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「日本一新運動」の原点―128
2012年09月24日 :(日本一新の会。)
・一部割愛
日本一新の会・代表 平野貞夫妙観
○ 「政党溶解論」の東大教授・藤原帰一氏の見識と限界!
朝日新聞の社説があまりにも不見識すぎるので、一時期は「不買運動」まで呼びかけた「メルマガ・日本一新」だが、本号では9月18日(火)夕刊の『時事小言』を評価したい。藤原帰一東大教授の「与野党党首選 溶解する政治映し出す」の掲載だ。
本来なら朝刊の「オピニオン」に特集すべき問題である。ほとんど読者の眼にふれない夕刊の、しかも文化欄での「小言」とは、朝日新聞の時代感覚の限界を感じるが、それはそれとしておく。私が「藤原論評」を評価するのは、部分的≠ノ同じことを発想しているからだ。
実は3年前、政権交代総選挙を目前に、衆議院高知第1区の民主党公認候補を応援に来高した枝野幸男氏と、食事をしながら懇談したことがある。私が「既成政党が民意を代表する議会民主政治を行う能力がなくなり、仕組みが壊れてきた。このままだと議会政治で政党はいらなくなるだろう。私は、政党の存在を前提としない議会民主政治を考えてみようと思っている」と語りかけたことがある。枝野氏から「過激すぎる」と一蹴された。私は別に「革マル派」でも「中核派」でもない。国民主権という議会民主政治を発展・進化させるためにと思っていただけだ。
まず、藤原教授の主張の要点を紹介しよう。「民主党と自民党で党首選が開かれる。そこから見えるのは、日本の政党が形もなく溶解した風景である」と、冒頭から刺激的な書き出しで始まる。民主党の代表選を先に採り上げ、野田首相に三人が挑む構図を論評している。「野田首相が昔の自民党だとすれば、三候補はまるで昔の民主党・・・・。内部に自民党と民主党の政策を抱え込んだ政党に投票する意味は、どこにあるのだろうか」と。
さらに、3候補について次の総選挙後、総理になれないことがわかって出馬することの理由について「不人気の野田政権と一線を画することで、政治生命を保つ算段であるとすればいかにも情けない」と厳しい。また、野田首相に対しても「現職の総理が支持を結集できない一点を見ても、民主党はもはや政党としての実体を失おうとしている」と、民主党の現状を政党溶解と論じている。
そんな最中の9月21日(金)、民主党代表選で野田首相は圧勝して再選された。国会議員で、民主党代表に野田首相がもっとも適切だと投票した人は何人いるだろうか。党員・サポーターは30%しか代表戦に参加しなかった。それでも、形の上では民主党の代表に当選するという喜劇的な悲劇に政党溶解の原因がある。状況次第で民主主義とは異常な政治システムとなるのか。いや、政党を構成する人間の質が民主主義を狂わせているのかが問われている。
自民党に対しても藤原教授は厳しい。まず、総裁候補として5人が並ぶ風景の中で「奇怪」を感じたことが2つあると指摘している。ひとつは、同じ派閥から2人が出馬していることだ。町村氏と安倍氏で、派閥の役割が消えたことである。良いことかも知れないが、自民党から派閥がなくなれば自民党ではなくなる。もうひとつの奇怪さは「どうして谷垣総裁が降りたか」と疑問を呈している。私も同じ意見で、自分の意思で降りたのか、あるいは降ろされたのか、いずれにせよ自民党の政党としての「力の衰え」(藤原)だけでなく、賞味期限切れから崩壊期限にきたようだ。
谷垣氏の出馬辞退に関連して、藤原教授は消費税増税にともなう「民自公3党合意」について、「政党政治を政党間の下でも党派を超えた討議と合意は欠かせない」として容認している。そして歯切れ悪く、政党政治を政党間の競合としてだけ捉える人から見ればとして、「与党と主要野党の政策合意とは、有権者から政治選択の意味を奪う政党政治の終わりのように移るだろう」と論じている。後者が筋論で、議会民主政治の根本を理解していない東大教授の限界を露わにしている。
藤原教授は「維新の会に吹く風は、民主党・自民党の空洞化と表裏の関係にある」として、維新の会は政治の行き詰まりと時代閉塞を刷新する期待を国民から受けていると論評している。さらに「自治体再生の試みとして評価」する一方で、党首となる橋下大阪市長について「敵と味方を二分して支持を動員する政治手法」に疑問を呈している。そして「維新の会の隆盛は、政党政治の空白を表現している」と結び、これからの政党政治の空白化を懸念している。
(「維新の会」の問題点)
藤原教授は、これからのわが国の政党政治が「維新の会」によって特徴づけられるとの予想をしているわけだ。そこで私の立場から問題点を述べておきたい。有識者は基本政策にあたる「維新八策」について、綱目だけとか、矛盾があるとか厳しく批判をしている。時代を変えるとか、統治の根幹を変えるという看板だから、もっと刺激的な発想があってもよい。
「衆議院の定数を半分にする」という主張が批判の的になっているが、現状を変えるためには一元的論理にこだわることはない。矛盾があっても良い。「衆議院議員は抽選≠ナ選んだ方が、民主的で質の高い国会になる」ぐらいの主張があってもよい。時代の閉塞感を打開しようというなら、もっと過激で狂気な思考が必要だと思う。
「維新の会」でひとつだけ気になることがある。先日の公開討論会の集約として「価値観がひとつにできた」と、誰が言い出したか知らないが、その言葉が気になった。議会政治というのは、「多様な価値観の共存」を前提としている。「政治的に対立した相手方の価値観の存在を認める」ことから議会主義は始まる。「価値観に関わることは多数決の対象にしない」ことが、議会主義の原点である。
私は新進党時代、「太平洋戦争を謝罪する国会決議」を衆議院本会議で決議したとき、「歴史観という価値観に関わることを、多数決の対象としたことは、憲法の原理に反する」として、土井衆議院議長を相手に訴訟を起こしたことがある。私は戦争には反対だが、議会政治の原理を守ることもより以上に大事だと思う。
「維新の会」が、議会政治を廃止する主張をするならともかく、議会政治を刷新・進化させようとするなら、この言葉はいただけない。政党とか、政治グループが形成されるのは、「多様な価値観を持つ人が議論し、意見を調整して一定の政策や方針をまとめて、それを国会の論議で国家の意思とする」ためである。
(「国民の生活が第一」が、新しい政治の先達になる!)
藤原教授は溶解する既成政党に代わる政党として、「維新の会」に期待と不安を持ちながら論評している。どういうわけか、小沢新党「国民の生活が第一」についてはひと言も触れていない。詳細に検討すると、小沢新党は異色の発想で結成されている。まず、基本方針のトップに「国民の生命を護る」ことを宣言している。日本の政党では初めてだ。世界を見ても珍しい。現在の日本は、それほど「国民が生きていくことに問題がある」という基本認識なのだ。
原発事故・放射能・深刻な経済格差・官僚支配の凶暴化・議会民主政治の崩壊などなど、説明の必要はないだろう。それに対応するため、小沢代表は「国民が直接に政策提言できる機関」を党に設けた。さらに、結党大会の挨拶で「国会各院で党議拘束は設けない」と宣言した。
そして、これまで政党や政治家が国民に提示し、説得してきた政策を、主人公たる国民の提言にもとづいて国民とともに新しい政治を創造することを決意したのだ。その動機は東日本大震災・原発事故、即ち「3・11」にある。小沢代表は民主政治に対する国民意識の変化を見つけたのだ。これまで既成社会の枠に閉じこもっていた人々も、堂々と生きるために活動を始めたのだ。社会の木鐸を放棄した巨大メディアに代わって、ネットを駆使する人々の活動が日本の政治を変える時代となった。頭でしか考えない東大教授には見えない事態が始まっているといえる。
追記
☆本号は無限拡散希望につき、転載許諾を必要としませんので、お取り扱いをよろしくお願い申し上げます。
元記事リンク:http://nipponissin1.blog136.fc2.com/blog-entry-178.html
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