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裕仁親王殿下の仁政を願って伝授された『中朝事実』
いまから百年前の明治四十五(一九一二)年七月三十日、明治天皇が崩御され、九月十三日青山の帝国陸軍練兵場(現在の神宮外苑)において大喪の礼が執り行われました。
午前八時、明治天皇の柩が、神宮外苑絵画館裏口に当たる臨時駅から、京都桃山御陵に向かってご発引の砲声が轟きわたると同時に、乃木希典将軍は赤坂の自邸で、静子夫人と共に自刃し、明治大帝の御後を慕っていったのでした。
その二日前の九月十一日、乃木は東宮御所へ赴き、皇太子裕仁親王殿下(後の昭和天皇)だけにお目にかかりたいと語りました。当時、乃木は学習院長、御年満十一歳の皇太子殿下は学習院初等科五年生でした。以下、そのときの模様を大正天皇の御学友、甘露寺受長氏の著書『背広の天皇』に基づいて紹介します。
乃木は、まず皇太子殿下が陸海軍少尉に任官されたことにお祝いのお言葉をかけ、「いまさら申しあげるまでもないことでありますが、皇太子となられました以上は、一層のご勉強をお願いいたします」と申し上げた。続けて乃木は、「殿下は、もはや、陸海軍の将校であらせられます。将来の大元帥であらせられます。それで、その方のご学問も、これからお励みにならねばなりません。そうしたわけで、これから殿下はなかなかお忙しくなられます。──希典が最後にお願い申し上げたいことは、どうぞ幾重にも、お身体を大切にあそばすように──ということでございます」
ここまで言うと、声がくぐもって、しばらくはジッとうつむいたきりでした。頬のあたりが、かすかに震えていました。
顔をあげた乃木は、「今日は、私がふだん愛読しております書物を殿下に差し上げたいと思って、ここに持って参りました。『中朝事実』という本でございまして、大切な所には私が朱点をつけておきました。ただいまのところでは、お解りにくい所も多いと思いますが、だんだんお解りになるようになります。お側の者にでも読ませておききになりますように──。この本は私がたくさん読みました本の中で一番良い本だと思いまして差し上げるのでございますが、殿下がご成人なさいますと、この本の面白味がよくお解りになると思います」
自刃を決意し、乃木が最後の仕事として是非とも皇太子殿下に伝授しておきたかったのが、山鹿素行『中朝事実』だったのです。乃木は、その三日前の九月八日には、椿山荘に赴いて、山縣有朋(枢密院議長)に自ら中朝事実を抜書した「中朝事実抜抄」を手渡し、大正天皇に伝献方依頼しています。
さて、乃木の様子がなんとなく、いつもと違った感じなので、皇太子殿下は、虫が知らせたのでしょうか、「院長閣下は、どこかへ行かれるのですか」とお尋ねになりました。
すると、乃木は一段と声を落して、「はい──私は、ただいま、ご大葬について、英国コンノート殿下のご接伴役をおおせつかっております。コンノート殿下が英国へお帰りの途中、ずっとお供申し上げなければなりません。遠い所へ参りますので、学習院の卒業式には多分出られないと思います。それで、本日お伺いしたのでございます」と、お答えした。
それから六十六年を経た昭和五十三年十月十二日、松栄会(宮内庁OB幹部会)の拝謁があり、宮内庁総務課長を務めた大野健雄氏は陛下に近況などを申し上げる機会に恵まれました。大野氏が「先般、山鹿素行の例祭が宗参寺において執り行われました。その際、明治四十年乃木大将自筆の祭文がございまして、私ことのほか感激致しました。中朝事実をかつて献上のこともある由、聞き及びましたが……」と申し上げると、陛下は即座に、「あれは乃木の自決する直前だったのだね。自分はまだ初等科だったので中朝事実など難しいものは当時は分からなかったが、二部あった。赤丸がついており、大切にしていた」と大変懐しく、なお続けてお話なさりたいご様子でしたが、後に順番を待つ人もいたので、大野氏は拝礼して辞去したといいます。
(坪内隆彦 「日本こそが中国だ」と叫んだ山鹿素行(明日のサムライたちへ)
『月刊日本』の許可を得て一部転載
http://gekkan-nippon.com/?p=4148
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