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[暴政]あやふや「原発ゼロ」で政府が覆い隠す安全保障の実像は日米軍産原子村複合体が仕組む反生命的な「生政治権力」の罠(3/6)、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20120927
2 フクシマ3.11が切り裂き摘出した「国策原発なる日本版9.11」の実像とは?
2−1 3.11と9.11に通底する「実効権力の中枢に宿るファスケス(生命簒奪型の残忍な暴力性)の野放図な開放による社会の戦場化」
<2011. 3.11フクシマ原発過酷事故>と<2001.9.11NY同時多発テロ>の両方に<11のゾロ目数字>が付いたのは単なる偶然であるが、これら二つの悲惨な大災禍が全く無関係な出来事だと見なすとすれば、それは些か表層的で軽薄だとの誹りを免れないであるだろう。
無論、この二つの余りにも悲劇的な大災禍が完全に一致するという意味ではなく、夫々が測り知れぬ恐るべき地獄の深淵のごく一部に過ぎぬからこそ、我われは両者に通ずる戦場の残虐な真相を感じ取ることが可能になると見るべきであろう。
そこで、先ず「予期せぬ大地震と大津波が引き金となったフクシマ3.11国策原発過酷事故」が、実は「原子力平和利用なる偽装大義」下における自然と政治権力に潜む二つのファスケス(過酷な暴力的本性)の野合がもたらす「天文学的数字のスケールで地球全体の生命環境を根こそぎにする可能性が非常に大きい悲惨な戦場」だという現実に注目しなければならない。
つまり、「ウソで塗り固めた如何にも本物然とした完成品の人体像」よりも「未完の余韻が残る正直な表現のトルソー」の方が強く印象に残り、目に見えぬ部分についての真実(その善し悪しは別として)が鑑賞者や観察者へより深く伝わるという、いわゆる<感性のトルソー効果/参照⇒http://urx.nu/23j3>が此の二つの真に悲惨な出来事でも作用すると考えられるからだ(画像『アフロディーテ像(カピトリーノ・タイプ)のトルソ、ラツィオ(イタリア)、2世紀』は、http://urx.nu/249dより)。
<2011. 3.11フクシマ原発過酷事故>と<2001.9.11NY同時多発テロ>の両者の背後には、「日米軍産原子力複合体」を先導役とする超格差拡大政策(1%派Vs99%派への意図的分断)を持続的経済発展のエンジンと見なす<壮大な花見酒経済の罠/参照⇒http://urx.nu/23jy>に墜ちた非公正資本主義(バスタード・ケインジアニスム)」の恐るべき錯誤が潜んでいると考えられる。
そして、フクシマ3.11を換喩的に表現すれば、それは、原発一極型経済という過剰市場原理がもたらす非公正経済戦争の日常化(異常社会経済現象の日常化)を覆い隠す分厚いヴェールを<フクシマ3.11>が切り裂いたため、それまで巧妙に隠蔽されてきた「日米軍産原子力複合体側が仕掛ける超格差拡大戦術(原発発電は安いというウソ)を経済発展のエンジンと見る一種の<花見酒経済型バカの壁>に囲い込まれた非公正資本主義の<醜悪な恥部>が我々の目前に曝け出されたということだ。
9.11の場合も、似たようなことが言える。ごく一部の人間が「残虐な9.11の悲劇」を引き起こしたとはいえ、軍産複合体と米軍が主導する「米政府による、超格差拡大放置を当然視する傲慢な覇権戦術の歴史的展開」が、つまり「イスラム教徒に対する超差別・超格差の日常化」が巧妙に隠蔽されてきたという恐るべき事実を我々は後に知ることとなった。そして、9.11では摩天楼が崩壊しニューヨークが戦場同然の修羅場と化したのである。
ここで、再び「生政治権力(バイオポリティクス)」を想起しなければならない。プロローグで、我われは「生政治権力」の一つの側面が<国民の生命をひたすら付加価値(資本利益・国庫税収)創造のためのツール(道具)とみなす傾向への特異な傾斜>であることを理解したが、そこでは、この強い傾斜の核心となるのが実は権力の中枢を形成する暴力性(ファスケス/fasces)であることについては触れなかった。
ファスケスとは、政治権力・国家権力の中枢には常に“生々しい暴力性”が宿ることを意味する。因みに、当概念の起源は共和制ローマ時代の権力の象徴とされた複数本の斧である。ただ、そのファスケスの斧は妄りに暴走せぬように一定の授権規範的なサブ権力(元老院ら)の紐によって束ねら(規制さ)れており、これが共和制(厳密には貴族共和制)ローマの象徴とされた訳である(ファスケスの画像は、http://urx.nu/24clより)。
現代においても、リアリズム政治ないしはリアリズム外交などの定義の中枢にはファスケス的な意味での暴力性(脅迫・殺人・殺戮・攻撃・戦闘・逮捕・拘束・拷問・投獄・処刑etcという凡ゆる意味での暴力的なもの)が明確に意識されており、その最も先鋭化したものが戦争(戦争状態)であることは論を待たないであるだろう。が、ここで想定されるファスケス的なものの主役は飽くまでも人間である。
故に、一般の戦争で「政治権力の核心たる暴力性(ファスケス)」が暴走しても、また其れが如何に残虐極まりない超リスキーで過酷な被害をもたらすとしても、飽くまでも其れは平和の対概念としての人為の結果として一定の範囲に止まる。然るに、フクシマ3.11過酷原発事故の如き原子力事故と核戦争の場合では、過酷な放射能被害が及ぶ範囲は想像を絶するほどのものとなり、地球規模の被害と全人類の滅亡すら想定せざるを得ないことは疑いもないことだ。
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