http://www.asyura2.com/12/senkyo132/msg/334.html
Tweet |
権謀術数をめぐらす小沢一郎の「権力抗争史」
http://www.nikkeibp.co.jp/article/column/20120627/314051/?ST=business
2012年06月28日 田原総一朗の政財界「ここだけの話」 :nikkei BPnet
社会保障と税の一体改革関連法案が6月26日に衆院本会議で可決されたが、消費増税関連法案では反対票が96あり、そのうち小沢一郎氏をはじめ民主党の反対票は57だった。50を超えるかどうかという事前予想もあったので、それを上回る数となった。
反対票を投じた46人の小沢氏やグループ議員は近く離党を判断することになりそうだが、はたして何人になるか。40人を超えるという見方がある。
■造反者の処分はどうなる?
それ以上に問題の焦点となるのは、小沢グループが内閣不信任決議案を出すかどうかだ。不信任案は、提出者を含め51人の賛成者があれば連名で提出できる。もし57人で不信任案を提出することになれば、民主党は少数与党となり、自民党が賛成すれば可決される。これをやるとすれば、いつなのか。
一方、民主党は26日の役員会で造反者の処分を野田佳彦首相と輿石東幹事長に一任する方針を決めた。どのような処分内容にするかは今後二人で詰めるが、一体改革関連法案が参院を通過するまでは処分しないのではないか。
そもそも輿石さんは厳しい処分に反対している。それなりの処分をするには輿石さんを幹事長から外さなければできないが、長く民主党の参院議員会長を務めていただけに参院では大きな力を持っている。だから法案が参院を通るまでは処分はないと考えるのが素直だ。処分をめぐる問題も今後のポイントになる。
■寵愛された小沢氏、田中角栄氏に反旗を翻す
今回の消費増税関連法案をめぐってもキーパーソンとなったのは小沢さんだった。現在の日本の政治家の中で、最も傑出した政治力を持つ人物であることは間違いない。腕力があり、権謀術数をめぐらすことに長けている。今回は「小沢一郎の政治史」を振り返ってみたい。
私が小沢一郎という人物に興味を持ったのは、小沢さんが田中派の中に新たな派閥(派中派)をつくったのがきっかけだった。1985年のことである。
27歳で衆議員に当選した小沢さんは田中角栄さんの木曜クラブに属した。角栄さんに最も寵愛され、若いときから抜擢につぐ抜擢で頭角を現していった。
しかし、ロッキード事件で角栄さんが逮捕され、83年に一審で有罪になると、その後85年に竹下登氏を会長とした「創政会」を立ち上げた。それが派中派で、中心人物は小沢さんだった。角栄さんに寵愛された彼が反乱を起こしたのである。
角栄さんが一審有罪となり、この先も田中派からは総理大臣を出せない。それでは他の派閥から出る候補を応援するしかない。将来への展望を開くには派中派をつくるしかない――。これが、小沢さんらが行動を起こした理由である。
■裏切られた田中角栄氏は酒浸りになり倒れる
小沢さんと一緒に派中派をつくったのが梶山静六氏である。梶山さんの祖父は水戸天狗党の志士で自決した人だ。梶山さんもまたサムライだった。
当時闇将軍と呼ばれ自民党を仕切っていた角栄さんに対抗したら完全にひねりつぶされる。派中派をつくろうなどという発想は、ほかの誰にもなかった。小沢さんだけにあったのだ。梶山さんをパートナーにして、裏には金丸信という人物がいた。
創政会のトップに担ぎ上げられたのは竹下さんだったが、小沢さんは竹下さんを買っていたわけではない。このとき年齢、キャリアの面からから竹下さん以上の人材がいなかっただけのことだ。
私は竹下さんに「なぜ創政会をつくったのか」と聞いたことがある。「ああせい、こうせいと言うから、創政会という名前にした」と答えた。こういう洒落はうまかった。
85年2月7日に発足した創政会には49人が集まった。成功である。角栄さんは激怒した。その怒りをコントロールできず、毎日酒浸りになった。20日後の2月27日、角栄さんは脳梗塞で倒れて入院。それ以降、政治活動はできなくなってしまった。
■「茫然自失の1日半の間に小沢氏にやられた」
創政会はのちに経世会となる(1987年)。多いときで議員120人を数える自民党の最大派閥となった。
小沢さんは、このときから現在に至るまで30年以上、政界の主役であり続けている。
小沢さんたちは1993年、宮沢喜一内閣の不信任案に賛成し可決。解散・総選挙で宮沢自民党は第1党を保ったものの、自民党を離党して新生党を結成していた小沢さんが細川連立内閣をつくる。
私はこのとき自民党に残っていた梶山さんに聞いた。「自民党は第1党なのに、なぜ細川連立政権ができたのか」。梶山さんは、「不信任案が可決されて解散し、選挙で過半数を超えられなかった。それで1日半、茫然自失の状態になった。その間に、小沢さんにすべてやられた」と語った。
小沢さんは、あっという間に社会党から公明党、民社党など非自民・非共産のすべての党をまとめてしまったのだ。その腕力は凄まじいばかりだ。
■「新しい政権をつくったら、孜ちゃんを首相にするよ」
細川連立内閣が誕生する前、テレビ番組「サンデープロジェクト」に日本新党の細川護煕氏と新党さきがけの武村正義氏に出演してもらった。二人に「もしも非自民連立政権ができたら、それぞれどこに位置するのか」と聞くと、「我々は政権の中枢から少し距離を置く」と答えた。
翌週、小沢さんと新生党を結成し行動をともにしていた羽田孜氏に同じ番組に出てもらった。その日の読売新聞朝刊に「昨夜、小沢氏が細川氏と会談。細川氏を担ぎ出そうと狙っている」という主旨の記事が載っていた。それを本番中に羽田さんに見せると、何も事情を知らない羽田さんは仰天し、青ざめた。
なぜなら、羽田さんは小沢さんからこう聞いていたからだ。「離党して新しい政権をつくったら、孜ちゃんを首相にするよ」。羽田さんは当然、新政権では自分が首相になるものと思っていたのである。
さらにその翌週、番組に武村さんに出演してもらった。細川新政権の発足後で、武村さんは官房長官に就任していた。
私は尋ねた。「武村さんや細川さんは政権中枢から距離を置くと言っていたのに、細川さんは首相、武村さんは官房長官だ。中枢も中枢。なぜそうなったのか」
■細川「首相」、武村「官房長官」の誕生エピソード
武村さんはこう答えた。「細川さんが小沢さんから『首相になってほしい』と言われたとき、細川さんは『天命が下った』と思ったそうだ。それを聞いて私は細川さんの首相を止めさせるため、小沢さんのところへ抗議に行った。ところが、そこで私は官房長官を要請されてしまった」
ミイラ取りがミイラになるというのか、あるいは冗談のような話というべきか。しかし、小沢さんは人たらしであり、人心を掌握するのが実にうまい。細川連立内閣をつくったのは政治家・小沢一郎である。小沢さんは政権をつくる能力が抜群で、その右に出る者はいない。
細川連立内閣を見ていて、私は小沢さんについて感じたことがある。政権をつくるのは抜群。選挙に勝つのも抜群。だが、政策にはまったく関心がない、ということだ。
細川首相は94年2月3日の午前1時に記者会見を開き、突然、国民福祉税構想を発表した。消費税を廃止して福祉目的の7%の増税を行うという内容だった。
実はこれは当時の大蔵事務次官、斎藤次郎氏が小沢さんと組んで打ち上げた構想だった。「なぜ7%なのか」という質問に、細川さんは「腰だめの数字」(大雑把な見込み)と答えて顰蹙を買ったほど中身がなかった。
私はこのとき、小沢さんという政治家は政策には関心がないのだと改めて感じた。
■「えっ、そんなことはない」
佐川急便問題で自民党に審議拒否された細川連立内閣は行き詰まり、94年4月末に崩壊する。8カ月半ほどの短命政権だった。しかし、その背景には小沢さんの「冷たさ」があると思う。細川さんに佐川急便問題が生じたとき、小沢さんが助けてやれば連立内閣はもっと長く持ったはずだ。
「あなたが助けてやればよかったのに、なぜそうしなかったのか」と私が聞くと、小沢さんは「細川さんがひと言も私に相談に来なかったから」と答えた。小沢さんは浪花節的でないのだ。その後を引き継いだ羽田内閣のときにも同じように感じた。
小沢さんは社会党をつぶしたいと考えていた。94年4月、羽田さんの首相指名直後に社会党を除いた衆院会派が発表され、これに社会党が強く反発し連立政権から離脱してしまった。羽田内閣は少数与党内閣になってしまったのだ。
私は社会党が連立政権から離脱する前に羽田さんに電話を入れ、「社会党が出て行って、あなたは少数派になるよ」と伝えた。すると羽田さんは、「えっ、そんなことはない」と言ったきり。総理大臣なのに何も知らなかったのである。盟友のはずの羽田さんに小沢さんは何も知らせない。心配りがなく、浪花節でないのだ。羽田内閣は64日間で終わり、日本の政治史上3番目の短命内閣となった。
■不幸な政治家、小沢一郎氏
そんな小沢さんもその後苦しい時代が続いたが、自由党の小沢さんが民主党と合併し、再び政治の中心に位置するようになる。自民党内閣がころころ変わり、しかもその古い体質の政治に飽き飽きしていた国民は、2009年夏の総選挙で民主党を選択した。
しかし小沢さんにとって不運だったのは、09年5月に西松建設疑惑で公設秘書の大久保隆規氏が逮捕され、民主党代表を辞任したことだ。8月末の総選挙は事前の世論調査で「民主党が勝つ」という結果が出ていただけに、もしそのまま代表を続けていれば、総選挙に勝利して小沢総理が誕生していたかもしれない。
私は当時、テレビ番組に弁護士の宗像紀夫氏(元名古屋高検検事長)と郷原信郎氏(元東京地検特捜部)を招き、「この逮捕をどう思うか」と聞いた。宗像さんは、「検察はやり過ぎだと思う。しかし、これは入り口に過ぎない」と答えた。検察は小沢さんを収賄で起訴まで持っていくのではないかというのである。
結果的には収賄事件には至らなかったが、その後はメディアを含め世論は「小沢批判」の大合唱となり、検察審査会によって強制起訴され、裁判で無罪となったものの、検事役の弁護士団が控訴して現在も裁判は続いている。
そういう意味では、小沢さんは不幸な政治家である。
■小沢グループは今後どう行動するか
小沢さんには二つの問題がある。
一つは政策に関心がないこと。今回消費増税に反対したが、細川連立政権で3%の消費税を7%の国民福祉税にするという構想を主導したのは小沢さんである。これでは「考えに一貫性がない」「政策に関心がない」と言われても仕方ない。
もう一つは、角栄さんとまったく違い「許容力」が極めて小さいことだ。角栄さんには私も何度か会ったことがあるが、本当に懐の深い人だった。闇将軍などと呼ばれていたが、多くの人が角栄さんを信頼していた。
小沢さんは猜疑心が強く、パートナーが一人もいない。いるのは子分だけだ。
小沢さんとグループ議員はこれからどう行動するのか。離党し、内閣不信任案を出すなどして、野田政権を追い込もうとするかもしれない。だが、本当にそれができるかどうか。今後の見どころである。
田原総一朗(たはら・そういちろう)
1934年滋賀県生まれ。早大文学部卒業後、岩波映画製作所、テレビ東京を経て、フリーランスのジャーナリストとして独立。1987年から「朝まで生テレビ!」、1989年からスタートした「サンデープロジェクト」のキャスターを務める。新しいスタイルのテレビ・ジャーナリズムを作りあげたとして、1998年、ギャラクシー35周年記念賞(城戸賞)を受賞。また、オピニオン誌「オフレコ!」を責任編集。2002年4月に母校・早稲田大学で「大隈塾」を開講。塾頭として未来のリーダーを育てるべく、学生たちの指導にあたっている。著作に『なぜ日本は「大東亜戦争」を戦ったのか』(PHP研究所)、『原子力戦争』(ちくま文庫)、『ドキュメント東京電力』(文春文庫)、『誰もが書かなかった日本の戦争』(ポプラ社)など多数。近著に「大転換 『BOP』ビジネスの新潮流」(潮出版社)がある。
Twitterのアカウント: @namatahara
この記事を読んだ人はこんな記事も読んでいます(表示まで20秒程度時間がかかります。)
▲このページのTOPへ ★阿修羅♪ > 政治・選挙・NHK132掲示板
スパムメールの中から見つけ出すためにメールのタイトルには必ず「阿修羅さんへ」と記述してください。
すべてのページの引用、転載、リンクを許可します。確認メールは不要です。引用元リンクを表示してください。