http://www.asyura2.com/12/senkyo137/msg/569.html
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橋下徹というお笑い馬鹿タレント問題とは、実はそれを熱狂する愚民問題なのだが、愚民ゆえ橋下徹の弱い者イジメにも民族差別にも共鳴している愚民がいる わけである。ところがそんな差別意識がある愚民でさえ、週刊誌などで被差別部落の出自を疑われた橋下徹をも支持した面もあるわけで、総じて世の中ではあらゆる差別意識はゆっくりではあるが、減っていく傾向にあるものなのだろう。
そこで部落差別の実態はどうなっているかを知るために、以下、部落差別の本質を扱った良書、川元祥一『部落差別の謎を解く キヨメとケガレ』(モナド新書/2009年)から引用する。
★(頁76/引用者注)現代の部落差別の実態について、ここでは1993年の政府意識調査から結婚差別の実態を示すデータを紹介します。古いデータに思えますが、部落問題での政府意識調査は20年に1度行えばよい方なので、これが最近のデータになります。(順番と○内の数字は整理のため筆者がつけた)
一、未婚の若者男女に部落民との結婚観を問いますと、@「絶対にしない」2.8%、A「反対があればしない」15.9%です。約19%の若者が差別観によって拒絶、もしくは消極的だということが表れています。
二、親として子への結婚観。自分の子が部落民と結婚しようとしたとき、B「絶対に結婚を認めない」5%、C「家族の者や親戚の反対があれば結婚を認めない」7.7%、D「親としては反対するが、子どもの意思が強ければしかたがない」41%。Dは親として部落民との結婚に反対しているわけで、この数字には私も驚きました。BCDをあわせると53.7%の親が部落民との結婚に反対、もしくは消極的です。これは、部落差別の深刻さを示します。しかも、親や親戚、周りの反対があればそれに従うという人が大勢なのです。
三、一方「子どもの意思を尊重する。親が口出しすべきことではない」とする回答がE45.7%。較べると差別する親の方が多いわけです。まずこの現実を直視することが重要です。(引用終わり/引用者注)
私のもう亡くなっている両親も戦前の民族憎悪を煽った天皇教の洗脳を受けている世代なので、上記の調査では確実愚民の部類の方の数字にカウントされるはずである。よって今から20年ほど前の調査であるから、今はその世代の多くが退場し、この数字は今ではかなり下がるとも思われる。
私は橋下徹というお笑い馬鹿タレントは、たまたま被差別部落と関係があったとしか考えないが、それでも少なくとも関係がある以上、権力者としては思想的には野中広務程度で収まってくれないかという願望もある。しかし私以外の人間が、たまたま以上に少しだけ必然を感じたとしても、それはそれで人それぞれである。よって佐野真一は連載を本来は完結するべきである。「被差別部落を特定して記述したことが不適切」という指摘は、上記の意識調査を見れば一定の説得力を持ち、要するに愚民のなかの一定数は、それを利用して差別を増幅させるという事象を危惧するものであろう。しかしどこの世界でも一定数の馬鹿は存在し、反差別法でもあれば本来は存在し得ない「在特会」のような珍奇な犯罪集団も日本には存在するが、それはそれで別問題ではないかとも思う。またそれに関連しての差別される側の人権問題では、例のいじめ問題で中川翔子が述べた箴言を紹介するしかない――。要するに、差別する人間(愚民)が近くにいても、それをあなたがあなたにとっての全ての世界だった思っていても、それは大きな間違いで、違う世界が近くに絶対あるということだ。
★《いじめられている君へ》中川翔子さん
中川翔子さん
http://www.asahi.com/special/ijime/TKY201208140480.html
■逃げて まず自分が大事
無理して学校に行く必要なんかない。いじめなんてくだらなくて、立ち向かう意味すらないから。いじめから逃(に)げることは、本当の「逃げ」とは違う。まず、自分のことを大事に考えてほしい。
中学のころ、私はずっと「死にたい」と思ってた。無視(むし)されたり、陰口(かげぐち)を言われたりするのがつらくて、結局、卒業式も欠席した。1人で絵を描いていて、「キモい」って笑われた。「お前に言われる筋合(すじあ)いはない!」って言い返したかったけど、言葉が出なかった。今でも悔(くや)しいんだよ。
「学校だけが世界の全てじゃないよ」って励(はげ)まされたことがあった。「あなたに何が分かる!?」って、その時は思ったけど、いつしかそう考えられるようになった。だって、学校なんて周りに数十人しかいない小さな世界だから。無理に合わせても苦しいだけだよ。
いじめる子たちをよく見てると、仲間の中から順番に1人選び、その子を無視して喜んでた。心底(しんそこ)くだらないと思った。人の痛みが分からない人間だ。もし自分が死んでも、ダメージを受けるのはいじめてきた子たちじゃなくて、自分の家族だけなんだ。意味のないことはやめようと思った。
私は趣味(しゅみ)の世界に救われた。いくら「オタク」って言われても、絵を描いたり、漫画(まんが)を読んだり、ゲームをしたりするのが好き。今はインターネットで仲間を作ることができる。学校の外にすてきな出会いがたくさん待ってるんだから、何か一つでも、楽しいことを見つけてほしい。
人は、両親や祖父母、その先祖(せんぞ)らが出会って生まれた、いわば奇跡(きせき)のような存在。人生を邪魔(じゃま)する資格は、誰にもない。(なかがわ・しょうこ=タレント)
ケガレだとかキヨメだとかいう非科学を信じる馬鹿は科学の正しい理解がなされれば当然減っていくもので、例えば葬式でのキヨメの塩なども愚の骨頂としてすぐさま排斥されるべきものなのであるが、宗教がからむのでなかなかそうもいかないようだ。ヤマトでは平安時代にもちこまれた仏教が、死・出産・血液などが穢れているとするヒンズー教に影響を受けていて、ヤマト土着のケガレ観念とも相まってケガレ観念が広がったようだ。もちろん宗教にもいろいろあるが、神をいただく宗教でいえば、いうまでもなく神など妄想であり、よってケガレなき神も妄想である。
そうそうケガレなきものの最高には天皇という珍奇な存在もあり(笑)、それを讃える珍奇な歌(小石が膨張して巨石となるそうだ)=君が代を強制して喜んでいる橋下徹が「血脈」とかに反応している図を見ると、ある意味滑稽である(「血脈」としての天皇の存在を認めるが、市井の民については「血脈」を語るのは愚劣であるという市民の立場を私は認めない)。
ところでどうしても確認しておくべきこととして、琉球・アイヌにとって部落差別など無縁なことである。よってヤマト内部で部落差別を克服してもさえ、琉球・アイヌ・朝鮮民族の差別と共存できる場合さえあり、例えば水平社運動が戦前の民族差別を煽った侵略戦争に荷担したとしても何ら不思議でもない。例えばイスラエルはホロコーストの被害を独占してパレスチナ人にユダヤ・ナチの蛮行を日常的に繰り返しているが、ホロコーストでさえ人間にその程度の倫理的感性しかもたらさなかったのである。またヨーロッパはユダヤ人問題には敏感でありながら、平気でロマを追放している。よって被差別部落と関係があるお笑い馬鹿タレント・橋下徹が民族憎悪を煽っても、性奴隷問題で戯言をほざいても、それ自体では不思議な事でもないわけである。
悪徳商工ローンの顧問弁護士こそが彼にはふさわしいのだが、日本低国にはテレビという化け物がお笑い馬鹿タレント(石原慎太郎なども含む)を権力者として生産する役目をも担っていて、彼が今大阪市長の座にあるのもテレビのおかげである。実はそのテレビの役割のもう一つに非科学の喧伝があり、細木だとか江原とかに愚民は熱狂するのである。結局のところ、差別を拡大再生産している愚劣なテレビからでた時代の寵児が差別問題を解決する契機とはなり得ないことなど自明のことなのだが、ただし、たまたま出てきた出自の問題が、「ヤマト民族」の遅れた意識を部落差別などないアイヌ民族・琉球民族並みの意識にすこしは近づけたかもしれないという記述が歴史的にはなされるかもしれない。
追記:差別の制度化など
★『日本社会の歴史』(下)網野善彦(岩波新書)
そして日本国自体の内部でも、17世紀後半、将軍家綱から綱吉の時 代にかけて、それまでの「武威」にかわり、儒教思想と儀礼に支えられた国家の統治権者としての将軍の権威による「平和」が確立していった。「傾き者(かぶきもの)」禁圧とも結びつきつつ、全人民の教化を目指したといわれる生類憐れみの令や、血や死の穢れを排する細かい規定を持った服忌令は、一面、そうした儀礼の強化による「平和」のあり方をよく示している。しかし、それらが他方で、すでに西日本においては社会に浸透しつつあった穢れを忌避・嫌悪する感覚を、東日本に持ち込み、斃牛馬を処理し皮革を加工する人びとを「穢多」とよび、種々のキヨメ、葬送に携わる人びとを「非人」として、賤しめ差別する意識が制度化されていった点も、見逃してはならない。ただ、アイヌ、琉球王国においてはこうした差別はなかったと考えられている。
★『日本社会の歴史』(中)網野善彦(岩波新書)
それと並行して(引用者注:14世紀頃から始まる女性を穢れとしてみる風潮の増大と、女性の社会的地位の低下)かつては畏怖すべき事態ととらえられていた「穢れ」に対する社会の対処が、文明化の進展とともに大きく変わりつつあり、「穢れ」を忌避する空気が次第に強くなってきた。 ・・・(中略)・・・このように穢れのキヨメに関わる職能民それ自体を賤視する空気が、貴族、寺社の一部にしだいに強くあらわれるようになってきた。それはやがて牛馬を扱う馬借・車借や、遍歴する芸能民・宗教民にまで及んでくるが、それは神人・供御人制の及んだ西日本で顕著になってきた現象であり、戦士、武人たちの政権の樹立された東日本では、殺生・穢れにたいする感覚は異なっていたと想われ、非人、河原細工丸に対する賤視の動きは、鎌倉を例外として、今のところ明確には確認されていない。
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