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「自主と追随」 あらゆる分野で見られる日本人の“追随体質”の脱皮は可能か
2012年07月25日 :(世相を斬る あいば達也)
小沢一郎の新党「国民の生活が第一」の立ち上げ以降、なんとなく政局は一服の感がある。まぁ年中無休で政局ばかり語るのも飽きてしまうが、何度も念を押すようだが、政治には“権力闘争”がつきものであり、政治権力を握らない限り政治は行えないわけで、政策と政局のどちらが大切かといえば、先ずは“政局”なのである。一見暴論のようだが、政局が民主主義政治を実践する上での、とば口なのである。権力闘争と政局を避けるのが民主主義だというような論調を繰り返す輩は、民主主義の本質を見誤っているのだが、案外国民に受けが良いのも事実である。今夜は、この争わない、競わない、穏便そうな選択に靡く、日本人の国民性を軽く考えてみようと思う。
よく聞く小沢一郎批判の中に、“選挙に勝つようなことしか言わない”と云う言説がある。野田のように、政権与党が溶解するような“政治的決断”をしたのは素晴らしいと褒めそやす話だが、それを語っている連中の殆どが“増税で何らかの利益享受する側の人々”だと云う事実を見逃してはならない。選挙に勝つような事、つまり国民の多くが望む事を成し遂げてやるのが、彼らの代人である国会議員の具体的政治行動規範でることは事実だろう。こう云う事実関係は、シンプルに考えた方が、正解に近づく早道である。しかし、日本人には、例の「空気」と云う厄介な魔物が存在するのも事実である。
この空気感の醸成に大きく貢献しているのがマスメディアと云うものだが、このマスメディアが押し並べて隷属するのが権力であるとなると、国民はマスメディアによって仕掛けられた「空気感」に易々と支配される構図も見えてくる。2000年以上の歴史の中で育まれた“被支配”の中で生きる術に長けている我が国の民は、面従腹背の生き方が、まさにDNAの如く受け継がれているようだ。強いものと争わず、仲間との空気感を大切にし、適度に面従腹背を繰り返し、強かに生きてきた“民”の知恵は敬服に値するが、民主主義世界では不適切と云うか、不向きな国民性だとも言えるわけである。
ただ、少々このDNAに異変が起きている事実は、案外重要なのかもしれない。それが、野田ら官邸が甘く見ていた“原発再稼働問題”だ。“国民の命より電気が大切”というロジックは国民間の「空気感」を二分する傾向を見せている。山口、沖縄に配備するオスプレイの問題も、おそらく二分する方向に向かっている。消費増税も国民の意志を二分している。勿論、意見が二分されているから、日本人の権力への面従腹背DNAが変わったとは言えないが、原発集会やデモへの参加行動を観察する限り、面従腹背ではなくなっている事実は相当に大きなインパクトを持っている。
実際問題、オスプレイと云う子供のアイディアのような飛行体が、対中国軍事防衛にどれ程役立つかどうか判らないが、この上にも前にも進める“どこでもドア”のような代物、どう考えても操縦が難しそうなのは自明だろう。これが沖縄の空だけを飛び回るなら安心だと思っている国民も多いようだが、なんてことはない、日本中の空を飛びまわるルートが既に設定済みであること、どれだけの国民が知っているか甚だ疑問だ。自分の町の上も飛ぶんだよ!と言われた途端、反対するに違いない(笑)。正直、早目に訓練中に、山中や瀬戸内海の藻屑にでもなれば、大騒ぎ間違いなしだ。事故が起き、人が死なないと大事ではないと云う国民性にも困ったものだが、それが現実なのかもしれない。原発関係者が“福島の過酷事故で、人は一人も死んでない!”と胸を張る現実を見るとよく判る。
全然異なる分野の話題になるが、生活保護制度と最低賃金制度の逆転現象が話題になっているが、生活保護法の目的は、「日本国憲法第25条に規定する理念に基き、国が生活に 困窮するすべての国民に対し、その困窮の程度に応じ、必要な保護を行い、その最低限度の生活を保証するとともに、その自立を助長すると定めている。最低賃金法も、日本国憲法第25条の主旨に基づき、最低賃金を定めた法律である。使用者は最低額以上の金額を賃金として労働者に支払わなければならないと云う法律だ。
双方を比較する時、面白いのは、二つの法律共に憲法25条から生まれている点である。乱暴な分け方をすると、前者は働ける環境にない国民に対する「憲法第25条:すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。2、国はすべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない」の対応から生まれ、後者は働く場はあるが、超低賃金で国民が25条の精神に抵触するのを避けようとしているわけだ。
今夜、この二つの憲法から生まれた兄弟法律を論ずるつもりはないが、理屈抜きに奇妙な事実が存在すると云うことだ。かなり乱暴な観察だが、働いている人間より、働かないで保護を受ける人間の方が高額な健康で文化的な最低限度の生活を営む保証がされている現実を“おかしい?”と思うことが必要なのだ。法律論としては、色んな考えがあるだろうが、単純な肌感覚の判断と云うものは、弄り回された手あかだらけの法理論より優れている事が多いものだ。また、生活保護制度は行政の所謂“裁量行政”の入り込む隙間満載なのが最悪だ。働いている人間より、働かざる方が益が多いなんてのは、国家を滅ぼす(笑)。
こんな調子で、財政事情を考えれば、官僚らが握る予算配分の“裁量行政権”を剥奪する事で浮いてくる予算の額を見ずして、増税に与するなんてのは“愚の骨頂”である。放射能をバラ撒くリスクを常備している“原子力発電”等と云うものは、時と場合には国民の生命財産を奪うものなのだから、単純にやめれば良い。他に代替する発電方法がないのなら、命を失うリスクを引き受けても構わんが、代替発電方法はゴマンとあるのだから、議論の余地はない。この流れで考えれば、自国の国土の上を、他国の軍隊が駐留し牛耳ったままが素晴らしいなんて理屈も、通用すること自体大間違いだ。自国の領土の近くに中国の監視船が来たの来ないのより、我が物顔で日本領土全体に駐留する米軍にアンチな態度を示さない方が異様である。
こんな日本だから、世界から嘲笑される国家になっているのだろうが、嘲笑されていることさえ気づいていないのだから、筆者の持論である“鎖国準拠国家”の方がまだマシなのである(笑)。持論は横においておくとして、僅かに国民の中から、「追随」だけでは駄目なのだ、と云う機運が生まれている事は良いことだが、面従腹背・追随からの脱却に向かうのかどうかは、まだ見えていない。「自主独立」の国家観を持つことは、多くの“義務”が付きまとうだけに、果たして実りが生まれるかどうか、未だに筆者は懐疑的だ。国家の「自主独立」の場合、副産物のように石原慎太郎のような右傾人種も跋扈するわけで、必ずしもリベラルな民主主義に向かうわけでもない点も考慮にいれなければならない。彼なら、元気が良くなる話として、再軍備徴兵制も言い出すだろう(笑)。
まぁそこまで拡大するわけもないので省略するが、日本人の面従腹背・追随の文化が変わる起爆剤になるのであれば、今回の不幸な出来事を奇禍として見ることも可能だろう。
自主独立の精神の基本は、自ら情報を取り、自ら考え、自ら、その実現への努力と結果責任を引き受ける事である。
小沢一郎がイイ事ばかり並べ立てていると批判する連中は多いが、小沢一郎は個々の国民の自立こそがすべてだと、相当厳しいことを国民に要求している。彼らの多くは、この小沢の根っこの部分をネグって評論する汚さを身につけている点が不快でならない。最後の謂一文は、筆者の個人的感情の問題だが、書くのは自由だろう。それでは今夜はこんなところで、皆さまオヤスミナサイ!
元記事リンク:http://blog.goo.ne.jp/aibatatuya/e/7181e537309700b6191310ae833b2584
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