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およそどこの業界、どの分野にも「評論家」という肩書きを持つ人々が存在する。
中には「こんな分野にまで評論家というものがいるのか」と驚かされることすらある。
何のことはない、特に評論家という資格があるわけでもなく、名刺に「○○評論家」と自称で肩書きをつけさえすれば事足りるのであるから、むしろこちらのほうが驚きかも知れない。
しかしながら業界によっては「なるほど!」と思わせる知見を披露される方もいるであろう。 要は客観的にどれだけの納得性を提示できるかということがその人の評論家としての質であり存在感でもある。
最近はテレビでも「政治評論家」と称する人々の顔をよくみかけるようになったが、実に怪しげな存在である。 私が思うのはそもそも政治に関しては評論家なぞ要らないのではないか。 私には彼らが「原発における御用学者」と全く同様に見えてしまうのだ。
それはなぜかといえば「評論家」と呼ぶ以上、精通した知識と多面的な見解を持ち合わせてあくまでも「公平」に語ることを要求される筈であるが、政治に関してはその人の心の持ちようが入ってしまい結局のところ個人的な見解にならざるを得ないからである。
特に注意を要する点は、彼らは決して自らの政治信条を語っているわけでもなく、その時々において大衆の顔色を伺い、大衆受けのする方向で語ることを目論んでいる点にある。
彼らのテレビでの語り口を拝見していると何となくおどおどしていて、発言も「求められれば応える」というような、どちらつかずの素振りで遠慮がちに見えてしまうのはそのせいであろうか。
真の問題は「政治評論家」と称して、あたかも権威や威厳があるかのごとき振舞うことが社会的に許されているというような誤解と錯覚が、わが国メディアによって作られ、存在していることだ。
一例を挙げよう。
2012年7月1日(日)午前7時30分よりフジテレビで放送された「新報道2001」の冒頭部分で政治評論家と称する伊藤惇夫が「小沢新党」に対してのコメントを述べるシーンがある。
先の消費増税法案において反対票を投じた階猛議員の新党参加に対するスタンスを引き合いに出し、伊藤が「新党に対する展望がない」「金がない」「友達が居ない」「40人に満たない」との中傷を映し出していた。伊藤惇夫は本当に政治評論家なのであろうか。
これから番組が始まろうとする、まさに「幕が下りた瞬間」にこのシーンを持ってくるという視聴者に対しての「洗脳」とも言うべく、構成的には「番組はこれを前提にして始まる」と言わんばかりのフジテレビの姑息さが見え見えなのである。
冷静に考えればこの発言は本当に伊藤惇夫の真意かどうか分からない。普通に考えられるのはフジテレビからの報酬と引き換えに「言わされている」のであろう。お互い「持ちつ持たれつ」といったところか。
極論すれば、このように政治評論家とは単に政局の移り変わりを食い物にしている、浅ましくて軽蔑されるべき政治屋の類であって、このような存在を社会も本人も認めてしまってはいけないのである。
シロアリ同様、わが国から「政治評論家」というような存在を根絶し、およそメディアの前では「元・政治家」「元・政治記者」というような、社会的地位と影響をわきまえた立場で発言して欲しいものである。
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