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株式日記と経済展望
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われわれの日本が人さらい(北朝鮮)、島ドロボウ(韓国)、海盗っ人(中国)
という由々しき国家群に囲まれていることが、国民にはいよいよ明らかになった
2012年9月23日 日曜日
◆東アジア「反日」トライアングル (文春新書) 古田博司(著)
http://www.amazon.co.jp/%E6%9D%B1%E3%82%A2%E3%82%B8%E3%82%A2%E3%80%8C%E5%8F%8D%E6%97%A5%E3%80%8D%E3%83%88%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%83%AB-%E6%96%87%E6%98%A5%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E5%8F%A4%E7%94%B0-%E5%8D%9A%E5%8F%B8/dp/4166604678
カスタマーレビュー
◆六章からなる本章では中国、韓国、北朝鮮といった
東アジアの三国が反日ナショナリズムに固執する、その背景を描く。
一つには、中国は近代の入り口、韓国は近代のさなか、
北朝鮮に至っては中世にいるのであり、東アジアで唯一
ポスト近代にある日本は、こうした異時代の国家群に
「過去からの攻撃」にさらされているという。
ただ、自国が主催する国際スポーツイベントの舞台で
集団で人文字まで作って他国を罵り、皆で悦に入っているような
韓国人や、官製デモで他国の領事館を襲わせる事を外交の
一部とするような中国の、あまりにも愚劣にして醜い様を見るにつけ、
過去においても日本がこのような国々と同様であった事があるとは思えない。
東アジアの三国は日本とは異時代にあるというのは面白い見方だが、
むしろ付論IIでも語られる、日本とこれらの国々との
文化的、精神的な違いが重大ではないだろうか。
本書は実は本章の後にある付論が本章に優らず劣らず興味深い。
付論Iでは柳美里と姜尚中という二人の在日文化人をとりあげ、
被害者としての在日のアイデンティティに陶酔する彼等は
「在日一世の神話化」を目論むが、それは多くの三世、
四世たちを「被害者性」に呪縛し、不幸に導くものだという。
付論IIでは日本と東アジア諸国との霊魂観の違いを語る。
特に東アジア諸国では自分達と「始祖との血縁的な繋がりが
記録によって確認できる集団」である「宗族」以外を
軽視する習慣があり、その周囲を顧みない排他性が
これらの国の近代化の阻害要因にもなっているという。
あとがきには反日問題に対する著者の姿勢が明確に語られている。
「我が国が国際舞台で不当な非難を受け、
日本の文化や歴史や精神を一顧だにしないような取り扱いを受けるのを
甘受するしか東アジアの調和を維持する道がないとするならば、
そのような犠牲を払って得られる平和はドレイの平和であり、
とうてい耐え忍ぶことはできない」
まことに同感である。
◆2001年11月16日に、米国ハーバード大学のアジア・センター主催で国際学術会議が開催された。これは韓国政府傘下の国際交流財団の支援により韓国学者の主導で準備されたのだという。韓国側は国際舞台で日韓併合の不法論を確定しようと意図したものだった。ここにはアメリカ、イギリス、韓国、それから日本の学者が集まって論争が行われた。
韓国側はまず、いかに日本が不法に朝鮮を併合したかということを主張した。ところが、国際法の専門家でケンブリッジ大学のJ・クロフォード教授が強い合法論の主張を行った。つまり「自分で生きていけない国について、周辺の国が国際的秩序の観点からその国を取り込むことは当時よくあったことで、日韓併合条約は国際法上は不法なものではなかった」と主張した。
当然、韓国側は猛反発し、「日本に強制されたものだ」と主張したが、同教授は「強制されたから不法という議論は第1次大戦以降のもので、当時としては問題になるものではない」と一喝したという。この結果、韓国側は悄然と肩を落として去っていったという。」P106
◆この本は、タイトルがあまりにも過激すぎて手に取るのがためらわれ、すぐには読まなかったのですが、とうとう読んでしまいました。ところが、タイトルから与える印象とはまったく違い、冷静な分析が著者の地道な資料渉猟の蓄積から引き出されており、非常に参考になりました。おそらくあまた出版された類書の中でも最良の作品だと思われます。結論自体(これらの三国とは基本的にはかかわりを持たず、持たなければいけない場合も、彼らのイデオロギーの欺瞞性を正確に認識した上で、決して妥協してはならない)は至極まっとうで単純なものですが、その結論に至る論理展開は、この三国に共通する中世的なイデオロギーの構造分析(偽史の創作への欲求や垂直的で道徳的な国際関係認識)を基軸にしており、それが本書の説得性を高めています。著者は、思想、学問の自由が存在しないこれらの国との歴史認識の共有なるものの偽善性と危険性を正確に指摘するものです。一番の問題は、まともに日本と戦った経験がないこの三国が、彼らの道徳的なイデオロギー構造から脱却するのはほぼ不可能に近いというわけです。歴史のプロセスの時間軸のずれが現在の問題の一因という指摘は、将来への楽観を残すものですが、本当に”歴史の終わり”という構図がこの3国にも当てはまるのかどうかは、事態の進展を待つしかないのでしょう。付論は、在日知識人の、そのルサンチマンのよって立つ歴史的な妥当性とそのイデオロギーの倒錯性の必然性に対する深い同情を基盤におきながらも、その幻想的な現実認識を現在の日本で文学以外の領域にまで拡散しようという彼らの強迫観念の異様さと不毛さを、鋭く指摘するものです。
◆筑波大学大学院教授・古田博司 「ウソも通ればめっけ物」の世界 9月20日 産経新聞
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/120920/plc12092003140005-n1.htm
今回、東アジア諸国の一連の政治行動により、われわれの日本が人さらい(北朝鮮)、島ドロボウ(韓国)、海盗っ人(中国)という由々しき国家群に囲まれていることが、国民にはいよいよ明らかになったことと思われる。
≪「対日戦勝」の幻影を求めて≫
私は、2005年に『東アジア「反日」トライアングル』(文春新書)を上梓(じょうし)して以来、やがてそのような危機に瀕(ひん)するであろうと本欄を通じて繰り返し警告してきた。これらの諸国は、自己絶対正義の中華思想のうえに、ナショナリズムが重層的に乗っている。ゆえに、中世では彼らから見て辺境であった日本の繁栄を、中華という視点から眺めて、永遠にこころよく思わない。ナショナリズムが反日という形をとって伝統の地層から噴き上げるのである。
戦後の独立にも問題があった。日本軍と戦わずして米国に解放してもらった国(韓国)、少しゲリラ戦をしたものの大負けして、ソ連の傀儡(かいらい)にしてもらった国(北朝鮮)、別の連中が日本軍と戦っている間に山で英気を養い、戦後、前に戦っていた人々を追い出して独立した国(中国)である。
これら諸国は、日本に戦勝したという偽史なしには国民の物語が作れない。これからも、絶えず日本と戦っていると国民にアピールするために、日本の主権を侵し、侵略をし続けることであろうと、かつて私はここに書き記した(09年5月8日付の正論欄「恥ずかしい国に住んでいないか」)。
韓国の李明博大統領は、島ドロボウした地に降り立ち、その後、こう言った。「日王が韓国を訪問したいのなら韓国の独立運動家たちへ謝罪せよ。痛惜の念などという言葉だけなら来なくてよい」。朝鮮の中華思想は、中国という虎の威を借りる狐(きつね)の「小中華思想」で小さなものだが、それでも日本を侮辱したいという熱意にあふれていることが分かるだろう。(後略)
(私のコメント)
日本と中国や韓国との外交摩擦は80年代頃から激しくなり、靖国参拝問題や教科書問題が摩擦の発起点になって来ましたが、その後も南京事件問題や従軍慰安婦問題など、日本の新聞が火をつけるような形で起きて、その度に謝罪外交を繰り返して来た。靖国神社なども未だに日本の首相が参拝できないなどの結果を残していますが、いわゆる歴史カードが日本に対する外交カードになってしまった。
「東アジア反日トライアングル」と言う本では、日本と、中国や韓国や北朝鮮の歴史に対する見方や考え方の根本的な違いが問題の発火点になっていると指摘しているようだ。日本は国家としての歴史的連続性があるが、中国や朝鮮半島の国は、国家が誕生しては滅んできた歴史があり、連続しておらず民族すら入れ替わってしまう。これは世界史から見れば当たり前の事であり、戦争に負けると大虐殺が起きて民族ごと滅んでしまう事がある。
その点では日本は外国との戦争に負けて大虐殺を経験した事がないから、歴史に対する認識が異なる事が生じてくるのだろう。つまり大陸においては歴史は勝者によって書かれて敗者の歴史は抹殺されてしまう。中国なども焚書坑儒の歴史であり、王朝が変わると滅ぼされた王朝の歴史は抹殺されてしまう。その点で中国人や南北朝鮮人から見れば、日本は戦争に負けたにも拘らず歴史認識を変えていないことが気に食わないのだろう。
日本も終戦直後はGHQによって7700冊もの焚書が行なわれて歴史の改竄が行われた。いわゆる東京裁判史観ですが、それが80年代頃になると見直しの動きが起こり、A級戦犯が祀られた靖国神社を首相や天皇陛下が参拝する事はけしからんと言う事で反日トライアングルから抗議が来た。それと中華思想から来る日本の繁栄が気に食わないと言った意味もあるのだろう。
事実50年代60年代初期の日本は非常に貧しく、中国や韓国と大して変わらぬ貧しさであり、力道山のプロレスで外人レスラーを投げ飛ばす事で鬱憤を晴らすような状態だった。だから当時の中国も韓国も反日感情も少なかったのでしょうが、60年代から80年代の高度経済成長によって日本が経済大国になるにつれて中国や韓国に反日感情が爆発するようになった。
映画で「三丁目の夕日」と言う1960年前後を描いた映画かありますが、実際の東京はもっと貧しく大通りも舗装がされていなくて晴れるたびに土ぼこりが舞っていた。自動車も少なく荷馬車すら見かけられていた。それだけ日本の高度成長経済は日本を一変させて近代国家になりましたが、中国や韓国は高度成長経済を経れば近代国家になれるのだろうか?
「東アジア反日トライアングル」では、『中国は近代の入り口、韓国は近代のさなか、北朝鮮に至っては中世にいるのであり、東アジアで唯一ポスト近代にある日本は、こうした異時代の国家群に「過去からの攻撃」にさらされているという。』と書かれているそうですが、中国は世界第二位の経済大国になったにも拘らず中国人の野蛮さは変わらず、反日デモでは日系企業を荒らしまわる。韓国でも同じであり日本大使館前で国旗を燃やして抗議をする。
その国が先進国かどうかは経済レベルは関係がなく、道徳モラルや精神レベルの問題であり、商業取引でも信用をどれだけ重んずるかが先進国かどうかの決めてだ。昨日は中国と商売をすることの難しさを書きましたが、韓国とも事情は変わらない。日本は、「人さらい(北朝鮮)、島ドロボウ(韓国)、海盗っ人(中国)という由々しき国家群に囲まれていることが、国民にはいよいよ明らかになったことと思われる。」と著者の古田氏が記事に書いていますが、その国の道徳モラルの問題であり、国民の能力とも関係がない。
学校の歴史教育などで、反日教育をするということは中国や韓国にとってもプラスなのだろうか? 歴史はその時代や場所によっていろいろ見方も違ってきますが、同じ歴史的事実でも解釈に違いが出てくる。「株式日記」でも「大東亜戦争は植民地の解放と人種差別撤廃の戦争であった」と言う見方を書いてきましたが、アメリカは1960年代まで人種差別国家であった。
在日韓国人に関しても著書では、『柳美里と姜尚中という二人の在日文化人をとりあげ、被害者としての在日のアイデンティティに陶酔する彼等は「在日一世の神話化」を目論むが、それは多くの三世、四世たちを「被害者性」に呪縛し、不幸に導くものだという。」と指摘していますが、被差別意識を売り物にして日本人を糾弾する事が、若い三世四世の在日韓国人を苦しめる事に気がつかないのだろうか?
中国人や韓国人の日本に関するコンプレックスは、歴史から来るものであり、『日本軍と戦わずして米国に解放してもらった国(韓国)、少しゲリラ戦をしたものの大負けして、ソ連の傀儡(かいらい)にしてもらった国(北朝鮮)、別の連中が日本軍と戦っている間に山で英気を養い、戦後、前に戦っていた人々を追い出して独立した国(中国)である。』と言うものであり、韓国の李大統領の天皇発言や竹島上陸行動もここから来ている。竹島の占領は韓国にとっては日本に対する非道徳的勝利なのだ。
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