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「戦後史の正体」と「検察崩壊」
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2012年9月15日 郷原信郎が斬る
拙著「検察崩壊 失われた正義」(毎日新聞社)が、出版社の当初の想定を大幅に超える注目を集めているのは、大ベストセラーとなっている孫崎亨氏の著書「戦後史の正体」の読者の関心が拙著にも向けられたことが大きな要因になっていると思われる。
数日前、その孫崎氏とお会いし、ゆっくりお話をした。私は、検察問題を基本的に司法問題としてとらえてきた。検察の動きとアメリカの対日政策との関係を重視する孫崎氏とは問題を捉える基本的視点には違いがあるが、孫崎氏の視点は、検察の信頼崩壊の経緯・現状と今後の在り方を考える上で重要であることを改めて認識した。
孫崎氏との議論の中で、一つの重要な論点が浮かび上がってきた。
造船疑獄における犬養法務大臣の指揮権発動が、吉田内閣総辞職、保守合同、55年体制の確立につながっていった経過と、アメリカの対日政策との関係という問題だ。
この指揮権発動が国民から大きな批判を受けたことで、それ以降、法相指揮権は封印され、検察は「聖域化」されて政治の介入から免れてきた。まさに、特捜を中心とする「検察の正義」が確立されたのが、この造船疑獄であり、その後、ロッキード事件等の疑獄事件で政治的介入を受けない独立性を保障された「検察の正義」が、実際には大きな政治的影響を及ぼすという構図がここでできあがった。その「検察の正義」が実はアメリカの政治的意図に利用されていたというのが孫崎氏の見方である。ところが、最近では、造船疑獄における犬養法務大臣の指揮権発動は、名誉ある撤退をするために検察が仕掛けた策略だったというのが、多くの関係者証言によってほぼ定説になりつつある(拙稿『「法務大臣指揮権発動」をめぐる思考停止からの脱却を』日経BOL⇒http://nkbp.jp/OvPFt3)。それは、「検察の正義」の歴史的認識を大きく変える事実である。その策略を仕掛けたのは誰か、吉田内閣側でそれに関わったのは誰か、そこにアメリカの意向はどう関係していたのか、多くの疑問が浮かび上がってくる。それは、日本の戦後史と検察の戦後史とが交錯する重要な歴史的事実である。
孫崎氏の「戦後史の正体」によって、戦後の日本が、どのような力学によって、どのように運営されてきたのかについて、国民には重要なことが知らされていなかったことが明らかになった。現在の日本の閉塞状況が、国民が知らないままに、アメリカという国の大きな影響力の下に国が運営されてきた結果であることを知り、我々は愕然とした。
その外交の分野と並んで、秘密のベールに包まれてきたのが刑事司法である。それは、「検察の正義」を中心とする世界であった。国民は、検察という組織が、あらゆる刑事事件を法と証拠に基づいて適切に処理しているものと信じてきた。そして、その適切さに関して何か問題が指摘された時も、捜査・処分について一切の情報を開示せず、説明責任も果たさないのが当然のこととされ、情報が一切開示されず、批判もされないことで「検察の正義」は絶対的なもののように思われてきた。
「検察崩壊 失われた正義」では、その「検察の正義」の象徴であった東京地検特捜部が、虚偽の捜査報告書で検察審査会を騙して起訴議決に誘導するという大罪を犯した疑いが表面化、それに対して検察が行った不起訴処分の理由を示す「最高検報告書」が、いかに「詭弁」「ごまかし」で埋め尽くされているのかを指摘し、「検察の正義」が崩壊している現実を白日の下に晒すことになった
戦後史の重要な部分が国民に隠されてきたのと同様に、検察が行ってきたことの中身は、すべて検察の組織内部で隠蔽され、「従軍記者」のように検察に寄り添う司法マスコミの報道で、国民は無条件に「検察の正義」を信じ込まされてきた。しかし、少なくとも特捜検察に関しては、実は、それは全くの幻想にすぎなかった。
孫崎氏の「戦後史」は、多くの資料に基づくもので、「対米追従派」と「自主派」の対比も、客観的かつ合理的に行われている。「検察崩壊」では、巻末に、最高検が記者会見で配布しただけで一般公開を拒否し、ひた隠しにしている「最高検報告書」と、田代検事作成の虚偽捜査報告書を全文掲載し、検察の厳正捜査に向けて指揮権発動を検討していた小川敏夫前法務大臣、特捜部長経験者の大坪弘道氏、田代検事の取調べを受けた当事者の石川知裕氏、そして、市民の立場から今回の検察の問題を追及し続けてきた市民団体の代表の八木啓代氏の4名との対談を通して、それらの「報告書」が、「検察の正義」の崩壊を端的に示すものであることを明らかにした。
国家の独立と自主性を維持するための外交が国家の基本的作用であるのと同様に、法律の適切な執行のための制裁を科す刑事司法も、国家の存立に不可欠な基本的要素だ。外交をめぐる真実が、「国益」を理由に、国民の目から覆い隠されてきたのと同様に、刑事司法の中核を担う検察の内実も、「正義」のベールに覆われ殆ど明らかにされてこなかった。それだけに、「検察崩壊」で明らかにした察の信頼崩壊の実情は、読者にとって衝撃的であろう。
「政治的中立」のドグマが維持されながら、実際には大きな政治的影響を及ぼしてきた「検察の正義」が崩壊している現状は、国の権力作用の根幹に関わる重大な問題だ。検察も行政機関の一つなのであり、その権限行使についての最終的な責任は内閣にある。検察が自浄能力を失っている現実の下で、検察の組織の抜本改革を実行するのは政治の責任である。しかし、民主党代表選挙においても自民党総裁選挙においても、「検察改革」という言葉は全く聞かれない。政治は検察問題に関わるべきではないというドグマが、「検察の正義」が崩壊した後にも、未だに政治の世界に色濃く残っていることに、この問題の根深さがある。
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