にアピールする目的で、この度の騒動を仕組んだのだとすれば、その人間は、まんまと大成功を収めたことになる。
陰謀論を弄んでいるのではない。
が、私は、真紀子大臣が、はじめから3大学の認可取り消しを意図してこの度の行動を起こしたというふうには、どうしても思えないのだ。
無論、真紀子大臣が、後先のことを考えられない天然モノの三秒頭である可能性は否定できない。でも、だとすると、問題の本質は、真紀子大臣の手腕というよりは、野田首相の任命責任に帰着させなければならない。だが私は、そういう問題ではないと思っている。いかな真紀子さんとて、3手先ぐらいまでは考えて行動しているはずだ。
思うに、真紀子大臣ならびに文科省の狙いは、はじめから、「大学の数」をめぐる問題をテーブルにのせるところにあった。そう考えた方が色々なことの辻褄が合う。
今回の騒動が、発端から着地点まで周到に計算された芝居だったとまで言うつもりはない。が、ある部分までは、田中真紀子という稀有なキャラクターを利用した広報だったはずなのだ。
真紀子大臣は、弁も立つし、何より絵になる。だから、ちょっとしたことでいつでも記者を集めることができる。
おそらく、自分のアタマの良さを自認している人間が真紀子さんとタッグを組んだら、真紀子さんを使って一興行打ちたくなるはずだ。そうでなくても、真紀子さんをアドバルーンに、何かを訴えるぐらいなことは企画したくなる。そうさせる何かが彼女にはあるのだ。
真紀子さんには、
「がさつだけど正直」
「無神経なおばさんである一方で、天性の直感の持ち主でもある」
「軽はずみだけど言ってることにブレは無いぞ」
ぐらいな、得難い「キャラクター」がすでに定着している。だからこそ、この度の極めて異例な行動も、
「真紀子さんのやることだから」
で、あっさり片付けることができた。で、結果として、彼らは、騒動の前景に「大学数適正化問題」を浮上させることに成功したのである。
田中真紀子さんは、「大学の数が多すぎる」という問題提起が、多数派の国民の支持を得るであろうことを、あらかじめ知っていた。だから、手法の強引さが批判を浴びるのだとしても、主張が共感を得る限りにおいて、政治家としてプレゼンスは傷つかない、と、彼女は、そう判断した。
文科省の立場もそんなに変わらない。
無論、所定の手続きを経て決定された大学新設の認可が、新任大臣の鶴の一声で却下されることは、省の面目を失わしめる事態だし、それ以上に行政権の危機でもある。その意味では、文科省が真紀子大臣の当初の行動に賛成する道理は無い。
…のだが、その大臣の異例の「認可取り消し」決定が、思惑通りに進むはずがないことを、文科省の高官が知っていたと仮定すると、話は微妙に違ってくる。そうなれば、認可をめぐるドタバタは、大学設置の認可基準をめぐる議論をアピールする絶好の機会になる。
と、この程度の観測は、お役人なら当然持っていたのではなかろうか。で、新しい審査基準を作るあかつきには、ぜひとも文科省の影響力を………というこの見方も、憶測に過ぎない。当たっているのであれ、外れているのであれ、たいした意味はない。だから、これ以上は追究しない。大切なのは、今回の騒動の真相が奈辺にあるのかということとは別に、現在、結果として、「大学の数」が、国民的な論議として浮上している事実だ。
要するに、騒動を経て、議論の出発点はリセットされたのである。
この先、大学をどうするのかについて、実りのある議論が起こって、その議論がより良い未来につながって行くのならそれはそれで良い。ハッピーエンドだ。
が、悪く展開した場合、この先のお話は、
「どの大学をツブすのか」
「私学補助金のどの部分を召し上げるべきなのか」
「大学新設を審査する機関の利権を、誰がどのように監視するのか」
「存続だけを目的に存続している死に体の大学を廃校に追い込むための適切な手段を考えようぜ」
みたいな、血で血を洗うリストラ物語になる。私はそれを懸念している。人々は、何かを作る時よりも、何かをツブす時の方が団結しやすい。そして、何かを破壊することは、何かを作ることよりもはるかに簡単で、しかも破壊は即効性(つまりカネが浮くということ)を持っている。
近々噂される総選挙に向けた各政党のマニフェストや政策を見ると、どこも「改革」「効率」を謳っている。
いずれのグループが政権を取ることになるのであれ、今後、少子化が進行することになるうちの国では、大学は、間違いなく優先順位の高い「仕分け」対象になることだろう。
国民の側の意識でも、大学の数が多すぎるという見方については、どうやら大きな異論は無い。無論、減らすのは良いとして、どこをどう減らせば良いのかという点については、国民的合意は、まったく形成されていないが、大きな枠組みとして、大学が縮小産業になることは、もはや既定路線になってしまった感がある。
関心は極めて高い。
この三日ほどの間だけでも、ウェブ上のあちらこちらに、様々な人々の意見が書き込まれている。
活字の立ち上がりは、少し遅いが、たぶん、この先の一週間の間に、より多様で重厚な論考が、雑誌や新聞に掲載されることになるだろう。
近いところでは、当「日経ビジネスオンライン」の中でも、伊東乾さんがこの話題を取り上げている。私は大変に面白く読んだ。さすがに現場で見ている人の目は違う。
内田樹先生がご自身のブログに書かれていた記事にも感銘を受けた。気づきにくい論点で、こういうところに目が行くのは、やはり長年の教壇でのご経験が生きているからなのであろうと思った。
ほかにも、いくつか記事を読んで――ふと気がついたのだが、私はいま、この件に関しては、何を言っても誰かの受け売りになってしまう状態に陥っている。
困った。
コラムニストの仕事は、他人と違う話をすることではない。
でも、「前に誰かが言っていたこと」をそのまま書くのは、性分として、どことなく気がひけるのである。
なので、マトモなご意見は、ほかのもっとふさわしい皆さんにおまかせして、この欄では暴論を言ってみることにする。
最初に断っておくが、私のアタマの中の8割は、マトモな考えで埋められている。
これからここに書くのは、残りの2割の、言ってみれば、浮かんでは消えるアブクのような考えだ。
ただ、この種の錯綜した話には、多様な意見が必要だと思うので、そういう意味で、論壇全体のダイバーシティーに貢献するために書き残しておく決意を固めた次第だ。
以上、十分に弁解はしたので、以下、思うところを書く。
大学の数を問題にする議論には、いくつかのパターンがある。
まず、大学を研究機関ないしは教育機関と見做している人々は、ある水準以下の学力の学生が大学に入学してくることを好まない。関係代名詞を知らない学生や、微積分を理解しない学部生は大学以前だ、と、彼らは考えている。その理屈からすると、「Fランク」と呼ばれる低偏差値の大学は、そもそも存続してはいけないことになる。
なるほど。これは手厳しい。
もうひとつの見方は、大学を就職のための知識や技能を身に付ける場所と見做す態度だが、この立場から見ても、低偏差値の大学は、大変に苦しい。ほかにも、芸術系や文学部といった、就職に貢献しない大学/学部がリストラの対象になる。
産業界の発言や、掲示板の罵詈雑言を見ていても、Fランク大学は圧倒的に追い詰められている。
「お前らを遊ばせるために私学助成金を払ってるんじゃないぞ」
「大学は高齢幼稚園児収容施設じゃねえぞ」
いちいちごもっともではある。
結局、多くの人々がなんとなく考えているのは、大学を研究/教育機関と定義するのであれ、産業戦士育成工場と見做すのであれ、どっちにしても、大学が「エリート」を養成するところだということだ。
その意味で、同世代の5割以上が通うような場所は、すでに「エリート」の定義を裏切っている。優秀さを担保するためには、勝ち組の数を少数に抑えておかねばならない、と、そういう理屈だ。
もうひとつ指摘しておかなければならないのは、エリートと非エリートを分離したいとする思想ないしは欲望は、もっぱらエリートのものだということだ。
事実、「大学の数」について議論をしたがるのは、実はエリートを自認する人々に限られている。
意地の悪い見方だとお思いだろうか?
でも、これは本当の話なのだ。
エリートは、非エリートが自分たちのテリトリーを荒らすことを好まない。
それで大学の数を減らそうとしている。
大学の数を限定したいという議論は、つまるところ、エリート層の自己保存本能の顕現なのである。
もう一つ理由がある。
大学を減らすという話になった時に、必ずFランク大学がその俎上に上げられるのは、われわれの社会が「ぶったるんでやがる若いヤツら」を嫌っているからで、つまるところ、われわれは、若い連中が楽をして、ヌクヌクして、のんべんだらりと幸せそうにしているのを見るのが大嫌いなのである。
だからこそ甚だしい向きは、徴兵制の復活を求める。彼らの真の狙いは、国防でも愛国心の涵養でもなくて、ただただ若い連中にビシッとした試練を与えることなのである。
「若いヤツらは遊ばせてないで高校出たらさっさと働かせろよ」
「大学なんか行くのは学者のタマゴだけで十分だろ」
ある層の年寄りの心中には、若者を憎む気持ちが潜んでいる。優秀な若いヤツは勘弁してやるけど、優秀じゃない若いヤツは、牛馬みたいに扱わないといけないと思っている。そんな連中を大学に通わせるなんて、資源の無駄じゃないか。そう、彼らにとって、優秀じゃない若いヤツらは、家畜と一緒なのである。
私は暴論を言っている。
ご理解いただきたい。行きがかり上、ここは、暴論を並べざるを得ないところなのだ。
大学や教育をめぐる話では、マッチョでスパルタンでビシッとした人々の声ばかりが鳴り響くことになっている。
こういう場所では、せめて私のような男がなまぬるい意見を吐かないと、言論空間の多様性が失われてしまう。
だから、ここは無理にでもなまぬるい見解を開陳しないといけないのですよ。わかってください。
ごく一部のエリートの皆さんは、もしかして、象牙の塔や起業チャンスを求めて進学したのかもしれない。
が、非エリートは違う。
彼らは単に青春を延長したくて大学に通っている。
カラオケボックスで、歌い足りないと思った時に、備え付けのインターホンに向かって延長を申請するときの心持ちと一緒だ。
「あ、4号室だけど、とりあえず1時間延長でおながいします」
「大学? まあ、一応行くつもりだけどさ」
この点は、結果として偏差値の高い大学に進む学生の場合でもそんなに違わない。ふつう、10代の子供は、学問や就職について真剣に考えていたりはしないし、社会に出た後の自分のブランドについて確たる野心を抱いているわけでもないからだ。
私自身も学問がやりたくて進学したわけではない。有利な就職を求めて受験したのでもない。ただ、いきなり社会に出るのが嫌だったというだけの話だ。
建前の話をすれば、「学問」「研究」「教養」「知識」「人脈」「就職率」ぐらいな話にはなる。
そういうものも、もちろん大切な要素ではあるのだろう。
でも、本当のところ、そういうナマナマしい話に直面するのがイヤだからこそ、子供たちは大学の門を叩くものなのだ。少なくとも私はそうだった。
親も同じだ。
私の両親は、大学に通った経験を持っていない人たちだった。
その彼らが息子を大学に行かせようとしたのは、出世してほしかったからではない。見栄とも違う。
われわれの世代の中高卒の親たちがわれわれを大学にやろうとしたのは、簡単に言葉で説明できることではないのかもしれないが、強いて言うなら、自分たちが経験しなかった「青春」を、自分の子供たちに味わってほしいと願ったからだ。
ということはつまり、大学は、本人にとっても、親にとっても、「学問」や「研究」や「就職機会」ではなくて、「青春」だったのである。
意外な結論だ。
が、これは、本当の話なのだ。
で、大学のキャンパスにめくるめくような青春が待っていたのかというと、もちろんそんなことはなかった。
とはいえ、それでも、丸四年間、誰にも追い立てられずに過ごせたのは事実だった。われわれは、課題に取り組み、無駄な仕事に血道を上げ、あるいは空回りを繰り返し、為すすべなく過ごす時間を持つことができたのである。
その大学で何を学んだのかと問われると、少し困る。
もしかしたら私は何も学ばなかったのかもしれない。
でも、その、ほとんど何も学ぶことなく、なにひとつ成果を上げられなかったあの四年間は、私の心の中では、故郷のような場所になっている。
たいして素敵な思い出があったわけでもないのに、いまでも学校があった場所を通りかかる時には、独特の感慨に襲われる。つまり、大学というのは、卒業してずっと時間がたってから思い出した時にはじめて価値を持ち始める、そういう場所なのですよ。
大学は、社会の側から見れば、教育/研究機関なのであろうし、産業界から見れば人材育成機関であるのだろう。
が、学生から見れば、違う。
大学は、青春を延長する装置だ。
あえて「青春」という恥ずかしい言葉を使ったのは、現実に、大学時代が、このこっ恥ずかしい言葉でしか表現できないこっ恥ずかしい体験だからだ。
忘れたとは言わせない。もっともらしいことを言ってる産業界のお歴々もアカデミズムの先生方も、学生時代は、青春を謳歌していたはずだ。謳歌できないまでも、謳歌すべく努力していたはずなのだ。
大学は、社会に役に立つべきなのかもしれない。
でも、通う身からすれば、大学の魅力は、役に立たない生き方が許容されているところにある。
就活はどうするのか、って?
大学で学んだことが職業に結びつかないような生き方こそが、豊かな人生だよ。
(文・イラスト/小田嶋 隆)
http://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20121108/239205/?ST=print
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