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「正義」を失った検察の今後
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2012年7月15日 郷原信郎が斬る
大阪地検の郵便不正事件をめぐる不祥事以降、相次いで表面化する検察不祥事、事件で失墜していた検察に対する社会の信頼は、6月27日に出された陸山会事件の捜査をめぐる問題についての処分の公表、最高検の調査報告書によって、完全に地に落ちた。
東京地検特捜部という、「検察の正義」の中核となってきた捜査機関で起きた「身内の犯罪」に対して、あらゆる「こじつけ」「詭弁」を弄して守り抜こうとする姿勢には、これまで、手掛けてきた組織犯罪事件で、検察が断罪に使ってきた「反省していない」「社会的責任を果たしていない」「酌量の余地はない」など言葉がすべて当てはまると言わざるを得ない。
最高検報告書の内容に対する批判は、既に、7月2日に出した本ブログの記事【「社会的孤立」を深める検察〜最高検報告書は完全に破綻している】で詳細に述べたが、検察も、報告書の内容が到底批判に堪え得るものではないことを自覚しているからか、報告書の一般人への提供を拒絶しているようだ。最高検報告書は、記者会見に出席した記者達に配っただけで、「一般公表」はしていない、ということだ(ネット上では、法務省から説明を受けた国会議員のブログ等で最高検報告書が私的に「公開」されているが⇒http://bit.ly/Ork199、それは、検察が正式に「公表」したものではない)。
今どき、組織の不祥事に関する調査結果の出し方として、「記者会見で配布しました。内容については新聞記事を見てください」ということで、済ますことなどできないのは、あまりに明白な常識であろう。ましてや、社会からの信頼が命と言える検察が、身内の不祥事に関する社会に対する説明として出した報告書に対する取扱いとしては、全くあり得ないものである。
私のブログのタイトルで使った「社会的孤立」という言葉が、残念ながら、検察にとって、早くも現実のものになっていると言えよう。
大阪地検をめぐる不祥事以降、「検察の信頼回復」という言葉は、数限りなく耳にしてきたので、多くの国民にとって、今回の問題への検察の対応で、「検察への信頼の失墜」と言われても、特に目新しいことには思えないかもしれない。
しかし、今回の問題に対する処分と報告書がもたらす検察への信頼の失墜は、これまでの不祥事に関するものとは質的に異なったものである。それは、我々の日本社会にとって、あまりに深刻である。
長い日本の刑事司法の歴史の中で、国民は検察に何を求めてきたのか。それは、「犯罪者、犯罪組織、そして犯罪そのものに対する厳正な対応」である。検察が起訴した事件の有罪率が99%を超えるという、裁判所の検察に対する絶大な信頼の背景にも、検察の社会からの揺るぎない信頼があった。それは、日本社会でこれまで治安が基本的に良好に維持されてきたことと決して無縁ではない。
「詭弁」「こじつけ」、健全な常識からは到底理解できない「屁理屈」が並べて、「身内の犯罪」を守ろうとした最高検報告書を出すことで、検察は、その命とも言うべき「厳正」という言葉を自ら投げ捨て、それとともに、長い歴史と伝統の中で守り続けてきた「正義」を失ってしまったのである。
もう一つ、忘れてはならない重要な事実は、そうまでして検察が守ろうとした「身内の犯罪」というのが、「組織の決定を覆そうとした反逆行為」であった疑いが濃厚だったということである。
4 月26日に言い渡された小沢一郎氏に対する東京地裁の一審判決が「「事実に反する捜査報告書の作成や検察審査会への送付によって検察審査会の判断を誤らせることは決して許されない」と述べているように、今回の問題というのは、虚偽の捜査報告書によって検察審査会の判断を誤らせようとした行為であり、検察が組織として行った「不起訴」という決定を、検察審査会という外部の機関の力を使って覆し、「公訴権」という「社会的な武器」を私物化しようとした疑いがある、というところが問題の核心である。
検察という、社会が捜査権限と公訴権という強大な武器を与えている検察内部で、組織内の一部の反乱分子が、虚偽の捜査文書を作成するという不当な捜査権限の行使まで行って、組織の決定を覆そうとする「組織に対する反逆行為」が疑われた。
それは、まさに「組織の統制」自体が働かなかったという問題なのであり、そのような疑いに対して、徹底した真相究明が行われ、解明した事実に基づいて「組織の統制」を回復する措置が講じられるのが、組織の健全性を取り戻す唯一の道なのである。しかし、最高検報告書で示された、今回の検察の対応は、組織の統制を取り戻す措置とは全く言えないものだった。
こうして「正義」を失ってしまった検察の今後は、想像したくないものである。
検察は、日々発生する刑法犯、覚せい剤などの犯罪に対して、警察を中心とする捜査活動の結果得られた証拠の評価と事実認定を行うだけではなく、それは、社会に対して、政治、行政に対して大きな影響を生じる犯罪の摘発という重要な判断を行ってきた。そして、国民は、政治家による犯罪、経済犯罪などに対して、検察が主導性を持って適切な判断を行うことを期待してきた。
そうした事件で捜査の対象となるのは社会的な地位、権力を持つ人間である。彼らに対して検察が捜査の刃を向けたとしても、今回の最高検報告書で身内の犯罪に対する姿勢で「厳正さ」を捨ててしまった検察に対して、理解納得も協力も得られるわけがない。
唯一行い得るのは、相手方の意向や立場を無視し強権を発動するというやり方である。それがいかに恐ろしい事態を招くのかは、想像に難くない。
この点に関して、もう一つ極めて重要なことは、統制機能を失った組織には、少なくとも「政界捜査」は絶対に委ねられないということである。
重大な政治的影響が生じる政界捜査については、慎重の上にも慎重な判断が求められる。証拠による事実認定と法律適用等について、検察が組織全体として適正に判断することが大前提である。今回、陸山会事件捜査に関して問題となったのは、その検察組織の決定を覆そうとする「組織に対する反逆行為」である。そのような行為に関する真相が全く明らかにされず、そのような反逆行為に対する責任も問われず、「身内に大甘」の処分で済まされたということになると、今後も、このような「反逆行為」が行われる危険を防止することはできない。それが、組織というものに関する常識である。
政治に重大な影響を及ぼす政界捜査を、そのような「統制不能の組織」に委ねることは到底できない。操舵機が故障した艦船、レーダーが壊れた戦闘機、銃身が捻じ曲がった小銃で戦闘行動を行うようなもので、危険極まりないものである。
これまで、国民の「検察の正義」への期待の核心に、政治腐敗に対する厳正かつ適正な捜査への期待があった。政治がますます迷走し、個人的、党派的利害ばかりが目につく政治家の行動に辟易している国民にとって、政治家の腐敗に対する検察の適正な権限行使への期待は、決して小さくはないはずだ。しかし、今回の最高検の調査・処分では全く何も手をつけられず、無傷のまま生き残っている特捜部には、その期待には応えることは絶対にできない。そうなると、大きなコストをかけて特捜部を存続させておく意味がどこにあるのか。
「正義」を失った検察の今後に、いったい何が期待できるのであろうか。
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