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ここ20年の日本の政治は、小沢一郎を中心に動いてきた。そして、常に批判を浴びてきた。小沢一郎を批判する声の多さは、逆説的に、小沢一郎がどれだけ権力を握っているかを物語っている。
政権交代、民主党分裂、新党立ち上げ…この一連の動きを見て血沸き肉踊らない人間に、政治を語る資格はあるまい。
山崎行太郎「ヘーゲルとマルクス――唯物論的転倒の哲学」より
http://gekkan-nippon.com/?p=4188
■「世捨て人」の政治評論を排す
文学は政治であり、政治は文学そのものである。人間存在の謎に迫る文学と、人間の欲望と権力、権謀術数……という人間存在のすべてが集中する政治とは、メダルの表と裏の関係にあると言っていい。政権交代から民主党分裂、小沢新党立ち上げにいたる政治ドラマは、まさしく文学である。言い換えれば、この政権交代から小沢新党立ち上げに至る政治ドラマは、文学や哲学の眼を通して見ない限り、なかなかその本質や深淵を覗き見ることは出来ない。政治学者や政治ジャーナリストたち、あるいはエセ文化人たちの語る、薄っぺらな政治評論や政治家論では、その本質や深淵は決して見えてこない。
「目的のためには手段は正当化されるか」(『罪と罰』)、「政治運動に裏切りやスパイ、同志殺しなどの権謀術数は不可欠か」(『悪霊』)を追求したドストエフスキーの文学は、まさしく「政治文学」であった。政治や革命の「欺瞞性」や「悪」を描いたドストエフスキーは、「人間は政治的動物である」(アリストテレス)ことをよく知っていたと言える。そもそも、ドストエフスキーは、青年時代には過激な革命結社の一員であり、革命運動家でもあった。そして、それ故に、逮捕、死刑宣告、シベリア流刑といった経歴の持ち主であった。『地下室の手記』という小説で、革命の偽善性と欺瞞性を暴き、いかにも反革命的、反政治的な作家、文学者のごとく見られるが、しかし、その内部には激しい革命的、破壊的な情熱を秘めた作家であった。この二重性こそが、文学と政治との関係である。文学は反政治的で、反革命的というのも間違いなら、文学は政治であり、政治の手段、政治や革命の道具ということも間違いである。政治が卑俗で、文学が高尚なわけでもない。政治も文学も卑俗であり、かつ高尚である。政治も文学も、人間性そのものと深く関わっている。
「権力闘争」「壊し屋」「金権政治家」「権謀術数」……これらの言葉が、「小沢一郎批判」の言葉として、マスコミなどの「政治評論」で盛んに使われているが、まさしく、その種の政治評論は、「政治を語る言葉」となっていないと言っていい。「権力闘争」「壊し屋」「金権政治家」「権謀術数」……は政治に不可欠のものであり、まさしく政治そのものであるからだ。「権力闘争」「壊し屋」「金権政治家」「権謀術数」……を否定的な言葉として使うとすれば、その人は、「政治を語ること」を拒否した人である。言い換えれば、政治とも文学とも無縁な人、つまり「世捨て人」ということが出来る。「世捨て人」の政治評論が蔓延しているのが、テレビや新聞というような巨大マスコミの世界である。むろん、それこそ欺瞞であり、幻想であり、現実からの逃避である。
政権交代から民主党分裂、小沢新党立ち上げにいたる政治ドラマに、胸躍り、血が騒がない人がいるだろうか。少なくとも、私には面白い。何故、面白いのか。そこに、ホンモノの人間がいるからだ。
■ヘーゲルとマルクス─唯物論的転倒の哲学
ヘーゲルとマルクス 、あるいはヘーゲルからマルクスへ、という言い方が、かつてはよく使われたが、今は、あまりそういう言い方が、使われないように見える。ヘーゲルやマルクスの思想そのものが、ポスト・モダンの時代ということで、人気がなくなったことが原因しているかもしれない。あるいはマルクス主義というイデオロギーが失墜したからかもしれない。しかし、ヘーゲルからマルクスへ、という問題が消滅したというわけではない。
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