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<知日派外交官の政治家評>
中国ルポを書いている間でも、世界も日本も目まぐるしく動いている。韓国大統領は日本を「極右」と決めつける、中国は「右翼」と叫ぶ。それは欧米からも。他方で、世界の潮流はというと、世界不況を反映して「特権層の排除」「カジノ銀行排除」である。あわてて米富豪らは、再選確実な黒人大統領に献金を開始した。EU諸国内の135基の原発全てに不備があることが判明。北朝鮮は国連演説で「過去は問わない外交」を打ち出した。神聖なはずのバチカンが、腐敗問題で法廷に引きずり出されてもいる。日本では尖閣報道を悪用して、米産軍複合体が戦術輸送機オスプレイを沖縄・普天間に強行配備した。絶命寸前の野田内閣が、最後の内閣改造を行った。ここはやはり、日中友好に命をかけた大平政治の真髄を、中国知日派外交官から語ってもらった方が有益ではないだろうか。
<大平外交の真髄>
筆者が永田町に首を突っ込んだ72年、政府与党は沖縄返還を花道に引退目前の佐藤栄作政権末期のころだった。権力の中枢である永田町も平河町も、佐藤後継人事で激しく揺れていた。田中派と大平派の大角連合の行方が、日本と中国の運命を決定する重大な局面だった。幸いなことに財界もマスコミも、長期的展望に立った中国との国交正常化に期待をかけていた。
今は改憲に熱心な読売と日経も、当時はまともだった。この時期はまだ極右・ナベツネも、読売を主導する力がなかった。大学の先輩・多田実が読売の政治部を抑えていた。彼は香港から北京に旅立って、国交正常化に向けて先頭を走っていた。
何も知らない駆け出し記者は、大平派参謀の鈴木善幸邸に夜間、押しかけては、英国産ウイスキー「ジョニーウォーカー赤ラベル」の水割りを初めて飲んで満足していた。共同通信政治部の三喜田さんや朝日の田島さん、毎日の近藤さん、読売の加藤さん、日経の山岸さん、TBSの青木さん、産経の阿部さんも一緒だった。阿部さんは大平さんとは遠縁に当たることを、随分後になって知った。水産業界のドンで知られた鈴木参謀だから、いつも新鮮な魚介類が酒のつまみだった。
東京タイムズOBの早坂茂三さんは、田中派スポークスマンをしていた。
主役の大平さんは寡黙な人で、この人から自慢話を聞くことなど無縁だった。勢い政治部記者は、鈴木発言に聞き耳を立てて、英国酒で酩酊するわけにはいかなかった。田中内閣を実現させ、自ら外務大臣になり、日中国交回復に命をかけるという大平戦略など知る由も無かった。
味方から欺く大平戦略だった。72年7月7日に田中内閣が発足、この時、大平派の誰しもが大平の自民党幹事長就任を信じていた。しかし、大平外相人事に派内も担当記者も大いに失望、多くが田中を恨んだ。この謎を肖向前さんは、90歳の遺言として日本人ジャーナリストに打ち明けてくれたのだ。
<古井喜実の証言>
まず藤山発言を披歴した後、古井喜実証言を紹介してくれた。
日本政治史をひも解くと、吉田内閣を後継した鳩山一郎内閣は、CIAが求める憲法改正と再軍備に失敗、その代わりに日ソ国交を回復した。次の石橋湛山内閣は日中国交に意欲を見せたが、当人が体調を壊して1カ月ほどで政権を投げ出した。
あきらめきれない宇都宮さんは、健康を回復した石橋を北京に案内、周恩来と会見している。
続く岸内閣はCIAの後押しで政権を掌握すると、CIAの意向を受けて日米安保改定を強行した。世に言う60年安保騒動で退陣したが、他方で日中関係をとことん破綻させた。古井証言によると、大平戦略はこのころ具体化したことになる。
大平は、まず先輩の池田勇人政権の樹立に奔走して、これを実現した。自ら女房役の官房長官に就任すると、池田首相に対して「料亭での宴会禁止」「ゴルフ禁止」を約束させた。水面下で中国との関係改善を推進すると、改造内閣で外務大臣に就任して、さらにその促進に拍車をかけたのだが、こうした活躍は全て伏せられた。
中国問題は、表向き松村謙三や高崎達之助の手柄とされた。彼らは民間貿易・LT貿易を具体化させた。Lは周恩来の下で対日外交責任者だったリョウ承志の頭文字を取ったものだ。Tは高崎の頭文字だ。これらは「全て大平さんが裏で準備したものだ」と古井は、肖向前さんに証言した。
「1972年に日本に行った。目的は備忘録東京事務所の首席代理となって。その時に同僚の孫平化と一緒に、正常化実現の慰労を兼ねて大平先生と会った。古井さんも、そこにいた」
「古井さんは、この時、面と向かって我々に“国交正常化をずっとやってきた人が誰かわかりますか”と問いかけてきた。ポカンとしていると“この人ですよ”と言われた。その時、大平先生はにやにやするだけで何も言わなかった。この場面が、日本生活の中で一番印象に残っている」
池田内閣を立ち上げて、まず政府を統括する官房長官、ついで外交担当の外務大臣、その後に台湾寄りの佐藤内閣を経て、遂に盟友の田中を政権につけた。最後の外務大臣就任で一気呵成、3カ月後の72年9月に日中共同声明を実現した。大平戦略は、さらに右翼の福田内閣で幹事長に就任すると、平和条約を締結させた。これも鮮やかである。自ら首相になると、ODAを決断した。このODA支援は、ケ小平の改革開放政策の実現のためだった。
思えば大平は、日中友好実現のために政治家になったともいえる。この偉大な戦略の成功を、大平の足元にいた政治記者は全く知らなかった。肖向前さんも、古井に言われるまで気付かなかった。
大平にとって、一ツ橋大学の後輩・極右三文文士知事やウソツキPANSONIC首相に日中友好の大道を破壊されていいわけが無い。おわかりだろうか。
<周恩来も大平絶賛>
言及するまでも無い。これには決断して、一瀉千里で突っ走る田中角栄馬という盟友がいて、初めて実現した。大平は日中関係にブレーキをかける佐藤内閣下、先輩の前尾繁三郎内閣を目指したが、結局のところ、健康に恵まれない優柔不断な前尾を見限った。自ら宏池会を率いて盟友の内閣を誕生させた。だからこそ、田中も大平の信念に従ったのである。
当時の自民党は、岸の影響を受ける福田派以外は、田中・大平・三木・中曽根の各派が日中友好派を形成していた。さしずめ自民党の黄金時代だった。中国に周恩来、日本に大平が存在して正常化が実現した、まことに不思議な人脈が大陸と列島に生まれていた。
この場面で肖さんは、周恩来が「大平さんは国際的な大政治家」と評していたと語った。40年前、お互い議論した挙句のライバル採点である。北京を訪問した日本の政界実力者と一番多く接触してきた周恩来の大平評は、確かなものだった。周恩来は、田中訪中の際の大平通訳に通訳NO1の王コウ賢女史を起用した。「周恩来の決断で彼女になった」と肖さんは教えてくれた。
彼女の日本語は完璧である。大平も彼女に助けられたのだ。数年前に2回ほど会見したが、その時彼女は「周総理は亡くなるまで、胸に人民奉仕のバッジをつけていた」と語ったものである。
筆者は2008年のころ、執筆した原稿を二女の肖紅さんにメール送信していた。「あなたの文章はちゃんと読んでいます。唯一の信頼できる日本の友達です。良心のある日本人です。文章は非常に参考になっています。遅まきながら、ありがとうと言わせてください」
彼は中国きっての日本通だ。主席でもなんでもない。民間人にすぎない。それでもうれしい言葉である。中国人の誰よりも、肖さんに感謝してもらって大満足だ。
彼は拙著「中国の大警告」(データハウス)を読んだ後、日本を訪問するや、自宅に何度も電話してきた。その前に徐啓新さん(現在中日関係史学会秘書長)に1度紹介され、会っていたのだが、再会するや「あなたは中国の真の友人」といって握手を求めてきた。この時は日本に帰化した祝智恵さんも同行してもらった。彼こそが拙著を一番評価してくれたのだ。これも宇都宮・大平さんが、筆者に栄養をくれたお陰であろう。筆者のつたない友好活動を彼は理解してくれた。これ以上のものはない。
<周恩来を裏切った中曽根康弘>
「昨年(2007年)宇都宮さんと西園寺さんの100年祭があり、双方の息子さんと会いました。二人とも午年です」「午年にもいろいろな種がある。小泉馬は悪い種でしょう。中曽根馬は面白い人だ」といって日本の政治家でもっとも親しい関係にあった中曽根についても採点した。
彼は日本の政治家でいち早く中曽根の将来に期待した。1954年に改進党メンバーの訪中団として北京入り、初めて出会った。「園田直さんと一緒だった。将来、大臣になれると直感した。保守開明派という印象を受けた。彼は典型的な風見鶏政治家だ。72年以来、よく付き合っていた。彼は田中・大平・三木の3派連合に食らいついたお陰で、通産大臣になった」
当時は気付かなかったが、彼の本心は原子力ムラの頂点に立ったことを意味していたのだ。
中曽根最大の弱点はというと、それは軍国主義者という拭いがたいイメージだった。これを拭い去らない限り、天下人になれない。そこで肖さんに頼みこんだ。「周恩来総理に合わせて欲しい」と。日本の1閣僚と中国の首相は格が違う。そこをゴリ押したのだ。
中曽根の説得に応じた人のよい知日派外交官は、その無理な注文に応えた。こうして中曽根は周恩来から軍国主義の服を脱ぐことに成功した。中曽根は政権を担当すると、靖国神社を公式参拝して周恩来を裏切った。
人のいい中国の知日派は、それでも「1度で止めた中曽根の方が、小泉よりもましだ」とも。小泉のお陰で、中曽根は多少、救われたことになる。
<将来、中国人と日本人は友達>
この時の最後のメモには、中日の明るい未来を語る文言が踊っていた。
「皆あなたのような日本人ばかりではない。しかし、将来お互い理解して友達になるとみている。これが90歳の楽しみです。本当に和をもってお互い対処すれば実現できますよ。和を尊ぶ理念は社会主義ともつながっています」
肖向前さんは、歩けるころは必ず近くの庶民的なレストランに案内してくれた。「中国のビールは水より安い」といってビールで乾杯した。彼は日本軍の侵略の地で生まれ育った。日本に留学して革命に目覚めた。そんな軍国主義でない大平や宇都宮の日本が大好きな中国人、日本を愛した中国人だった。
この時期、あえて横路にそれることにした。
2012年10月4日8時40分記
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