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小沢一郎妻に「離縁状」を書かせた男 第2回 青木理 (G2)
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2012.10.15 青木理(ジャーナリスト) G2
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小沢一郎妻に「離縁状」を書かせた男 第1回 青木理 (G2)
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■妻・和子の変調
小沢の妻・和子は1944(昭和19)年9月、新潟市に本社を置くゼネコン「福田組」の創業者一族に生まれた。福田組は明治期の1902年、初代の福田藤吉が個人企業として立ち上げたものだったが、戦後に四代目の社長となった藤吉の子・福田正が社勢を急成長に導き、鉄道、港湾、発電施設などの土木工事を幅広く手がける東証一部上場の中堅ゼネコンにまで育て上げている。
急成長の背後にあったのが、故・田中角栄の威光と政治力だった。四代目社長の福田正は角栄の後援会「越山会」の最高幹部であり、全盛期の越山会は角栄の地元・新潟で泣く子も黙る権勢を誇った。「列島改造」を唱えて角栄が政界の出世街道をのし上がっていくのと歩調を合わせるように、福田組も業績を拡大させてきたのである。
この福田正の長女が和子であった。ちなみに福田正の次女・雅子は、故・竹下登の異母弟で自民党衆院議員の竹下亘の妻となっており、角栄門下である竹下登―小沢一郎という恩讐も入り交じった師弟は、福田組を軸として姻戚関係を形作っている。いずれも角栄の紹介によるものであり、古くからある言葉を用いれば、まさに「政略結婚」と評すべきものだったろう。
そうして小沢と和子が結婚したのは、73(昭和48)年のことである。翌74(昭和49)年には長男が、77(昭和52)年と78(昭和53)年には次男と三男も生まれている。一方、当時30代になったばかりだった小沢は、少壮の衆院議員として自民党最大派閥の田中派に所属し、角栄や金丸信の寵愛を一身に受けて急速に政界での力を蓄えていった。
これを陰で支えたのが和子だった。小沢が代議士だった父・佐重喜から引き継いだ地盤をさらに固め、岩手に強大な“小沢王国”をつくりあげるのに、和子の地道な奮闘は欠かせないものだったらしい。田中派時代から小沢周辺を取材し続けた大手紙のベテラン政治記者がこう解説してくれた。
「もともと和子さんは人前で話したりするのが得意なタイプじゃなかったようですが、岩手で(小沢の母の)みちさんの薫陶を受けて、とことん裏方に徹しながら、小沢さんの“名代”として一生懸命に地元の支援者回りを積み重ねてきました。いまだって岩手では『和子さんがいなければ地元がまとまらない』という声が出るくらいです」
一方、東京の小沢事務所でも和子の存在と献身は大きかった。小沢の秘書を長く務めた衆院議員の石川知裕のもとを訪ねると、当時の日々を懐かしむようにこう語った。
「とにかく小沢さんはぶっきらぼうで、秘書や住み込みの書生にも優しい言葉をかけることなんかまったくありませんからね。そんな小沢さんに代わって、秘書の動きに気を配ったり、やる気を引き出してくれたのは、いつも奥さんでした。小沢家における奥さんの存在は、相撲部屋のおかみさんをイメージするとわかりやすいかもしれません。むかしは、台所で奥さんと一緒に小沢さんやわれわれ秘書の朝食をつくっていました。料理のつくり方なども、よく教えてもらったものです」
そんな小沢と妻・和子の関係が大きく変質していったのが、おおよそ10年前ごろからのことだったようである。前出した小沢の元側近が、こう明かしてくれた。
「弟さんが亡くなられたころの話です。あれから、奥さまは急激に体調を崩されましてね。よっぽどショックだったんでしょう、それから間もなくお父さんまで亡くなられて、ますます体調が悪くなって……」
■―体調というと?
「体調……というより、はっきり言えば、精神的に病を抱えたような状態になってしまわれたんです。最初のころは、更年期ということもあるのかな、と思っていたんですが、どうやらそんな程度じゃなくて、小沢さんとの関係も急速に悪化しましてね」
和子の実弟である福田実は、父・正の跡を継ぎ、92(平成4)年から福田組の五代目社長に就いていた。ところが2003(平成15)年3月10日、食道ガンのため54歳という若さで急逝してしまったのである。福田組名誉会長の座に退いていた父・正が世を去ったのは弟・実の死より後、09年10月のことであった。元側近の話を続ける。
「弟の実さんは、奥さまと非常に仲良しでね。それに、お父さんの正さんはリクルート疑獄の際に小沢先生や竹下先生に代わって未公開株を受け取り、激しいバッシングに晒されていますから、実家の福田家は政治に翻弄されておかしくなってしまった、という苛立ちも募りに募り、それが一挙に爆発した面もあったんじゃないでしょうか。以後、(和子は)もうすっかり人が変わってしまったようになって、この10年くらいは、地元(岩手)にもほとんど入らなくなってしまいました。あれほど一生懸命に後援会活動を続けてきたのに……。『週刊文春』に報じられた手紙にも書かれていましたが、『隠し子』の問題が浮上してきたことも影響したと思います。同じ家の中にいながらも別居状態になられて、夫婦間の会話もほとんどなくなってしまいましてね」
東京・世田谷区深沢の小沢邸は、敷地面積が600坪もある。その敷地内の一角に、2階建ての別棟が新築されたのは2002年のことだったという。所有者は和子。間もなく和子はこの別棟に閉じこもって暮らすようになり、小沢との夫婦関係は完全に冷め、破綻状態となっていった。
いまもむかしも、政治家と呼ばれる人種は大抵、自らの地盤を世襲によって維持したがるものである。戦後日本で初の政権交代が成し遂げられた先の総選挙―2009年8月の衆院選を例に取れば、立候補者のうち3親等内に国会議員を持つ「世襲比率」は自民党が約39%、民主党でも約15%に上っている。世襲がうまくいくか、無惨に失敗するかはともかく、また、政治家の世襲そのものの是非はともかく、現下日本の政界では、おおよそ4人に1人以上が何らかの形の世襲議員で占められている、とも言われる。畢竟、大物と呼ばれるような議員の子息は、秘書などの形で早くから公の場に姿を現し、マスメディアなども彼らの動向に注目する。
しかし、小沢の場合は違う。小沢自身が父・佐重喜の地盤を継いだ世襲議員であるにもかかわらず、それを引き継ぐ可能性のある子息らの動静がまったく明らかにされていないのである。
つづく
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