20. 2012年9月28日 09:52:52
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八策というと、龍馬を洗濯を連想させる、国民受けのネーミングである。船中八策と呼ばれるようになったのが、大正15年とか。 それまでは 坂本の八策や龍馬の八策と呼んでいたそうである。 明治37年日露 戦争の前夜、「臣は維新前、国事のために身をいたしたる坂本龍馬 と申す者にて候」と皇后の夢枕に現れたと云う。 この話は、宮内大臣 『田中光顕』が、坂本龍馬引き合いにし、薩長閥に対抗する説があり、 余談で云えば、維新と呼ばれたのも知らないだろうし、直柔(なおなり) と名乗らず龍馬というのも? 田中は土佐勤皇党で龍馬と同志になる。 龍馬が歴史に登場するのはこの頃からのようである。 皇后が顕彰し 忠魂碑でき、戦勝も加わり海軍軍神、守護神として喧伝されていく。 船中八策は、夕顔丸の船上でとある、この時の相手が『後藤象二郎』。 後藤は、「彼と我とはきのうまで刺せば突こうという敵同志」と言う龍馬 を亀山社中の同志にも内密にしていた芸妓のお元を同席させ龍馬の
胸襟を開かせた。 (上野写真館での写真は、この頃撮ったようで、 高杉晋作から贈られた銃を両手で構えていて、太刀を受け右手の 親指は深い傷であったとか、その傷を隠すため腕を懐に入れている? 羽織は後藤が贈ったとも? 羽織を着るのが初めてであった) (龍馬の脱藩は、後藤との会談後、陸援隊・『中岡慎太郎』と共に 赦される。 脱藩は死罪であり、前の脱藩は勝海舟門下で赦された。 中岡は龍馬と近江屋で『京都見廻組』により刺殺) 後藤は、『土佐勤皇党』首領『武市半平太』を切腹させた藩の参政 であり、武市の容疑が藩政府の公武合体論を尊皇攘夷へと転覆 する狙いで、参政(藩の家老)『吉田東洋』の暗殺である。 後藤は 東洋の義甥であった。 武市の暗殺は周到に計画され、東洋は 3度目で暗殺された。 武市は、人斬り以蔵『岡田以蔵』を利用し、 その以蔵が、刺客を向けられ、土佐藩に身を委ねた(捕まった)。 以蔵が土佐勤皇党の内情をバラスことを恐れた武市は、以蔵の 毒殺計画、暗殺指令を出している。 岡田以蔵は斬首だった。 その武市に、龍馬は兄事していた。 (月形半平太というのは、黒田藩士『月形洗蔵』と武市半平太を合わ せた勤皇の志士。 大正時代の芝居(大衆娯楽)で大好評を得る。 尊皇攘夷を鼓舞し、日清日露から戦勝気分もあいまって昭和へ。 有名なセリフ: 月さま雨が。 春雨じゃ濡れてゆこう。 ) で、龍馬ファンに顰蹙を買いそうな『早乙女貢」の龍馬評がある。
船中八策は、『横井小楠』の『国是七条』が基だとされる。 この横井の龍馬への訓戒は、「乱臣賊子にならぬように」であり、 武市半平太評は、「大ほら吹き」である。 早乙女は、大ほら吹きで あるからこそ、利用価値があり、敵対関係(蛤御門の変)となっていた 薩摩と長州を結び付けることができたと記している。 龍馬語録は伝えられている箇条書きが49条あるとのこと。 早乙女 著にある龍馬語録をいくつか。 一 世に活物たるもの衆生なれば、いづれを上下とも定め難し。 今世の活物にては、唯だ、我をもって最上とすべし、されば 天皇を志すべし。 一 人に対面せば、此奴はいかにせば打ち殺さるるぞと見破るべし。 此奴は殺すわけはないと思う位な者は智なし。少しむつかしき と思う者は智あり。 その智あるは早くだまして味方にすべし。 一 予に従ふものは生捕同然、予に従はざるものは皆讐敵と見て 心をゆるすなかれ。 一 義理などは夢に思ふことなかれ、身をしばらるるものなり。 一 天下万民を救ふといふ名あれば、恥る所なしと定めて事に かかるべし。 明治史観で教育されると、「四公六民」「五公五民」の酷税の世で ある。 農民8割と武士・僧侶・町民が2割。 五公五民で計算する と非生産者が4倍もコメを消費する。 武士が大食漢になる。 これは
外人が質問した話だそうである。 『武士の家計簿』によると、年貢で 家来を扶持(給与を払う)して、時に農民から借金もしている。 通説 の歴史と違うようである。 龍馬の海援隊も初めての商社のように伝え られるが、米国と為替交渉し、金流出を防ぐべく改鋳した『小栗忠順』 資本を募り株式会社を設立したのが初というのもある。
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