115. 五月晴郎 2012年10月07日 14:39:27
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掲題への私の認識は↓といったところです http://www.asyura2.com/12/senkyo130/msg/828.html#c12 http://www.asyura2.com/12/senkyo130/msg/828.html#c15 http://www.asyura2.com/12/senkyo130/msg/828.html#c17 http://www.asyura2.com/12/senkyo130/msg/828.html#c19>>109 韓国神社でなく園神と韓神です。 板違いになりますが↓ * 資料@ 岩波書店 広辞苑 第4版 第1版発行 1955.5.25 第4版発行 1991.11.15 韓神 「からのかみ」に同じ。 神楽歌、韓神「われ-韓招せむや」 からのかみ (朝鮮から渡来した神の意か) 守護神として宮内省に祀られていた神。 大己貴(おおむなち)・少彦名(すくなぴこな)二神をさすという。 韓神祭 宮内省に祀ってあった韓神の祭。 古くは、陰暦二月と十一月に行われた。 園韓神 園の神と韓の神。古くから大内裏の宮内省に祭られた。 資料A 大言海 冨書房発行 大槻文彦著 昭和7年10月28日 発行 記載なし。 資料B Kokugo Dai Jiten Dictionary. Shinsou-ban (Revised edition) c Shogakukan 1988. 国語大辞典(新装版)c小学館 1988. からかみ (朝鮮から渡来した神の意)昔、守護神として宮内省の中にまつられていた神。平安時代に は、韓神の祭が盛大に行なわれた。 晢の祭(まつ)り 昔、宮内省の中にまつられた韓神社の祭。上代には陰暦二月と一一月の丑 の日に、園神祭(そのかみのまつり)とともに行なわれた。中世以後衰微し、廃絶。《季・春》 きげんせつ もと、四大節の一つ。「日本書紀」に神武天皇即位の日とする一月一日を太陽暦に換算した二 月一一日を祝日と定めたもの。明治五年制定。第二次世界大戦後廃止された。昭和四一年よ り、この日は「建国記念の日」として祝日。《季・春》 [官衙神] 神祇官の御巫祭神(八神殿と云ふ)、座摩御巫祭神、御門巫祭神、生島御巫祭神、 太政官の厨主神、外記庁の守神、 宮内省の園神社、韓神社、 縫殿寮の御匣殿神、縫殿神、著酒神、 陰陽寮の守護神、 織部司の辰巳隅神、戌亥隅神、 大膳職の御食津神社、火雷神社、 高倍神社、大炊寮の大八島竃神、斎火武主比命、庭火皇神、 主殿寮の寮家、釜殿、松山、炭山等の神、 内膳司の忌火庭火神、平野竃神造酒司の大宮売神社、酒殿神社、園池司の御気津神 資料C 後拾遺和歌集 十六雑 少将内侍 ちかきだにきかぬみそぎをなにかその から神までは遠く祈らん 資料D 神楽歌 採物 みしまゆふ かたにとりかけ かたにとりかけ 我から神のからをぎせんや からをぎせんや やひらでを 手にとりもちて われから神の からをぎせんや からをぎせんや 資料E 出所不明 【園韓神】 ○宮内省内に皇室の守護神として祀(マツ)られていた園神と韓神。 ◎平安遷都以前からその地にあり、移転しようとしたが神勅が あって皇室の守護神として祀られることになったという。 平安時代には陰暦2月と11月の丑の日に、園神祭とともに韓神祭が盛大に行なわれた が、中世以後衰微し、廃絶。 ◎園神は南、韓神は北に祀られていた。 【園神】 ○宮内省内に皇室の守護神として祀(マツ)られていた神。 「そのかみ(園神)」とも呼ぶ。 参照⇒からのかみ(韓神),そのからのかみ(園韓神) ◎韓神である大己貴神(オオナムチノカミ)の和魂(ニギミタマ)としての大物主神(オオモノヌシノカミ)。 資料F http://www.han.org/a/half-moon/ (半月城通信)より 一部採録 文献において宮内省祭神のことは、文部省や神宮司庁が35年かけて作成 した一千巻の百科史料事典「古事類苑」に詳細に記述されています。とてもそ れらをすべて紹介できないので、そのダイジェストを有職故実大辞典(吉川弘 文館)から引用します。 -------------------- 園韓神祭(そのからかみのまつり) 平安京宮内省内に鎮座していた園神・韓神の例祭。『儀式』によれば、式 日は2月春日祭の後の丑の日と、11月新嘗祭(にいなめさい)の前の丑の日 とであった。 園韓神社は『延喜式』神名帳に「宮内省坐神三座(並名神大、月次新嘗)」 とみえ、『拾芥抄』宮城指図などの古図にもみえる。 祭神について、『大倭神社註進状』は園神を大物主神(注3)に、韓神二 座を大己貴命・少彦名命にあて、『古事記伝』は『古事記』にみえる「曾富理 (そほり、注4)神を園神もしくは韓神のうちの一座にあてる説を掲げるが定 かではない。 同社は平安遷都以前よりその地に鎮座する古社で、所伝では、養老年中 (717-24)、藤原氏の創建にかかり、平安遷都の折に他所へ遷そうとしたところ、 「猶(なお)此の地に坐して、帝王を護り奉らむ」との託宣があったため、宮 内省に鎮座することになったといい(『古事談』など)、『新抄格勅符抄』に も、讃岐国の園神20戸・韓神10戸の神封が天平神護元年(765) に充てられ たことがみえる。 さて、祭儀の次第は『儀式』などにくわしいが、当日早朝より神祇官人に よって神院の準備が行われ、春は戌一刻、冬は酉三刻に至って内侍が着座して 開始される。 神部二人が庭中に賢木を立て庭火をたき、大臣は召使いをして歌人・神 馬・鬘木綿などを召す。次に御巫が微声で祝詞(のりと)を述べ、笛琴を奏し、 歌舞を行う。次に御神子が庭火をめぐって、湯立舞を行い、神部8人もともに 舞った。 この儀が南の園神、北の韓神の順に行われ、再び南で倭舞を行い、饗饌あ って大臣以下退出の後、神祇官によって、両神殿前で神楽(かぐら)が行われ る、というのがその概略であった。 平安時代以降、同祭は次第に衰微し、応永26年(1419)2月5日には大風 で同社は転倒(『康富記』同月14日条)、やがて応仁・文明の乱を経て退転 したと思われる。 ------------------------- 園韓神祭で行われる神楽は、広辞苑によれば「われ韓神の韓招(カラオ ギ)せむや」とうたわれます(「からかみ」の項)。この意味は日本古代史が 専門の京都大学・上田正昭名誉教授によれば、通説の「韓神をお招きしよう」 というよりは、「韓風(からぶり)のお招きをしよう」と解釈するのがよいと のことです(注5)。 この神楽は、おそらく今でも宮廷神楽としてうたい継がれているのではな いかと思います。一方、園韓神社ですが、この所在は平安京から遷都の際に東 京へ移ったようです。したがって、現在、宮内庁のどこかにあるだろうと思わ れます。 他方、京都での跡地を上田氏が熱心にさがされたようですが、どうしても 場所を確認できなかったようです。おおよそ現在のNHK付近とのことです (注6)。 次に園韓神の出身地ですが、上田氏は、園神は新羅から、韓神は百済から 渡来したとみています(注4)。しかし、私は韓神二座のうち一座のオオナム チ(大国主命)は新羅系と見たほうがいいのではないかと思います。 神話によると、スサノオノミコトは天上の高天原(たかまがはら)を追放 されて新羅のソシモリに降り立ち、その後、日本の出雲に来たことになってい ます。したがって、その子孫の大国主命(オオクニヌシノミコト)は新羅系と するのがいいのではないかと思います。 * http://homepage2.nifty.com/mino-sigaku/page263.html
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