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平和ボケの産物の大友涼介です。
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「小沢家の悲劇 『妻・和子の手紙』の真相」週刊ポスト2012/07/06号
<書き起こし開始→ (※注)及びリンクはブログ主が勝手に追加しました。
政治家とて人間である。人に知られたくないプライバシーもある。それが政治家としての資質や政治活動の理非曲直に関わるのであれば、国民にはそれを知る権利がある。報道が社会の木鐸として政治家の私生活を取材することは悪ではない。
ただし、政治家のプライバシーが公共の問題たりうるという名分をいいことに、政治謀略や個人攻撃の材料にすることは許されない。そう思う。日本の権力構造に詳しい政治学者のカレル・ヴァン・ウォルフレン氏は、政界、マスコミ界、さらには司法界まで一体となった小沢一郎氏への個人攻撃を「人物破壊」と指摘し、世界の政治史に残る重大な汚点だと厳しく論難した。
消費増税、原発再稼働、さらに政界再編の胎動が重なったこのタイミングで小沢氏に降りかかった夫婦の重大問題は、それだけ見れば報道に値するテーマであるとしても、なぜそれが「今」なのか、「小沢」なのかを考えると、背景に見え隠れする日本のグロテスクな権力の暴走を看過するわけにはいかない。
政治の節々に結節する小沢問題。小沢に何が起きたのか、政治謀略に終止符を打つ真実をここにレポートする。(文中敬称略)
■小沢を苦しめた和子の変調
今から数週間前、小沢和子から1通の書簡が小沢に届けられた。文面を一読した小沢は、
「来るべきものが来た」
と覚悟を決めたに違いない。政治家として、あるいは一個人としても、小沢は親しい者によくこう語る。
「俺は人として、男として、妻と家族を守る事を第一に考える。家族を守り、そして地域社会を守り、その延長線上で国家を守ることが政治の根幹でもある」
その信条からして、書簡は小沢に忸怩たる思いを抱かせるものだった。関係者らの話によれば、和子からの慰謝料の協議を求める内容と思われる。
それはつまり、法的に離婚手続きが取られた事を意味している。
実は小沢は数年ほど前から離婚の問題を妻・和子に委ねていたという。本当に離婚の意思があったかは余人の知るところではない。そうすることで、一時は和子も心の平穏を取り戻したかに見えた時期があり、夫婦の関係は小康を保っていたらしい。
小沢は人知れず苦しんできたと思われる。ある時は、こんな言葉を吐いた。
「すべては俺の不徳だ。妻を守れない。家族を守れない。そんな人間が、何の政治家であるものか。天下国家を語れるものか」
聞く者には苦悶に満ちた自問自答の苛烈な心象風景を思い浮かべさせる。小沢を近くで見てきた者には驚くべき変調と映った。家族、コミュニティ、国家を守ることを同心円の問題と語ってきた小沢にとって、一見、筋の通った話にも聞こえるが、しかしこれまで、どんなに自分や家族がマスコミの集中砲火を浴びても、事実でない誹謗中傷を浴びせられても、天下国家のためには耐え忍ぶしかないとしてきた小沢の態度とは明らかな段差を感じさせた。
小沢の変調は、和子の変調と軌を一にしていた。
家族愛に燃え、政治家・小沢を支える一点に人生を懸けてきた和子との二人三脚は大きく歪み、音を立てて崩れ、その度を深くしていたのである。
何があったのか。その始まりは和子の「もうひとつの家族愛」と無関係ではなかっただろう。小沢との間に生まれた3人の息子と同じように、親同然に愛してきた実弟(福田実・福田組社長)が、二〇〇三年、癌で突然この世を去ったことと符節を合わせている。54歳の若さだった。続くように実父・正も二〇〇九年逝去。和子は激しく動揺した。
最愛の肉親を2人失った寂寥感、心の空洞を小沢にぶつけたとしても、それは責められるべきことではないだろう。多くの女性にとって、親を失う時期は、心身の変調に苦しむ人生の壁と重なる。そこに愛する弟の死が重なり、心のありようや家族の形にも変化が生まれることは、どの家庭にも起こり得る。
小沢と和子の間で、どのような衝突、格闘があったかは、すぐれてプライベートな問題だ。そこに踏み込むことは報道としても意味をなさないが、結果として、数年の時間を掛けて2人の関係は修復できないものになってしまった。
■「別居」と政権奪取の狭間
和子の変調は小沢の地元や支持者の間では早くから知られていた。
それまでの和子は、永田町での活動に集中する小沢の代わりに、文字通り「金帰火来」で毎週のように選挙区に帰って、いわゆる「票田の草刈り」に没頭した。後援会を切り盛りし、有権者の声を聴き、それを小沢に伝えた。小沢も和子も政治的にかけがえのないパートナーと頼り、和子が岩手から戻ってくる日には、いつも利用していた夜10時着の新幹線を東京駅で迎えることが習いとなった。
一方で、これも多くの家族が抱える問題として、小沢の母・みちと和子の微妙な関係も存在した。みちは夫・佐重喜、そして息子・一郎を支えた鉄壁の後援会を築き上げた原動力だった。その自負と小沢への愛が、あるいは和子を嫁として迎える心のハードルになっていたのかもしれない。
やがて、みちが病に倒れてからは、後援会を支える重責は和子の双肩にかかり、和子はその役目を見事に果たしたが、病床のみちは和子を完全に受け入れはしなかった。その献身的な看護を拒否することもあったという。時には医療スタッフの世話さえ善しとしない頑迷さを見せたとされる。
当時、若き自民党幹事長として飛ぶ鳥落とす勢いだった小沢は、妻と母の確執の間で、母の介護という難題も抱えることになった。時には、小沢自ら母の口に食事を運ぶこともあった。
みちは一九九五年に他界した。
それからの和子は、前述のように小沢王国の大黒柱として駆け回ったが、その頃から政界、マスコミ界の絨毯爆弾のような小沢への人物破壊が激しさを増し、和子の使命感や誇りにも影響を与え、心身の屈折を生じさせたようだ。
和子の言動に変化が生じてきたことは、家族だけでなく、後援会でも心配の種になった。日に日に変わっていく姿に周囲の心痛は大きかったに違いない。小沢にも悔恨が沈殿していった。時にはありもしない事を口走り、根も葉もない中傷と知る噂で小沢を激しくなじることもあったという。
自分の内面、ましてや家族の”阿鼻叫喚”の様を語ることなどあり得ない。内なる葛藤を抱えながら小沢は政権奪取にひた走った。それを止めることは誰にもできない。それこそ小沢における政治家の摂理なのだ。夫婦の関係は難しくなるばかりだった。
やがて和子は世田谷区にある小沢低の敷地内に別棟を建て、そこで生活するようになった。それが「別居」と報じられたこともある。
和子は、あんなに心血を注いできた後援会活動にも、実弟が亡くなった10年ほど前から、ぷっつりと姿を見せなくなって家に閉じこもるようになった。これは後援会関係者なら誰もが知る事実だ。「小沢家の問題」を取材するマスコミも、きちんと地元に行けば簡単に確認できるはずである。
その頃でも小沢は、毎夜9時過ぎには自宅に帰る事を決め事にしていた。和子との会話はほとんどできなくなっていたが、それでも、指呼の間にいる和子が昔日のように「パパ!」と声を掛けてくるかもしれない。そんな期待も秘めていたのだろう。
しかし現実の和子は、ますます猜疑心や妄想にとらわれるようになり、最も信頼している次男以外の言葉は受け入れないほどに憔悴を見せるようになった。いきなり秘書に小沢のスケジュールを詳細に報告させ、その立ち寄り先に片っ端から連絡して、「小沢は本当にそこに行ったのか」と詰め寄る異常な行動が周囲を驚かせる”事件”も起きた。
次男と小沢の関係にも暗雲が立ち込めた。
和子の心を救いたいと、実家である福田家の関係者が話し相手になって支えた時期もあったが、そうした努力は誰の目にも不毛で、和子を訪れる人は少なくなっていった。
父と母、父と弟の間に立って辛苦を引き受けてきた長男も、ついに家を出る決心をした。
そして小沢は、求められるままに和子に離婚のフリーハンドを与えた。家族の絆を取り戻すことはますます難しくなった。
■「手紙」に書かれた数々の矛盾
半年ほど前、小沢後援会の婦人部の何人かに、「小澤和子」から手紙が届いた。
すでに『週刊文春』が報じ、その直後に何者かが文面のコピーをネットに広く流出させたものだ。そこには小沢への激しい非難と離婚の事実が綴られていた。(※注1)
※注1 「小沢一郎 妻からの『離縁状』全文公開」(松田賢弥+本誌取材班)週刊文春2012/06/21号 http://amba.to/MIsa9c
手紙が和子の手によるものか真贋はわからない。書かれた内容には、明らかに事実ではないことも多い。
数年間、「別居」していた和子が「小沢邸での政治密談」を暴露してみせたり、小沢家の所有する不動産に関する記述が間違っていたりと、少なくとも正常な判断ができる状態なら書かない内容が多く見られる。かつて一部の新聞、通信社が「スクープ」と報じ、事実は違った「総選挙で小沢が京都から出馬する」という捏造情報をそのまま書いていることも不自然だ。
人物破壊に加担する多くのマスコミは、手紙の内容を確認しないまま事実であるかのように報じているが、それを信じる国民の間で最も批判の強い「大震災の際に放射能を恐れて逃げようとした」というくだりは明らかに常軌を逸している。なぜなら、震災の少し前から和子の変調は激しくなっており、現在まで1年以上も小沢と会話も交わせない状態が続いているからである。放射能から逃げる、逃げないで小沢と揉めたという記述には疑問がある。
そもそも手紙では、放射能から逃げたい小沢が地元には近づこうとせずに「長野の別荘地」に避難場所を購入したというのだが、仮に「別荘地」が軽井沢だとすれば福島第一原発からは約250km、ちょうど岩手県都・盛岡までと同じ距離である。さらに震災後に千葉で釣りに興じたという記述もあるが、これも東京より原発に近く放射線量も多い地域なのだから、事実とすれば小沢の行動はあまりにも支離滅裂である。
付言すれば、現実には震災直後の小沢は地元対応に寝る間もなかったようだ。これもマスコミは知り尽くしているはずだが、地元・岩手は、達増拓也・知事はじめ県政中枢部に小沢派が多い。彼らが震災対応で小沢に刻一刻と報告を入れ、政府への橋渡しや支援を要請していたことは誰でも想像できるはずで、実際、県政関係者はそう本誌に明かしている。しかし、人物破壊勢力は、あえてそうした常識的な判断から目を背け、確認取材もしないまま「和子の手紙」を事実として垂れ流すのである。
また、「離婚した」としながら、旧姓の「福田和子」ではなく「小澤和子」と署名していることも奇異な印象を与えていた。
■究極の狙いは「骨肉戦争」?
ある後援会の関係者は、書かれた内容そのものより、和子の心がそこまで深刻な状態になってしまったのかと衝撃を受けた。また、達筆で知られた和子の直筆にしては、あまりに筆が乱れていること、さらに内容がこれまで小沢への攻撃材料にされた”疑惑”をなぞるように書かれていたことから、「何者かが捏造したものではないか」と疑う関係者も少なくなかった。
ただし、事実として明らかなのは、冒頭に書いたように和子が小沢との離婚を決意し、慰謝料の協議を申し入れたことだ。その点で、手紙には重要な部分で真実が書かれている。
人物破壊を進める勢力にとっては百万の味方を得たようで、欣喜雀躍とする様子を隠そうともしない。
手紙が報じられる2週間ほど前、人物破壊の工作に深く関与してきた政界関係者が、「いよいよ小沢を潰す時がきた。息の根を止めるものすごい情報が近く報道される」と、一部政界関係者に触れ回っていた事を本誌は確認している。そして前述のように、報道の直後から、タイミングを計ったように文面のコピーがネットに流出した。政界でよく見る怪文書による「紙爆弾」の手法である。
手紙の内容にも、この紙爆弾の性格を窺い知るヒントがある。
なぜ、数年来、没交渉だった後援会に宛てられたのか。また、「慰謝料を取れば、それを岩手に寄付したい」と書かれたのか。
ある後援会関係者は、「これは小沢家の悲劇の始まりになるかもしれない」と苦痛の表情を見せた。
「書かれた内容は後援会の人間ならデタラメがほとんどだとわかるものだが、和子さんと、それを支える次男が小沢先生に反旗を翻している事実は変わらない。誰かに唆されて書いたものか、あるいは捏造されたものかにかかわらず、私たちが心配するのは、このアクションが後援会と地元に向けられた点だ。家族の問題で小沢先生の政治生命に打撃を与えようという意図がはっきり出ている。それを望む人たちは、例えば次男や和子さん自身を小沢先生の対抗馬として擁立して泥沼の骨肉戦争をさせるなどして、小沢先生を決定的に痛めつけようとするかもしれない。
そうなっても、たぶん小沢先生は家族と争うことはしたがらないだろう。引退とは言わないかもしれないが、ある意味では検察の捏造した政治資金問題以上に苦しい問題になる」
その懸念が現実になるかはわからないが、離婚が事実である以上、そして政治資金問題がマスコミや権力者による捏造だったと判明した今、家族の問題が人物破壊の主要テーマになっていくことは間違いなさそうである。すでに、新聞、テレビニュース、ワイドショー、果ては国会での野党質問にまで「和子の手紙」は利用され尽くしている。
妻や息子から恨まれる小沢は、本人が言う通り不徳のそしりは免れないかもしれないが、その家族の問題さえ、執拗で容赦のない人物破壊の結果だったという面が否めないことは、まさに悲劇である。
この国の政治と権力のどす黒い醜態は、ウォルフレンが言うまでもなく、世界の日本不信の根本原因になっている。それに振り回される有権者、国民もまた悲劇の当事者である。
←書き起こし終了>
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