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85年前の3党合意
http://www.the-journal.jp/contents/kokkai/2012/10/post_320.html#more
2012年10月21日 22:29 田中良紹「国会探検」
民主、自民、公明の党首会談が決裂し、自公は野田総理を「約束違反、うそつき」と批判している。そうすれば国民世論が味方につくと考えているようだ。しかし世界中どこの国でも政治に「うそ」や「裏切り」は付き物で、政治家は騙すより騙される方が悪い。騙されるような政治家では国際政治の謀略から国民を守る事などできない。
解散の確約を取れずに民主党の分裂劇に目を奪われて3党合意に引きずり込まれた自民党の谷垣前総裁は、最終的に3党合意を否定する問責決議に賛成するという醜態をさらした。すると寄ってたかって総裁の座から引きずりおろしたのは自民党である。自民党だって民主党に騙されたリーダーは用済みなのである。
所詮、自民も公明も己の党利党略で年内解散を迫っている。それを「騙された」と騒いで被害者ぶるのは政治家としてみっともない。本当に騙されたと思っているのなら野田政権と交わした3党合意を破棄し、税と社会保障の一体改革を見直せば良い。
ところで現在の政治状況は昭和初期とよく似ている。昭和が始まった時、日本の政治は3年前に起きた関東大震災の復興に追われていた。また外交では中国とどう関わるかが主要テーマだった。さらに保守二大政党による政権交代が始まり、短期間ではあるが議院内閣制に近い政治が行われていた。
その昭和の初めに政権を担当していたのは憲政会の若槻礼次郎である。大蔵官僚出身の政治家で、憲政会は議会に151議席を有していた。これに対する野党は軍人出身の田中義一率いる政友会が105議席、また政友会から分裂した内務官僚出身の床次竹二郎率いる政友本党が109議席を有していた。
憲政会は大隈重信の流れをくむ政党でイギリス型の穏健な保守政治をめざし、都市の中間層を支持基盤としていた。外交では対中国不干渉、国際協調路線を採っていた。一方の政友会は伊藤博文の流れをくむ政党で地方を支持基盤とし、憲政会の外交方針を「軟弱」と批判していた。今でいえば憲政会は民主党、政友会は自民党に近いかもしれない。
大正天皇が崩御された翌月、昭和2年1月20日、政友会と政友本党は議会に若槻内閣不信任案を提出した。すると若槻首相は田中義一と床次竹二郎の両氏に党首会談を呼びかけ、そこで「予算成立の暁には、政府に於いても深甚なる考察をなすべし」という文書を示した。予算成立と引き換えに内閣総辞職する事を暗示したのである。
3党首はこの文書に署名し、政友会の田中義一総裁は「深甚なる考察」を「予算成立と引き換えに若槻首相は退陣し、憲政の常道に基づいて政友会が組閣の大命を受けるよう取り計らう事を意味する」と考えた。内閣不信任案は引っ込める事にした。
一方、若槻内閣の片岡直温蔵相は田中義一総裁と直談判を行い、関東大震災の復興に当たって出された震災手形を全額処理するために国債を発行し、10年かけて償還する震災手形関係2法案を提出する事を了承してもらう。法案は1月末に議会に提出された。
3党合意により政友会が審議に参加した事で3月上旬に法案は衆議院を通過して貴族院に送られ、予算も成立した。ところが予算が成立しても若槻内閣は一向に総辞職する気配を見せない。そこで野党は合意文書を公開し、若槻首相を「うそつき礼次郎」と呼んだ。
さらにもう一つの「ところが」がある。その裏側で憲政会による秘密工作が進められていた。2月末に憲政会と政友本党が連携していく覚書を交わしていたのである。憲政会と政友本党が組めば政権を政友会に譲る必要はなくなり、3党合意はただの紙切れになる。
その秘密工作は漏れてはならなかったが憲政会幹部の不注意で表に出た。怒ったのは政友会である。衆議院予算委員会を舞台に徹底した攻撃を行い、震災手形関係2法案は政争の具となった。銀行救済のために法案成立が必要だと答弁する片岡蔵相に対し、政友会は破たんしかかっている銀行が本当にあるのか、あるなら銀行名を明かせと迫った。
具体名は言える筈はないのだが、審議の引き延ばしを恐れた片岡蔵相は大蔵次官から渡されたメモに渡辺銀行の破たん情報があったため、ついそれを口にした。実際には渡辺銀行は破たんを回避していたのだが、蔵相答弁が報道されると国民に金融不安が高まり取り付け騒ぎが起こった。これが昭和金融恐慌の始まりである。そのため4月に若槻内閣は総辞職、政友会の田中義一内閣が誕生した。
田中首相は高橋是清を大蔵大臣に任命し金融恐慌の解決に当たった。高橋蔵相は片面だけ印刷した紙幣を大量に発行し、それを銀行の店頭に積み上げて預金者を安心させ、恐慌を鎮静化させた。一方で憲政会の外交方針を「軟弱」と批判してきた政友会が政権に就いた事で対中外交は変化した。
中国を貿易相手国として協調する外交から満蒙開発に力を入れ日本の権益を守る外交に変わった。2度にわたる山東出兵と張作霖爆殺事件などが起きて、野党民政党(憲政会+政友本党)から批判された田中内閣は2年余りで総辞職に追い込まれる。
昭和4年に誕生した民政党の浜口雄幸内閣は、ロンドン海軍軍縮条約の締結を巡り、政友会の犬養毅総裁から「統帥権干犯」と激しく攻撃された。そのためか浜口首相は翌年狙撃テロに遭う。その負傷の首相を政友会は政権交代の好機と見て容赦なく国会に引きずり出した。
昭和6年、浜口に代わって首相となった若槻礼次郎は満州事変の勃発に際し、「不拡大」の方針を宣言するが、もはや国民と軍部を抑えることは出来なかった。若槻は大連立によって政治危機を乗り切ろうとする。しかしそれがまた閣内不一致を招いて8か月で内閣総辞職に追い込まれた。次の犬養首相はわずか半年で暗殺され、ここに政党政治は終わりを告げる。それからの日本は挙国一致の時代に突入するのである。
昭和初期の政党内閣時代、6年半で5人の首相が交代した。その間に目立つのは政権を取るために非妥協を貫く野党の姿である。とにかく政権を批判して足を引っ張る事に総力を挙げる。理にかなった批判なら良いが、批判のための批判をして政治を停滞させる。その野党が政権を取るとそれまで批判してきたことに自分が縛られ、政策遂行の幅を狭めてしまうのである。
諸外国では概ね8年から10年で政権交代するのが普通である。どんな政策でも効果が現れてくるのに最低4,5年はかかる。それを見極めるためにはそれぐらいのインターバルで政権交代させないと、政策の実が上がらないからだ。日本でも政策実現の途中で腰を折る事をさせない仕組みを作る必要があるのではないか。歴史は繰り返すと言うが、昭和初期と同じ繰り返しになれば愚かと言われるだけの話になる。
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