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オスプレイ配備をめぐって野田政権は迷走を続けている。しかし、沖縄県民を無視して配備を強行するならば、普天間問題が一層こじれるだけである。それどころか、沖縄は中国との関係を真剣に模索し始めるだろう。
本土に住む人々は、沖縄の思いにあまりにも無関心である。メディアに流れる基地反対運動だけを見て、あいつらは左翼だと決めつけ、そこで思考停止してしまっている。
ここでは沖縄初の芥川賞作家・大城立裕氏を紹介する。沖縄の人々が本土に対してどのような思いを抱いているか、まずはそれを知ることから始めなければならない。
『月刊日本』2011年8月号「琉球人の想いを大和人へ」より
http://ameblo.jp/gekkannippon/entry-11252597408.html
捨石にされた沖縄
大城 ヤマトとの関わりは古いが、特に近代以降、不幸なものとなっている。琉球処分という軍隊による制圧以来、琉球とヤマトとの関わりは、軍事的な関心のみが中心となっていたと言える。そこには琉球という異質な文化を包摂しようという文化的な視座が欠けていた。
琉球はそれでも、ヤマトに適応しようとしてきた。過剰適応と言ってもいいほどで、戦前にはある知識人が「くしゃみをするときにもヤマトグチでくしゃみをしろ」とさえ言ったほどだ。涙ぐましいほどに、琉球人は日本人になろうとしたのだ。しかし、それは琉球人であることをやめるということではなかった。
私は昭和13年に中学に入学したが、その5年間、「日本人として一人前になれ、それと同時に、琉球人としての誇りを失うな」と教えられた。一見矛盾するようだが、自らの依って立つ歴史と文化への誇りがなければ、日本人にさえなれないのだ。
沖縄は日本で唯一地上戦が行われた土地だが、これは、一般市民の生活の場が戦場になるという意味だ。その意味で、琉球人が戦争について抱く想いは、軍人の戦いである硫黄島とも、本土の空襲での被災ともまた違ったもので、沖縄独特の悲しみの記憶だ。
ひめゆり部隊は有名だが、ぜひ訪ねて欲しいのは首里城の近くにある一中健児之塔(形は碑)と、その付属の養秀会館だ。14歳から17歳のまだ幼い子供たちが兵士として戦い、死んでいった鉄血勤皇隊の記念展示館だ。彼らは天皇陛下のために立派に戦うことで、日本人として認められる、そういう想いで戦い、死んでいった。
―― 養秀会館には当時の英語の教科書が展示されているが、その表紙は剥がされていた。戦時中、英語の本を持っていると「敵のスパイ」と疑われたからだという。ヤマトの人間は戦時中でも琉球人を同胞として信頼していなかった。
大城 沖縄で自決した大田海軍中将は、ヤマトから琉球への差別、そして琉球人が懸命に誇りを持って戦い、日本人になろうとしていたことをよく理解していたのではないか。太田中将の最後の電文、「沖縄県民斯ク戦へリ後世格別ノ御配慮ヲ」というものは、そうした琉球人の想いを本土の人間は汲みとってほしいというメッセージではないかと思う。
一方、琉球側には、日本人になろうという意志と同時に、捨石にされた、という想いもあった。大本営が地図を睨みながら、本土決戦を避けるため、なんとしても沖縄で敵軍をくい止める、そういう作戦を立てたのだが、そこには同じ日本人が住む場を戦場にすることへのためらいもなかった。琉球人が「捨てられた」と思うのも無理はないだろう。
だが、真の意味で琉球がヤマトへの信頼を失ったのは、1951年のサンフランシスコ平和条約だ。
終戦から日午までのアメリカ占領下の沖縄を、私は擬似独立国と呼んでいるが、51年の平和条約まで、アメリ力でも日本でもない状態で、将来の可能性は三つひらけていた。第一は日本に復帰すること、第二はアメリカの信託統治下に入ること、第三は沖縄独立だ。
琉球人として最善なのは独立なのだろうが、琉球処分以来の近代70年あまりの間に、琉球は独立国家としての理念も、国家運営のノウハウも失ってしまっていた。理念として独立は美しいが、もはや現実的には不可能だった。
すると、アメリカか、日本かという選択になるが、文化的歴史的にもアメリ力よりも日本のほうに馴染みがある。それに、琉球人は一人前の日本人たらんとして、文字通り血を流してきたのだ。
ところが、ここでひどい裏切りがなされた。1951年のサンフランシスコ平和条約において、日本は沖縄をアメリ力ヘ差し出し、捨石にし、生贄にして、自分 たちだけが独立を勝ちとった。戦争において本土決戦の堤防として犠牲にされ、そして今度は日本独立の捨石にされた。琉球は二重の犠牲を強いられた。
―― その後、沖縄では本土復帰運動が起こる。
大城 本土復帰運動の中心には学校教員という知識層がいた。この当時の教員たちは戦前の沖縄県師範学校出身者たちで、彼らは自分たちの習熟したシステムが維持されることを望んだのだ。つまり日本が欲しかったというよりも文部省という自分たちが仕事しやすい指導機関を求めての運動だと言える。だから私は当時、この 教員運動に対して「学童を政治に使うな」と批判した。運動には、本土復帰がそもそも良いことなのか、という問いかけはなかった。
もちろん、教員でなくとも本土復帰を望んだ運動はあったが、それはアメリカ占領下における治外法権状態が、本土に復帰すれば解消されるという一縷の望みを かけてのものだった。アメリ力占領下の1955年に「由美子ちゃん事件」という、六歳の女児が米兵に暴行され殺される事件が起きた。そしてこの犯人の裁判 は結局、うやむやのうちに終わらせられてしまった。
日本には憲法があり、そこには基本的人権が保障されている。琉球人もこの基本的人権を望み、だからこそ本土復帰を望んだ。もちろん本土に復帰すれば良い事 だけではないかもしれない、しかし、治外法権という最低限の人権さえ保障されていない状態よりはましだろうということだ。
だが1972年に本土に復帰してみると、当時の佐藤栄作首相によって三度目の裏切りがなされた。本土の安全保障のための米軍基地を沖縄に押し付けてしまったのだ。そして肝心要の治外法権については、日米地位協定という形で、相変わらずアメリ力兵は治外法権のままになっている。
沖縄には基地だけが残された。その後ヤマトは冷戦下、安全保障をアメリ力に、すなわち沖縄の基地に委ねて、自分たちは高度経済成長を謳歌して、バブルを迎え、それが弾けると今度は不況問題に気を取られて、その間、沖縄は顧みられることがなかった。米兵は相変わらず犯罪事件を起こし、普天間でヘリコプターが 墜落しても、まるで国外のことのように対応してきた。沖縄は忘却されていた。(以下略)
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