http://www.asyura2.com/12/senkyo137/msg/658.html
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「橋下徹氏との対比で思い起こすのは、いうまでもなく小沢一郎氏の落ち着きです:堀 茂樹氏」
http://sun.ap.teacup.com/souun/8950.html
2012/10/24 晴耕雨読
https://twitter.com/hori_shigeki
橋下氏にある程度の沈着さを求める事さえ遠慮しろと言ってくる人がいるのですが、氏の昂奮も露わなTw等が、氏の掲げる志または野心、普段の言動、有する勢力等に到底値しない事を確認せざるを得ません。
> 英語で言うと余計に困る。本性は性格の本体、本質は性質の本体。このように考えたいのですが?
では別の角度から。
我々は、性格や性質のように自由にならないものの責任は負えません。
関西弁なら「すんまへん、性分でんねん」と言うしかないので、それは批判の対象になりません。
橋下徹氏との対比で思い起こすのは、いうまでもなく小沢一郎氏の落ち着きです。
小沢氏ほど長年にわたり、捜査報告の偽造までする検察につけ狙われ、大手メディアで四面楚歌に晒され、デマと悪口を流され続けてきた政治家は他にいません。
彼のあの自制力、あの分厚さ、あの粘り強さに、私は感嘆します。
> 小沢さんはひどい攻撃を受けてもそれを口汚くののしることはなかった。正しいことはお天道様が見ている、と語って正義はやがて勝つと言うことを信じて静かに構えていた。ちまたで語られているイメージと違って、格調高く政治家の姿勢として正しいものだと感じる。
過剰な攻撃性は資質の問題になる。
別に、橋下という人を「ほんと〜〜〜〜〜〜〜に」(←橋下氏に「肩入れ」する村上隆氏の表現)嫌っているわけじゃないよ。
彼の党派が主張する政策への賛否を別にすれば、今は彼の振る舞いを見て、特別好いたり、嫌ったりするほどの器じゃないなあ〜という感想を、一市民として抱いているだけだよ。
> 橋下は火に油を注いでるだけ。わざと大袈裟に怒って騒ぎを大きくすることで自分を目立たせてる。
そう、まあそれも考えられますね…。
でも、まさにそういう作為の可能性があることも含めて、あざといなあ、小物だなあというのが、この目立つ人物に関する感想です。
> 性格は学習の積み重ねでその本体(主体)が本性。性質は特有に備わってるもので、人間の本質、日本人の本質、会社員の本質、学生の本質//意識するべきだし、ある程度責任もある
それは「本質主義」風の人間観で、私は同意できません。
残念ながらこれ以上の対話は無理と存じます。
お考えは純然たる本質主義ではないが、その傾向を帯びていますね。
本質主義の人間観には実存主義のそれが対立します(→サルトル『実存主義とは何か』)。
私の考えでは、本質主義は、自ら選び取るものより自然に与えられたものを重視するので、必然的に人種差別や性差別に帰着します。
本質主義が差別に向かうのは、「日本人の本質、会社員の本質、学生の本質」、男の本質、女の本質…といった特殊性の定義の中に個人を閉じ込め、普遍性への扉である自由を個人から奪う決定論・宿命論だからです。
あとは、先程挙げた『実存主義とは何か』を読んでみて下さい。
> 自由の代わりに安心を得る。
然り。
閉じたモノになる。
> このような言葉遣いは伝播するもんですね。佐野眞一と二人の記者もその波にのまれてしまった。相手への共感が微塵もない論評は殺伐たるものです。ものまねの清水ミチコが言っていた。嫌いな人のものまねのはできないと。
(なるほど、嫌いな人の物真似はできないのか。どこか共感できるところが必要ということなのだろう…。これはチョイと、嬉しい。私の知らない所で、学生がこぞって、さんざん私の物真似をし、いつも大笑いをしていると聞くからだ。
)
> 今朝素敵な論理を発信している人を見つけました。 @hori_shigekiさんです。昨年4月15日のブログ「小沢という政治家の剛腕を思い切って試してみよう」とhttp://t.co/wDE3bpfL
見つけていただき、感謝です!
橋下徹氏は〈本当に〉こんな挑発的なことを言ってるのかなあ?俄には信じ難いが、その「百倍返し」とやら、私は平気で受けてあげますよ。
⇒【橋下日記】(15日)「批判してきた相手には100倍返しにする」 - MSN産経ニュース http://t.co/qgDi1uG5
例えば、http://nico.ms/sm17769412 での橋下氏の主張に関連するテーマで、私は夙にこう批判しましたよ。
⇒「橋下徹流『組織論』は民主主義の文化に反する」 http://togetter.com/li/273474
「近代民主主義を蝕むふたつの問題」 http://togetter.com/li/283913
多分間違っていない人物評価:喧嘩っ早く負けん気強し。
すこぶる能弁だが雄弁ではない。
野心家ながら器量を欠く。
万事において有能ながら、人間としての懐が浅く、成熟度が低い。
⇒橋下徹
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http://t.co/wDE3bpfL
2011年4月15日 (金)
同一性と変化 ― 小沢は「保守」か「革新」かという疑問への脚注 ―
小沢一郎という政治家については、自由主義から平等主義に転じたとか、小さな政府から大きな政府に乗り換えたとか、親米から親中にシフトしたとか、できの悪い座標軸しか持たぬ評論家等によって、デタラメばかりが流布されてきた。どこがどうデタラメか全部まとめて解説したいところだが、あいにく暇がない。そこで、とりあえず今日は、小沢はいったい「保守」なのか、「革新」なのか、それとも「保守」と「革新」の間で矛盾しているのか、という疑問に対して、少し哲学的な(?)アプローチで補助線を引いておくことにする。
よく知られているように、小沢一郎は、好きな言葉としてしばしば、ルキノ・ヴィスコンティ監督の映画『山猫』の中の台詞を引く。遠い青年時代の記憶に基づくためにその台詞を吐く人物を間違えているらしいのだが、ともかく小沢一郎は、2006年4月の民主党代表選挙における政見演説の終盤にも、次のように述べた。
《「変わらずに生き残るためには、自ら変わらなければならない。」英語で言うと We must change to remain the same. ということなんだそうです。確かに、人類の歴史上、長期にわたって生き残った国は、例外なく自己改革の努力を続けました。そうなのだと思います。よりよい明日のために、かけがえのない子供たちのために……》
こうして、We must change to remain the same.を唱える小沢は、「変わらずに生き残る」ことを目的とするのだから「保守」だろうか。それとも、「変わらなければならない」と言うのだから「革新」だろうか。はたまた、同一性を保とうとする「保守」と、変化を追求する「革新」の間で、矛盾しているのか?否、彼は何ら矛盾してはいない。なぜか?
例えば、「彼女はすっかり変わった」というフレーズに注目していただきたい。これは、以前の彼女と今の彼女は同一でない、少なくとも部分的には別人だという判断の表明であろう。ところが、「彼女は…」というように「彼女」を主題としている以上、このフレーズは、「彼女」の同一性を暗黙のうちに認めている。つまり、彼女の変化は、以前の彼女と今の彼女の同一性に支えられていると言わざるを得ない。しかも同時に、本人が意志したことであったかどうかはともかく、彼女は変化することによって同一の彼女であり続けた、とも言える。この面から見れば、彼女の変化こそが、彼女の同一性の存続を可能にしたということになる。
同一性と変化のこうした二重構造は、地上のあらゆる人と物象に見出すことができる。われわれ個人をはじめ、学校も、会社も、国家も、人類も、この二重構造の中で生きている。人間の悟性を超えて世界そのものを考える形而上学においても同様だ。一方には、古代ギリシャのパルメニデスの教えにしたがって世界を永遠不変の存在の相の下に視ようとする傾向があり、他方にはヘラクレイトス風に万物流転の生成を感得する傾向がある。これまた、件の二重構造の反映にほかなるまい。
そういえば、ヘラクレイトスは、「同じ川に二度浸かることはできない」と言ったと伝えられる。わが国中世の歌人鴨長明の絶妙な表現を借りるなら、「行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし」(『方丈記』1212年)だからである。すなわち、「行く川の流れ」は、「絶え」ぬ(=同一だ)からこそ「本の水にあらず」(=変化している)と言える。それでいて、「本の水にあら」ぬ(=変化している)からこそ「絶え」ることがない(=同一である)、とも言える。このように、「同一性」と「変化」は、対立しながら常に支え合っている。
個人も、グループも、国家も、自分らしく生きようとするときにこそ変わることができ、積極的に変わることによってのみ本来の自分と同一であり続けることができる。この角度から見ると、「変化」とは、いわば「脱皮」なのではないか?そして、いま日本に必要なのはまさに脱皮としての変化であろう。
かの米国は9.11を機に脱皮するどころか、現職大統領ブッシュの下で大義なきイラク戦争へ突入して行った。その後オバマが登場し、"We are, and always will be, the United States of America."と米国の同一性を鼓舞しつつチェンジ(変化)を先導しようとしたが、時すでに遅しだったようで、竜頭蛇尾の感が否めない。
日本の3.11と米国の9.11は性質も規模も異なるので、共通の平面で比較することはできない。しかし、死者・行方不明者の数や国土の破壊という観点から見れば、3.11で日本の国家とネイションが蒙ったダメージは、9.11で米国が受けたショックよりも遙かに、圧倒的に大きい。
わが国は本当に正念場を迎えている。脱皮しなければサバイブできない。つまり、「変わらずに生き残るために、自ら変わらなければならない」のである。ところが、菅直人首相とその政府は、もちろん頑張ってはいるのだろうけれども、その「頑張り方」たるや、まるで「危機感」が欠伸をしているような様子だ。福島原発危機への対応はごく控えめに言っても初動に甘さ、生ぬるさがあったし、震災から一ヶ月以上経過したのに、被災地で仮設住宅建設の目処さえ立っていない。いつもながら日本人という集団は、超優秀な「兵卒」および「下士官」を大勢抱えていながら、ろくな将軍に率いられていないところが弱点なのだ……。
ならば今こそ、「保守」のための「革新」の人であるがゆえに左から疎まれ、右から恐れられ、長年にわたって政権中枢から排除され続けてきた ― しかも近年は明らかにアンフェアなやり方で排除されてきた ― 小沢一郎という政治家の剛腕を、思い切って試してみるべきではないか。
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