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2012年8月15日 (水)
「非現実的な夢想家」が世界を変える
敗戦から67年の時間が経過した。
改めて心に刻むべき言葉がある。
長崎大学医学部教授であった永井隆氏が死を前にして幼い二人のわが子に遺した言葉だ。
永井氏は原爆で妻を失い、自らも原爆に被爆していながら余生を被爆者の治療に捧げた人物である。
永井氏の言葉はいまも力を失っていない。
可燃性の高いナショナリズムを煽る風潮が強い現下の状況のなかで、私たち日本人がもう一度かみしめるべき言葉が刻まれている。
「いとし子よ。
あの日、イクリの実を皿に盛って、母の姿を待ちわびていた誠一よ、カヤノよ。お母さんはロザリオの鎖ひとつをこの世に留めて、ついにこの世から姿を消してしまった。そなたたちの寄りすがりたい母を奪い去ったものは何であるか?
――原子爆弾。
・・・いいえ。
それは原子の塊である。
そなたの母を殺すために原子が浦上へやって来たわけではない。
そなたたちの母を、あの優しかった母を殺したのは、戦争である。」
「戦争が長びくうちには、はじめ戦争をやり出したときの名分なんかどこかに消えてしまい、戦争がすんだころには、勝ったほうも負けたほうも、なんの目的でこんな大騒ぎをしたのかわからぬことさえある。そうして、生き残った人びとはむごたらしい戦場の跡を眺め、口をそろえて、――戦争はもうこりごりだ。これっきり戦争を永久にやめることにしよう!
そう叫んでおきながら、何年かたつうちに、いつしか心が変わり、なんとなくもやもやと戦争がしたくなってくるのである。どうして人間は、こうも愚かなものであろうか?」
「私たち日本国民は憲法において戦争をしないことに決めた。…
わが子よ!
憲法で決めるだけなら、どんなことでも決められる。憲法はその条文どおり実行しなければならぬから、日本人としてなかなか難しいところがあるのだ。どんなに難しくても、これは善い憲法だから、実行せねばならぬ。自分が実行するだけでなく、これを破ろうとする力を防がねばならぬ。これこそ、戦争の惨禍に目覚めたほんとうの日本人の声なのだよ。」
「しかし理屈はなんとでもつき、世論はどちらへでもなびくものである。
日本をめぐる国際情勢次第では、日本人の中から憲法を改めて、戦争放棄の条項を削れ、と叫ぶ声が出ないとも限らない。そしてその叫びがいかにも、もっともらしい理屈をつけて、世論を日本再武装に引きつけるかもしれない。」
「もしも日本が再武装するような事態になったら、そのときこそ…誠一(まこと)よ、カヤノよ、たとい最後の二人となっても、どんな罵りや暴力を受けても、きっぱりと戦争絶対反対≠叫び続け、叫び通しておくれ!
たとい卑怯者とさげすまされ、裏切り者とたたかれても戦争絶対反対≠フ叫びを守っておくれ!」
「敵が攻め寄せたとき、武器がなかったら、みすみす皆殺しにされてしまうではないか?――という人が多いだろう。しかし、武器を持っている方が果たして生き残るであろうか?武器を持たぬ無抵抗の者の方が生き残るであろうか?」・・・
「狼は鋭い牙を持っている。それだから人間に滅ぼされてしまった。ところがハトは、何ひとつ武器を持っていない。そして今に至るまで人間に愛されて、たくさん残って空を飛んでいる。・・・
愛で身を固め、愛で国を固め、愛で人類が手を握ってこそ、平和で美しい世界が生まれてくるのだよ。」
「いとし子よ。
敵も愛しなさい。愛し愛し愛しぬいて、こちらを憎むすきがないほど愛しなさい。愛すれば愛される。愛されたら、滅ぼされない。愛の世界に敵はない。敵がなければ戦争も起らないのだよ。」
永井隆氏の言葉は、村上春樹氏のバルセロナでのスピーチと重なるところが多い。
「原子力発電に危惧を抱く人々に対しては「じゃああなたは電気が足りなくてもいいんですね」という脅しのような質問が向けられます。国民の間にも「原発に頼るのも、まあ仕方ないか」という気分が広がります。高温多湿の日本で、夏場にエアコンが使えなくなるのは、ほとんど拷問に等しいからです。原発に疑問を呈する人々には、「非現実的な夢想家」というレッテルが貼られていきます。」
「原子力発電を推進する人々の主張した「現実を見なさい」という現実とは、実は現実でもなんでもなく、ただの表面的な「便宜」に過ぎなかった。それを彼らは「現実」という言葉に置き換え、論理をすり替えていたのです。」
「我々日本人は核に対する「ノー」を叫び続けるべきだった。それが僕の意見です。」
「我々は技術力を結集し、持てる叡智を結集し、社会資本を注ぎ込み、原子力発電に代わる有効なエネルギー開発を、国家レベルで追求すべきだったのです。たとえ世界中が「原子力ほど効率の良いエネルギーはない。それを使わない日本人は馬鹿だ」とあざ笑ったとしても、我々は原爆体験によって植え付けられた、核に対するアレルギーを、妥協することなく持ち続けるべきだった。」
「それは広島と長崎で亡くなった多くの犠牲者に対する、我々の集合的責任の取り方となったはずです。」
「しかし急速な経済発展の途上で、「効率」という安易な基準に流され、その大事な道筋を我々は見失ってしまったのです。」
「我々は夢を見ることを恐れてはなりません。そして我々の足取りを、「効率」や「便宜」という名前を持つ災厄の犬たちに追いつかせてはなりません。我々は力強い足取りで前に進んでいく「非現実的な夢想家」でなくてはならないのです。」
平和主義、戦争放棄を主張する者は、しばしば「非現実的な夢想家」と称される。
しかし、永井隆氏や村上春樹氏が主張することは、私たちが「非現実的な夢想家」になることだ。
「非現実的な夢想家」の力が、最後には現実を突き動かす。
「現実的」に「目には目を」の対応を続けるなら、最後には、取り返しのつかない破滅に至る。それは間違いのないことだ。
映画「父親たちの星条旗」を制作したクリント・イーストウッド監督が伝えたかったメッセージは次のものであると批評家の沢木耕太郎氏が述べた。
「戦争を美しく語る者を信用するな。彼らは決まって戦場にいなかった者なのだから」(朝日新聞2006年11日6日夕刊「銀の森へ」)
戦争で傷つき、かけがえのない命を失うのはいつも前線の兵士、そして罪のない一般市民である。
第二次大戦の末期、沖縄の人々は、本土決戦への時間を稼ぐためとの名目で日本政府から捨てられた。そのために、前線の兵士を含めて20万人の尊い命が失われた。
指揮を執る者は安全な場に身を置き、前線の兵士と戦地の市民だけが犠牲になる。
現代の戦争では最新鋭の兵器が大量に使用される。この兵器の使用により巨大な利得を手にする大資本がある。
戦争は前線の敵と味方の間で戦われるものではない。安全な場に身を置いて指揮する指令者、金融資本、軍事産業と、前線の兵士、戦地の市民との間で繰り広げられるのが戦争なのだ。そして、犠牲になるのは決まって戦地の兵士と市民である。
国と国の紛争、敵対心は意図的に煽られる。
世界のなかには、宗教をめぐる抜き差しならぬ対立が存在する。この種の対立を根絶することは難しい。
しかし、大半の戦乱は、意図的に創出された対立の図式のなかで展開される。
その最大の理由は、軍事産業が常に戦争を必要としていることにある。
巨大資本は軍事と金融で戦争から巨大な利益を確保する。
この利権のために、戦争は人為的に創作されるのである。
・・・・・
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