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アメリカの意を迎えることだけに汲々として、宮森小学校の悲劇があった日にわざわざオスプレイ配備を要請する森本大臣って、一体どんな神経の持ち主なんだ!
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http://www.okinawatimes.co.jp/article/2012-06-30_35738/
オスプレイ「絶対反対」 宮森小体験者ら(沖縄タイムス)
2012年6月30日 09時50分
【中部】墜落を繰り返すオスプレイ12機が日本時間の30日、船に積まれ、米本国から日本に向けて出発する。この日は1959年、旧石川市の宮森小学校と周辺地域へ米軍ジェット機が墜落してからちょうど53年になる。体験者や遺族にとって、児童や住民18人が犠牲になった大惨事は、いまだ“過去”になっていない。鎮魂の日に刻まれるオスプレイ配備の第一歩。「宮森のことを何とも思っていないのか」。日米政府の強行策に、体験者と遺族は怒りの声を上げた。(磯野直、石底辰野)
「6月30日にオスプレイを日本に向かわすなんて…。米国は宮森小への墜落など、何も覚えていないんだろうね」。当時3年生だったうるま市の東恩納司さん(61)は、声を落とした。
墜落はミルク給食の時間に起きたが、教室の外にいた。「やんちゃぼうずだった僕は、ほかの4人とミルクコップに水道水を入れ、花壇にかけて遊んでいた」と振り返る。爆発音で煙に巻かれ、ブランコで遊んでいた上間芳武君が遊具ごと吹き飛ばされた。「芳武君が亡くなり、僕以外、外で遊んでいた子はみんな大けがをした。教室にいれば助かったのに」と悔やむ。
普天間飛行場のヘリが住宅地上空をかすめて飛ぶのを見ていると、「恐ろしくて、とても宜野湾には住めない」と思う。「さらにオスプレイなんて…。これ以上、苦しめないでほしい」と声を振り絞った。
同小5年だった佐次田満さん(64)は、墜落現場の光景が忘れられない。黒煙がもくもくと上り、児童が逃げ惑っていた。黒こげになった子どもが運ばれる場面も目撃した。「頭の中が真っ白。とてもショッキングで、頭に鮮明に焼き付いている」と語る。
「子どもを守るのは大人の責任。悲劇を繰り返してはいけない」と願う一方、オスプレイ配備を強行する日米両政府に憤る。「今阻止しないと持ち込まれてからでは難しい。日本政府は沖縄人を日本人と見ていないのではないか。まさに沖縄差別」と語気を強めた。
一人息子の晃さんを亡くした読谷村の新垣ハルさん(85)は「オスプレイなんて嫌い。絶対に受け入れたくない」と声を震わせた。
2年生の晃さんは、体の50%に大やけどを負った。一命をとりとめ、一時は陸上競技の選手として活躍するまで回復した。しかし、後遺症で内臓がむしばまれ、23歳で他界。「体育の先生になりたい」という夢はかなわなかった。
亡くなってから毎朝ずっと、遺影に「みんなを見守ってちょうだいね」と手を合わせているハルさん。「墜落は宮森で終わればいいと思っていたのに、沖国大にも落ちた。さらにオスプレイとは、頭がめちゃくちゃになりそうですよ」と涙ぐんだ。
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