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この半年ほど、文楽協会と橋下徹大阪市長の間のやりとりをなんとなく観察していたのだが、事態は、どうやら、最終局面に到達しつつある。
違法ダウンロード刑罰化法案について、私が当欄に原稿を書いたのは、手遅れになってしまった後のことだった。この点について、私は、ちょっと後悔している。もう少し早い段階で、何かできることがあったのではなかろうか、と、そう思うと残念でならない。
なので、文楽については、状況が流動的なうちに、思うところを文章にしておきたい。
役に立つかどうかは分からないが、コラムの連載枠を与えられている人間は、せめて、人々に考える機会を提供するべく、できる限りの努力を払わねばならないはずだからだ。
橋下市長は、補助金をカットする決意をすでに固めているように見える。
報道によれば、文楽協会とその技芸員が、市長への非公開の面会を求める方針を固めたことについて、橋下市長は、以下のように反応している。
《これを受け、橋下市長は「公開か非公開かは市民を代表する僕が決める。文楽の特権意識の表れだ。私学助成費のカットのときは高校生だって堂々と公開の場で意見を言っていた。非公開なら補助金は出せない」と述べ、技芸員が公開での面会に応じなければ、補助金を全額カットすることを強調した。》7月10日 産経新聞(リンクはこちら)
記事を見る限り、技芸員は、公開の場で自分たちの主張を市長に向けて訴えることを求められている。つまり、公衆の面前で、ディベートの達人である橋下市長を論破できないと、補助金の存続は難しいわけだ。
きびしいハードルだと思う。
自分自身の話をすれば、私は、言葉を扱う仕事をしている人間だ。その意味からすれば、技芸員の皆さんよりは多少口が達者なはずだ。が、カメラの前で、橋下市長を論破し去る自信があるかと問われれば、そんな自信は、ひとっかけらも無い。
相手は、長らく「論破」ということを職業にしてきた人間だ。のみならず、テレビカメラの前に立つことを半ば習慣化した日常を送っている。とすれば、「公開の場で」という条件は、一見、オープンかつ公正であるように見えるが、実際には、まったく非対称な要求なのである。
「ほら、檻の扉を開けてやるから、ライオンと交渉して肉を分けてもらえよ」
と言われたとして、一介の飼い猫に何ができるというのだろう。
協会は、「話を聞いてくれ」と言っている。市長は「リングに上がれ」と答えている。これは、対話ではない。デキの悪い脚本だ。世話物でも心中物でもない。こういう一方が一方をなぶるだけの筋立ては、とてもではないが、他人様(ひとさま)にお見せする芝居には仕上がらない。
最初に立場をはっきりさせておく。
私自身は文楽の良い観客ではない。というよりも、正直に申し上げるなら、私は、これまでの人生の中で、文楽というものを一度も観たことがない。だから、好き嫌いを言う以前に、まったくの無知蒙昧だ。そういう境地に立っている。
が、無知でありながらも、一応の意見は持っている。私は、大阪市が、これまで通り、文楽に対して補助金を支給することを希望している。
仮に、支給を見直すのだとしても、手順というものがあるはずだ。
いきなり全額をカットするのは、策として乱暴に過ぎる。
コトは何百年も続いてきた技芸の存続にかかわる問題だ。とすれば、それに見合った時間をかけて議論するのがスジだ。そう思えば、年限を限って、短兵急に結論を求める話でもないではないか。
私が、自分では観劇した経験さえ持っていない文楽について、擁護する立場で見解を述べようとしていることについて、疑問を投げかけるムキもあるはずだ。
文楽に特段の愛着を持っているわけでもないオダジマが、文楽協会の側に立つのは、何か癒着があるからではないのか、とか。あるいは、要するにオダジマは、橋下市長の施策にはとにかく反対したいだけなのだ、とか。
違います。
私は、文楽協会とは何のかかわりもない。
利害関係も無い。擁護することで得るはずのものも無い。
橋下市長がきらいだからという理由で文楽の問題にケチをつけているのでもない。
もとより、好き嫌いはある。
が、好き嫌いは、政策への評価とは別だ。そこのところを一緒にしないように、私は、つねづね、自分に言い聞かせている。
事実、私は、橋下市長がやろうとしていることのいくつかについては、共感を抱いてもいる。たとえば、橋下さんが、刺青職員の問題に踏み込んだ点などは、大いに評価している。調査の方法が極端であることや、ものの言い方にケレンが目立つことなど、細かい点を挙げれば、反発を感じる部分はある。が、橋下さんが、刺青の問題にかぎらず、大阪市のタブーに当たる部分に果敢に手を突っ込んでいる点については、大筋において敬意を持って見ている。
けれども、文楽についての、あのやり方には賛成できない。
選挙民が、市政についてのある部分を市長に負託したことは間違いない。
が、市民は、自国の歴史に連なる文化や芸術についての評価を、市長の個人的な好みに委ねたわけではない。
あたりまえの話だ。
市長が芸術に対してできることは、チケットを買うことだけだ。
人の上に立つ人間は、自身の感情的な好悪について、極力クールであらねばならない。
なぜなら、政策(すなわち市民の生命と財産の帰趨)が、投票や議決によってではなく、為政者の好みに沿って動くのだとすれば、それは明らかな恐怖政治だからだ。
別の言い方をするなら、好きなもの対してフェアな距離を保ち、嫌いなものに対して残酷にふるまわないことが、権力者に課された最低限の条件だということになる。
ブッシュ大統領(息子の方、と思って書いたらパパのほうでした。すみません)は、かつて、何かの席で、ブロッコリが嫌いである旨を述べたことで、全米のブロッコリ農家に盛大な抗議を受けたことがある。
私は、大統領と同じく、ブロッコリが苦手なので、その発言には部分的に喝采を送っていたのだが、一連のやり取りの後、ホワイトハウスに乗り付けて、その前庭にトラック一杯のブロッコリをぶちまけたブロッコリ農家の人間の口から、「大統領には個人的な好き嫌いを吐露する権利なんか無いはずだ」という主旨の言葉が吐き出されるのと聞いた時には、なるほど、と思ってちょっと反省した。
誰もが、正直さを評価される場所に立っているわけではない。身に備わっている権力が大きければ大きいほど、政策に持ち込んで良い私情の分量は小さくなる。そう思って振り返ってみるに、天皇家の人々は、何事につけて、何かを攻撃する言葉を決して漏らさない。市長にもぜひ見習ってもらいたい態度だ。
世界には様々な芸術がある。大阪のような古い町には、当然、多様な文化遺産が残されている。
とはいえ、大阪市民のすべてがそれらの文化に愛情を抱いているわけではないし、全員がその真価を理解しているわけでもない。私自身とて同じことだ。私が関わりを持っているのは、世にあまたある文化芸術のうちの、ほんの一部のそのまた断片にすぎない。
逆に言えば、私個人は、世にある膨大な芸術作品のほとんどすべてとまったく無縁なままに、じきにこの世界から消えることになっているわけで、そう思えば、多くの人々にとって、文化や芸術は、そもそも不要なものなのである。
だから、自分が文楽を解さないことについて、私は、不勉強だとは思っても恥であるとは考えていない。大切なのは、この先、自分が文楽と個人的な関係を取り結ぶのであれそうでないのであれ、私がそれを尊重しようと思っていることだ。
つまり、文化や芸術に関わる時に肝要なのは、「自分が理解できないもの」に対して、いかに寛大であることができるかということなのである。なんとなれば、世界にある文化や芸術は、そもそも多くの人間にとって「皆目わからない」ものだからだ。
私だけではない。世界一のスーパーディレッタントであっても、世界中の文化芸術の半分すら味わい尽くすことはできないはずだ。芸術というのは、そういうふうに、「選ばれた少数者に向けて」作られているものだ。
誤解してはいけない。
ここで言う、「少数者」とは、「芸術のわかる高級な少数者」という意味ではない。
「すべての芸術を理解する文化人」と「芸術を解さない下層民」がいるというふうに考えてもらうととても困る。
私が言おうとしているのは、「ある芸術はある一群の人々にしか理解されず、別の芸術は別の少数者にしかわからない」ということだ。わかりにくいかもしれないが、ぜひわかってほしい。どっちにしても、芸術は、「みんなにわかる」ようなものではない。にもかかわらず、一部の人々にとっては「それ無しには生きていけない」ほど貴重なものなのである。
ということはつまり、芸術の大半は、大半の人間にとって、理解不能だということになる。
しかしながら、にもかかわらず、あるいはそうであるからこそいやがうえにも、それらは、尊重されなければならない。自分から見れば意味不明でも、一部の人々にとっては、全人生を傾けるに値する価値を持っている。そこのところを尊重しないのであれば、人類に文化が必要な理由が根底から失われてしまうからだ。
逆の立場に立てば、自分が心から支持している何かを、世間の人は、ほとんどまったく評価していないということでもある。
だから、どんな作品であっても、単純な多数決を取れば、必ず、「必要ない」に投票する人間が多数を占める。そういうものなのだ。
私自身は、オペラもわからないし文楽もわからない、一部の芸術には敵意を抱いていたりさえする。
が、一方において、世間の大半の人間がハナもひっかけない商業音楽を偏愛していたりもする。そうした屈折や偏愛こそが、要するに文化なのである。
とすれば、こうしたものの価値を、売上高や観客動員数だけで決められてはかなわないではないか。
無論、商業音楽や商業演劇の中には、橋下市長が主張するように、競争の中で磨かれるものもある。市場原理で淘汰されることで品質を維持しているタイプのエンターテインメントもある。
が、「文化」「芸術」という枠組みの全体からすれば、市場原理が通用するのは、むしろ例外だ。テレビのような巨大な商業装置に向けて作られた作品を基準に、その他の地付きの芸術を評価されるのは御免だ。このコラムにしても、だ。
なかでもとりわけ、文楽のように何百年の時代をくぐり抜けてきた技芸は、さらに別の枠組みで考えてあげないといけない。
「文楽だけを特別扱いにするのか」
と、橋下さんは言うかもしれない。
その通り。
特別扱いにするのである。
芸術は、商業主義や市場原理の枠組みから外れているだけではない。民主主義や平等主義とも別の原理で動いている。
文楽は、時代の風雪を耐えてきた技芸だ。
だからそれは、現代の人間には、簡単には理解のとどかない演目になってしまっている。
しかしながら、そのにわかにはわかりかねる、得体のしれない言葉の奥深くには、われわれの言語の根にあたる部分が保存されている。これは、とても大切なことだ。
私がなんとなく記憶しているのは、三島由紀夫が、浄瑠璃への偏愛を語る文章の中で、「意味の分からない言葉」から伝わってくる何かについて、彼には珍しく、とても執拗に主張していたことだ。
私には、三島が言っていることの半分ほどしか理解できなかったのだが、彼が、「時代を経た言葉には意味を超えた何かが宿っている」という、神秘思想(しかも、それは「言葉」では伝わらないと言っていたような気がする)を懸命に伝えようとしていたことだけは了解できた。
ともかく、あの、古今の日本語のすべてに精通しているかに見えた三島由紀夫のような達人が、死期を間近にして、幼少期に親しんだ浄瑠璃の神秘を必要としていたことは、銘記されてしかるべきことだと思う。
このような、国民文化の言わば古層に当たるものに、市場主義、オープン志向、グローバル化、競争原理、フェアネス、ビジネスマインド、エンターテインメントみたいなものを当てはめるのは、暴挙である以上に、ナンセンスだ。
古いものを新しいものさしで評価するとどうなるか。
古いものが新しく生まれ変わるわけではない。
単に古いものの価値が毀損されるだけだ。
たとえばの話、大阪城を、あるいは桂離宮でもいいが、現代建築の基準で再評価したら、間違いなく、失格建築ということになる。強度、経済性、スペース効率、居住性、あらゆる点で、まったく基準を満たすことはないはずだ。と、即刻取り壊さなければならないのだろうか。
違う。
古い建物は、古い基準で評価しなければならない。
というよりも、ある程度以上時代のついたものは、古いというだけですでに価値を持っているというふうに考えなければならない。
つまり、特別扱いが必要なのだ。
大阪城を壊して更地にするには、半月もあれば事足りるだろう。
が、同じ場所に同じ大阪城を建てることは二度とできない。
現代建築の粋を結集すれば、もちろん、破壊前の大阪城と似た建物を再現することは不可能ではない。
が、「現代建築の粋を集めて再現した破壊前の大阪城によく似た建造物」は、破壊前の大阪城の半分の価値すら持っていない。なぜなら、それはどんなによくできていても、ニセモノだからだ。
歌って踊れるいかつい男たちのグループは、大阪ドーム満員にすることができる。
でも、10年後に同じ数の客を集められるかどうかはわからない。20年後ということなら、まず無理だろう。
文楽は、もちろん大阪ドームを満員になんかできない。大阪城ホールもあぶない。
が、文楽の客は、20年たっても、そんなに減っていないはずだ。
20年前から比べて、ほとんど減っていないのだし、200年前からずっと、絶えることなく一定数のお客を喜ばせてきたその技芸には、不滅の価値が宿っているからだ。
テレビ・ドラマの世界で、100年後を睨んだ芝居をしている俳優がいるだろうか。
100年前を踏まえた演出を引き継いでいる番組があるだろうか。
文楽はそれをやっている。
とすれば、こういうものに補助金を出さずに何に出すというのだ?
私のコラムには、補助金は要らない。
三百年後も、要らない。
生原稿の残らない21世紀の古文書は、どうせ、電子の藻屑になって、影もカタチも残らないだろうから。 この半年ほど、文楽協会と橋下徹大阪市長の間のやりとりをなんとなく観察していたのだが、事態は、どうやら、最終局面に到達しつつある。
http://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20120712/234415/?rank_n
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