55. takayukifukuda 2012年8月27日 06:11:45
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橋下徹にすり寄る既得権者たるマスコミや権力者たる政治家はじめにお知らせ。 内橋克人氏ブログ転記さて、昨年末以来話題の中心となっている橋下徹だが、政界のニュースを見聞きしていると、一地方自治体の首長である橋下が、もはや与党の大物政治家より影響力の強い人間として扱われていてうんざりさせられる。たとえば、最近の小沢一郎の橋下徹へのすり寄りぶりは「異常」の一語に尽きる。もちろん小沢一郎だけではなく、野田佳彦、谷垣禎一、石原慎太郎・伸晃親子など、保守政治家がみんながみんな、橋下にすり寄る。もちろん「みんなの党」は「大阪維新の会」の「友党」気取りである。 たとえば、石原慎太郎が新党を結成して橋下と連携したいと言ったと報じられたが、これは石原が勝手に橋下にすり寄っているだけであり、必ずや橋下の拒絶に遭うと私はにらんでいる。小沢一郎との関係にしてもそうで、いまやフリーハンドは橋下の側にある。あれほど多くの者にすり寄られてきた小沢一郎が、いまや何世代も下の橋下ごときにすり寄る醜態には哀れさえ催す。 その小沢一郎は、1月8日付の朝日新聞の報道によって、他の9人の国会議員とともに、東電に「優遇」されて多額のパーティー券を購入していたことが報じられ、ますます勢いを失っているように見える。以前から「反小沢」の記事を書き続けている私は、この件でもあちこちに多くの小沢批判の記事を書いたが、「小沢信者」を含む支持者の反撃が次第に弱々しくなってきている。リアルの私の周囲にも、ひところはずいぶん声高に小沢一郎を擁護していた人がいたが、その人も今では小沢一郎のことは何も言わなくなった。 さて、橋下徹だが、橋下をどうとらえるかについては、当ブログのコメント欄でも議論が百出している。たとえば、「独裁」や「強力な指導者」という「橋下像」には批判も多い。だが、正直言って私は「指導者」としての「橋下像」の議論はさほど重要ではないと思う。最大の問題は、人々が誰に強制されるわけでもなく自発的に橋下徹に入れ込んでいることである。橋下には人々を煽動する能力があるのだ。 しばしば私が思い出すのは、2007年5月27日放送の読売テレビ制作の番組『たかじんのそこまで言って委員会』に出演した橋下が、山口県光市母子殺害事件の弁護団に対する懲戒請求をテレビで煽り、7千件以上の懲戒請求書が殺到することになった件だ。これに反発した弁護団のうち4人が業務を妨害されたとして、広島地裁に橋下の損害賠償を求める提訴をしたのだが、なんとテレビでさんざん視聴者を煽った橋下自身が懲戒請求をしていなかったことが明らかになった。 一方、橋下に煽られて懲戒請求をした視聴者が、請求の内容によっては懲戒請求をされた弁護士の側から訴えられる可能性もあることを知って青くなったことも伝えられた。橋下の煽動にうっかり乗ってしまったことを後悔した人も大いに違いないが、それについては煽動されて軽挙妄動に走った人間の責任も重い。それこそ、新自由主義者の大好きな「自己責任」である(笑)。 その橋下が大阪府知事を経て今では大阪市長だ。政治や社会の閉塞状況を利用する橋下は、1月8日付朝日新聞にインタビューが掲載された内橋克人の言葉を借りれば、大衆のニーズに応えて「うっぷん晴らし政治」を展開する。橋下による「公務員バッシング」はその最たる例だ。大阪府や大阪市の正規職員と非正規職員の給与格差が大きいなど、改善すべき問題はあるだろう。しかし、大阪府知事時代の橋下がその問題にまともに取り組んだかというとそうではない。橋下は府知事時代の1年目に、さっそく約350人の府立高校の非正規職員の首を一度に切った。「権力」と戦うポーズをとりながら、その実もっとも弱いところからいじめていくのが橋下の手口である。 ところで、内橋克人は「ハシズム現象」は「貧困マジョリティー」(国民皆年金など基礎的な社会保障からさえも排除された人たちが形成する多数派)の心情的瞬発力に支えられている面が大きい」と言うのだが、もちろん「ハシズム」が浸透する原因はそれだけではない。 2007年の光市母子殺害事件の弁護団懲戒請求の時もそうだったように、電波媒体が煽っている5年前は読売系の在阪テレビ局だったが、今ではキー局がこぞって橋下を出演させている。特に目立つのはテレビ朝日であり、しょっちゅう橋下翼賛番組を流している。古舘伊知郎にいたっては、橋下のプロパガンダ要員も同然だ。 小沢一郎が力説する「政治主導」や「官僚支配の打破」も、簡単に「公務員の既得権益」へのバッシングに転化してしまう。実際、小沢一郎自身が「私の考えは橋下市長と同じ」と言って橋下に露骨にすり寄っている。もちろん橋下にすり寄っているのは何も小沢一郎に限らない。 これらもよく考えてみれば奇妙な話で、マスコミ、特に電波媒体ほど「既得権益」に守られている業界はないわけだし、政治家たちはそもそも「権益」を付与する側の人間だ。その政治家が口を開けば「官僚ガー」「霞ヶ関ガー」と言うのは、何かおかしくないか。たとえば小沢一郎は大震災に被災し、東電原発事故に遭遇した福島県民は霞ヶ関取り巻くデモ起こしてもいいと言うのだが、なぜ取り囲むのは経団連や小沢一郎のパー券を多額購入した東電本店ではなく霞ヶ関なのか。もちろん、経産省も「原子力ムラ」の中枢の一つだし、財務省のデフレ政策志向が日本経済の足を引っ張っているし、「天下り」は怪しからんと私も思うけれども、マスコミや政治家たちは結局「公務員叩き」へと話をすり替えてしまうのだ。 公務員の給与の問題にしても、同一価値労働同一賃金の原則に従って、お役所にも多い非正規雇用者への賃金を引き上げて、その分正規職員の賃金を引き下げることはあっても良いと思うけれども、その代わりに公務員に労働基本券を付与することは絶対に必要だ。ところが、自民党と公明党はこれに頑強に抵抗した。民主党の「野ダメ」政権もひどいものだけれども、自公はやはり本家本元。今後、仮に総選挙で民主党政権が倒れても、そのあとにくるのが自公政権の復活だとしたら、日本の将来は真っ暗闇だ。 そうなるとますます橋下徹への待望論が高まるのだろうけれど、橋下を大衆が担ぎ上げることこそ「ファシズム」そのものだ。何も橋下が独裁者だというのではない。「ファシズム」(伊: fascismo)の語源はイタリア語の「ファッショ」(束(たば)、集団、結束)ということだから、ファシズムは橋下に内在するのではなく、橋下のような人間を担ぎ上げようとする大衆に内在する。そしてその大衆を煽るのがマスコミであり、橋下にすり寄る政治家たちだ。たとえば小沢一郎だって、立派な「ファシスト」なのである。始末に負えないことに、そんなマスコミや自身に群がる政治家たちをいいように利用するのが橋下徹という男なのだ。 橋下の大衆煽動の手口についてもう少し書くと、たとえば西洋の古典芸術(オーケストラ)や日本の伝統芸能(文楽や能楽)に対する橋下の敵意は、それらに接することが日々ほとんどない人たちに対する、愛好家たちへのルサンチマンを刺激することを意図している。「特権階級を叩いてくれる橋下市長」への支持を高める効果を狙っているわけだ。前述の光市母子殺害事件の弁護団も、現在橋下がTwitterで狂ったように叫んでいるらしい中島岳志、山口二郎、浜矩子に対する非難も同様だ。「特権階級」たる弁護士や大学教授たちを叩くことで、人々のルサンチマンを刺激しているのである。 さらに困ったものだと思うのは、いまや「脱原発」にせよ「反貧困」にせよすべての運動が「ハシズム」に回収されかねない様相を呈していることだ。たとえば、唯一エネルギー問題にのみ見るべきところのある(他は全く評価に値しない)新自由主義者の古賀茂明は橋下のブレーンだし、「反貧困」の矛先も、なぜか経団連や「金融資本主義」にではなく、「霞ヶ関」に向かう。「反貧困」運動もずいぶん変質してしまったと思う。 内橋克人は「『うっぷん晴らし政治』ではなく、世界のモデルに目を向け、食糧、介護、エネルギーの自給圏(内橋氏の言うところの「FEC自給圏」=foods, energy, careの自給圏)を志向すべきだ。地味でもいいから、グローバル化の中で、それに対抗できる『新たな経済』を作ることが本当の政治の役割だと思う」と言うのだが、そのような地味な主張には大衆は食いつかず、橋下のような「煽り政治」にばかり熱狂するのだからどうしようもない。この流れを止める妙案など、私には思い浮かばない。
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