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以下は「リベラル21」(http://lib21.blog96.fc2.com/blog-entry-2136.html)から転載。
2012.10.07 誰が橋下氏を支持したのか、誰が橋下氏に投票するのか、「おおさか社会フォーラム2012」で議論になったこと(2)、(ハシズムの分析、その33)
〜関西から(76)〜
広原盛明(都市計画・まちづくり研究者)
日本側の報告は、松谷満氏(社会学、中京大学)の『橋下現象を読み解くー橋下を支持する社会意識は何かー』というそのものズバリの報告だった。氏の問題意識は、「橋下現象=橋下氏が幅広い有権者から支持を得ていること」と規定したうえで、「橋下現象がなぜ生じているのか」、「橋下氏を支持する有権者の論理と心理はいかなるものか」、「そのうえで私たちは何をどのように考えていくべきなのか」を提起しようというものだ。
論点は2つあったように思う。第1は、橋下現象は広い意味での“脱政党化現象”の一環であり、1990年代以降の「無党派・改革派」知事や「ポピュリズム」首長が台頭してきた流れに位置するというものだ。それは、日本社会の成熟(豊かさ・高学歴化・高情報化など)にともなう価値観や社会意識の多様化・自律化の反映であって、特定政党や中間集団への帰属意識や利害関係の集約が困難になってきたことを意味する。つまり、一般的な政治不信や2大政党制批判が必ずしも橋下現象に直結しているのではないと、松谷氏は指摘する。
第2は、橋下氏を支持する層は、若者・社会的弱者に限定されず、中高年のミドルクラスにも広がっており、その背景には「強いリーダーシップ」(「決める政治」)・「愛国心」・「成長志向」への共感など、ナショナリズムと新自由主義の肯定すなわち新保守主義的価値観への傾斜がみられるという。したがって単純な橋下批判、たとえば「独裁」「弱者切り捨て」「開発志向」などは、有権者の多数派である橋下支持層には受け入れられず、左派・リベラル的批判として無視されることになる。
政治学専攻のパジックさんの臨場感あふれる報告および社会調査研究者の松谷氏の冷静かつ俯瞰的報告は、主催者側の期待通り対照的でありながら共通した問題意識を参加者に投げかける刺激的なワークショップとなった。会場からも(左右の立場から)多くの発言が寄せられ、その反響の大きさと多様さが浮き彫りになった。これだけでも「橋下現象を読み解く」ワークショップが成功したことは間違いないが、ただコメンテイターとしての立場からは、ウイスコンシンと大阪を結ぶ糸の撚目(よりめ)を見つけ出さなければならない。
結論的に言えば、「ウイスコンシンと大阪は驚くほど似ている」とのパジックさんの冒頭の発言にもあったように、両地域の政治社会情勢は、強権・専制的首長の登場による地方政治の“バックラッシュ”という点での共通性がきわめて大きいといえる。前述の『市民蜂起』(原題「アップライジング」)の著者、ジョン・ニコルス氏は、日本語版への序文「ウイスコンシンと日本の連帯の絆」において次のように語っている。
「ウォーカーは行動する力を持っていた。2010年の「共和党旋風」の選挙で知事に選出され、議会も共和党が多数を占めたからである。共和党はこの数年間、全国の多くの州で労働者と労働組合に対する歴史的な保護を掘り崩し、一掃しようとした。共和党はこの策略について大っぴらには語らない。有権者には評判がよくないからである。たとえば、ウォーカーは2010年の選挙綱領で団体交渉権の解体について何も言っていない。彼が州の公共セクターの労働組合と組合員への攻撃を開始したとき、ウイスコンシン州民はショックを受けた。」
この状況は、橋下氏が「子どもが笑う大阪」という公約を掲げて大阪府知事選(2008年)に当選しながら、就任後は教育予算を滅多切りした光景を昨日のことのように思い出させる。また大阪ダブル選挙(2011年)以降は、公約では詳しく語らなかった教育・職員基本条例制定を強行し、職員・教員を無権利状態にして専制支配下に置こうとするショック状況に酷似している。
ただ異なるのは、「しかし州民たちはすぐにショックから立ち直り、アメリカの現代史の中で最大の、最も戦闘的な、労働者の権利を擁護する運動を展開した。この運動は何十万人ものウイスコンシン州民を街頭に登場させ、数週間にわたって州議事堂を占拠し、ウイスコンシンの政治を転換させ(最終的には州上院の力関係を逆転させた)、全国そして全世界の想像力をとらえた」(同上)というウイスコンシンにくらべて、大阪では労働運動や政治運動の立ち直りがいささか遅いことだ。
両地域の違いは、パジック、松谷報告の基調にも顕著にあらわれている。前者の報告は1970年代の日本の革新自治体運動の昂揚期の頃を思い出させるし、後者は1990年代以降の革新運動の沈滞期に相応しい冷静な分析視点として受け止めなければならない。そして歴史の歯車を元に戻せない以上、私たちは歴史の教訓に学んで現在状況から再出発する以外に方法がないのであり、その意味でも両報告は貴重な視点を与えるものであった。
ただしかし、松谷報告にあえて付け加えるとすれば、それは「橋下現象はローカルな現象でもある」という視点だろう。“大阪現象”としての橋下現象は、いったい如何なる構造を持ち、いかなる特徴をしめすのであろうか。次回は、私のコメントを若干紹介したい。
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