04. 2012年6月20日 13:57:12
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済みません!長くて! 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜引用〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜アドルフ・ヒトラー(独: Adolf Hitler, 1889年4月20日 - 1945年4月30日)は、ドイツの政治家。オーストリア出身で1925年まではオーストリア国籍であった[2]。 国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)党首としてアーリア民族を中心に据えた民族主義と反ユダヤ主義を掲げたドイツの独裁者。1923年にミュンヘン一揆で一度投獄されるが出獄後合法的な選挙により勢力を拡大、1933年に首相となり、1934年にヒンデンブルク大統領死去に伴い、国家元首となる。 首相就任後に他政党や党内外の政敵を弾圧し、指導者原理に基づく党と指導者による独裁指導体制を築いたため独裁者の典型とされる[3]。また人種主義的思想(ナチズム)に基づき、血統的に優秀なドイツ民族が世界を支配する運命を持つと主張し、強制的同一化や血統を汚すとされたユダヤ人や障害者迫害などの政策を行った。さらに民族を養うための『生存圏』が必要であるとして、領土回復とさらなる拡張を主張した。それは軍事力による領土拡張政策につながり、1939年のポーランド侵攻によって第二次世界大戦を引き起こした。しかし連合軍の反撃を受け、包囲されたベルリン市の総統地下壕内で自殺したとされる。 目次 [非表示] 1 生涯1.1 生い立ち1.1.1 出自1.1.2 幼少期1.2 青年期の挫折1.2.1 放浪生活 1.2.2 第一世界大戦1.3 政界進出1.3.1 ミュンヘン一揆1.3.2 権力闘争 1.3.3 ナチ党の躍進1.4 独裁政権1.4.1 政治1.4.2 生存圏1.5 第二次世界大戦 1.5.1 独ソ戦1.5.2 大戦後半1.5.3 暗殺未遂事件1.5.4 敗戦1.6 自殺2 略年表 3 思想3.1 反ユダヤ主義3.2 人種主義・対日本人観3.3 ホロコースト3.4 健康政策 4 政治手法4.1 演説4.2 軍の掌握4.3 芸術やメディアの政治利用5 人物像 5.1 体格5.1.1 記録映像5.2 日常生活5.2.1 菜食主義者としてのヒトラー 5.3 健康状態5.4 対人関係5.5 女性関係5.6 愛好家としてのヒトラー 5.6.1 犬5.6.2 乗用車5.6.3 競馬5.6.4 ディズニー6 逸話6.1 生存説6.2 子供 7 創作作品7.1 映画7.2 テレビ番組7.3 舞台7.4 ドキュメンタリー7.5 ゲーム 8 参考文献9 関連書籍10 引用11 外部リンク12 関連項目生涯 [編集] 生い立ち [編集] 出自 [編集] 1889年4月20日、オーストリアとドイツとの国境にある都市ブラウナウで税関吏アロイス・ヒトラーと3番目の妻クララ(旧姓ペルツル、アロイスの義伯父の孫)の子として生まれた。兄弟姉妹に異母兄アロイス2世(私生児、1882年 - 1955年、1896 年に家出)、異母姉アンゲラ(1883年 - 1949年)。同母兄グスタフ(1885年 - 1887年)、同母姉イーダ(1886年 - 1888年)、同母兄オットー(1887年 - 数日後死亡)、同母弟エドムント(1894年 - 1900年)、同母妹パウラ(1896年 - 1960年)がいた。 姓の『ヒトラー』は、1876年にヨハン・ネムポク・ヒードラーがアロイスを認知した際に、シックルグルーバー姓から変更されたものである。ドイツ人では珍しいが[4]、「ヒトラー」、「ヒドラ」、「ヒュードラ」、「ヒドラルチェク」などの姓はチェコ人に見られる。1920年に日本で最初に報道された際には「ヒットレル」と表記され(舞台ドイツ語の発音が基になっている)[5]、その後は「ヒットラー」という表記も多く見られた。 名前の『アドルフ』は「高貴な狼」という意味で、ヒトラーは後に偽名として「ヴォルフ」を名乗った。アドルフという名前は、当時のドイツではそれほど珍しい名前ではなかったが、ヒトラー政権下は人気がある名前となる。しかし、戦後は一転して不名誉な名前となった。ヒトラーと同じオーストリア人俳優のアドルフ・ヴォールブリュックは、1936年にハリウッドに移ってからアントン・ウォルブルックと改名している[6]。 父アロイスは小学校しか出ていない無教養な靴職人であったが、税関上級事務官にまで出世した努力家であった。一方でアロイスはマリア・シュイクルグルーバーという女性の子であるが、マリアは当時未婚(アロイス出産後に農夫ヨハン・ゲオルグen:Johann Georg Hiedlerと結婚)であり父親は誰なのか分からないままという人物でもあった[7][8]。アロイスはゲオルグと母が結婚する前に儲けた婚外子だと他者に語っているが、その根拠は示されていない[9]。この事実はしばしば論じられる「ヒトラー・ユダヤ人説」の由来となった。 ***出自の不明瞭さはヒトラー自身も気にかけていたらしく、義理の甥ウィリアム・パトリック・ヒトラー(de:William Patrick Hitler)から「出自の事を暴露する」と恫喝されている上、自らも顧問弁護士でもあったハンス・フランクに家系調査を行わせていた事が戦後に明らかとなった。フランクは処刑前に調査結果を記しており、「マリアが奉公に出ていたグラーツのユダヤ人資産家の子息レオポルド・フランケンベルガーに手篭めにされて生まれた子供である」ことを発見、その証拠を入手したと述べている[10]。しかし証拠となる資料は今日に至るまで発見されておらず、またフランクは「ヒトラーは由緒正しいアーリア系である」と矛盾する証言もしている[11]。 それでもフランクの「レオポルド・フランケンベルガー実父説」は1950年代まで広く信じられていたが、次第に史学上の根拠に欠けると指摘されるようになった[12][13]。1998年、歴史学者でヒトラー研究の第一人者であるイアン・カーショーはアロイス出生時のグラーツでユダヤ系住民が既に追放されていたことから、「政治的な攻撃材料以外のものではない」と結論している[14]。 ヒトラーの祖先にはアフリカ系とユダヤ系の人間が居るという調査結果が有る[15]。 幼少期 [編集] 幼少期の写真 ヒトラーが3歳の時に一家は別の家に引っ越して、パッサウ市へ転居している[16]。バイエルン・オーストリア語圏の内、オーストリア方言からバイエルン方言の領域へ移住した事になり、彼の用いるドイツ語の訛りはバイエルン人としての影響である[17]。1894年に再びオーストリア領内に転居してリンツ市に移住、1895年6月には父アロイスがランバッハ市の郊外に農地を買って農業を始めている。ヒトラーは初等教育を学びつつ、西部劇の真似事に興じるようになった。またこの時に父が所有していた普仏戦争の本を読み、戦争に対する興味を抱くようになった[18]。 父親の農業は失敗に終わり、1897年に一家は郊外の農地を手放してランバッハ市内に定住している。ヒトラーはベネティクト修道会系の初等学校に転校、聖堂の彫刻には後にナチスの党章として採用するスワスチカが使われていた[19]。8歳のヒトラーは聖歌隊に所属するなどキリスト教に深く傾倒して、聖職者になる将来を空想していたという[20]。1898年、修道学校での生活は父がもう一度リンツに移住した事で終わりを迎えた。2年後の1900年に弟エドムントが亡くなる不幸もあり、次第にヒトラーは真面目で聞き分けのよい子供から、父や教師に口答えする反抗的な性格へと変わっていった[21]。 母クララとの関係は良好なままだったが、父アロイスとの関係は不仲になる一方だった。アロイスの側も隠居生活で自宅にいる時間が増えた事に加え、農業事業に失敗した苛立ちから度々ヒトラーに鞭を使った折檻をした[22]。アロイスは無学な自分が税関事務官になった事を一番の誇りにしており、息子も税関事務官にするという野心を抱いていたが、これも益々ヒトラーとの関係を悪化させた[23]。中等教育(高校相当)を学ぶ年頃になると、古典教育が学べる学校に進みたいと主張したヒトラーをアロイスは無視して工業学校への入学を強制した。自伝である「我が闘争」によれば、ヒトラーは工業学校での授業を露骨にサボタージュして父に抵抗したが、成績が悪くなっても決してアロイスはヒトラーの言い分を認めなかった。 恐らくヒトラーが最初にドイツ民族主義(大ドイツ主義)に傾倒したのはこの頃からであると考えられている。何故なら父アロイスは生粋のハプスブルク君主国の支持者であり、その崩壊を意味する大ドイツ主義を毛嫌いしていたからである。周囲の人間も殆どが父と同じ価値観であったが、ヒトラーは父への反抗も兼ねて統一ドイツへの合流を持論にしていた。ヒトラーは学友に大ドイツ主義を宣伝してグループを作り、仲間内で「ハイル」の挨拶を用いたり、ハプスブルク君主国の国歌ではなく「世界に冠たるドイツ帝国」を謡うように呼びかけている[24]。 1903年1月3日、父アロイスが病没する。しかし憎む対象を失った後もヒトラーの行動は収まらず、むしろエスカレートするばかりの行動に耐えかねた工業学校は遂に退校処分を決定した。 青年期の挫折 [編集] 放浪生活 [編集] 1904年、ヒトラーはシュタイアー市の中等学校(リアルシューレ)に再入学するように家族から勧められたが、やはり望まない学業に対する不真面目な態度を変えなかった。2年次への進級祝いと称して学友と酒場に繰り出し、酔った勢いに任せて在学証明証を引き裂くなどの乱行を行い、教師達から大目玉を食らっている[25]。結局、1905年には病気療養を理由に二度目の学校も退校している[26]。 1905年、漸く正規の教育課程から解放されたヒトラーは父の遺産と年金から仕送りを得る約束を母親から貰い、芸術の都であるウィーンへ移住して美術を学ぶ事を決めた[27]。以降、ウィーン美術アカデミーを二年間に亘って受験した記録が残っている。当時のウィーン美術アカデミーは職業教育学校として中等教育修了を必要とせず、工業学校や実業学校を途中で放棄したヒトラーでも受験が可能であったが、肝心の試験結果は不合格であった[28]。 同年の合格者にはヒトラーより一歳年下で、前衛絵画を制作したエゴン・シーレなどがいるが、ヒトラーは入校を許可されなかった。一度目の試験記録には「アドルフ・ヒトラー、実業学校中退、ブラウナウ出身、ドイツ系住民、役人の息子。頭部デッサン未提出など課題に不足あり、成績は不十分」と記述されている[29]。二度目以降の試験では予備試験にすら受からず、むしろ合格は遠ざかっていたという。経済的にも遣り繰りに工夫が要るようになり、1908年からアウグスト・クビツェクと同居生活を始めている。 画風については丹念な描写に情熱を注ぐものの独創性に乏しく、後に絵葉書売りで生計を立てた時も既存作品の模写が多かったという[30]。本人はこうした自らの傾向を「古典派嗜好」ゆえの事と自負していた節があり、世紀末芸術など新しい芸術運動に嫌悪感すら抱いていた。従って前述のエゴン・シーレらが自分と違いアカデミーに迎えられた事について憤りを抱き、後に独裁者となると徹底的に彼らやアカデミーを弾圧下に置いている(頽廃芸術)。 またアカデミー受験に失敗した時に、人物デッサンを嫌う傾向から「画家は諦めて建築家を目指してはどうか」と助言されたエピソードは有名である。ウィーンでの美術館巡りでは建物自体の観賞を好んだと書き残すなど、ヒトラーは実際には建築物を好んでいてこの助言に大いに乗り気になったが、程なく彼は建築家を目指すのは画家より更に非現実的な望みである事を知ったと書き残している。 “ …画家から建築家へ望みを変えてから、程なく私にとってそれが困難である事に気が付いた。私が腹いせで退学した実業学校は卒業すべき所だった。建築アカデミーへ進むにはまず建築学校で学ばねばならなかったし、そもそも建築アカデミーは中等教育を終えていなければ入校できなかった。どれも持たなかった私の芸術的な野心は、脆くも潰えてしまったのだ… ” 1908年9月、クビツェクの前からヒトラーは突然姿を消した。これは入試に失敗した事を知られたくなかったためと、徴兵忌避のためと見られている[31]。その後、ヒトラーはたびたび住居を変え、1909年11月末頃には浮浪者収容所に入り、公営の独身者寄宿舎に移り住み、1913年5月13日までここで暮らす事になる。ヒトラーは恩給や自作の絵葉書・絵画の収入もあり、ある程度は安定した生活を送っていた[32]。1911年には義姉アンゲラから孤児恩給を妹パウラに譲るよう訴訟を起こされて孤児恩給を放棄したが、同年に叔母ヨハンナが死亡して2000クローネにおよぶ遺産を相続したと推定されている[33]。 このころヒトラーは食費を切り詰めてでも歌劇場に通うほどリヒャルト・ワーグナーに心酔していたとされる。また暇な時に図書館から多くの本を借りて、歴史・科学などに関して豊富な、しかし偏った知識を得ていった。その中にはアルテュール・ド・ゴビノーやヒューストン・チェンバレンらが提起した人種理論や反ユダヤ主義なども含まれていた。またキリスト教社会党を指導していたカール・ルエガー(後にウィーン市長)や汎ゲルマン主義に基づく民族主義政治運動を率いていたゲオルク・フォン・シェーネラー(de)などにも影響を受け、彼らが往々に唱えていた民族主義・社会思想・反ユダヤ主義も後のヒトラーの政治思想に影響を与えたと言われる。この時代にヒトラーの思想が固まっていったと思われているが、仮にそうだとしても、ヒトラーは少なくとも青年時代には政治思想に熱意を注いではいなかった。ヒトラーの絵や葉書を買い付けるユダヤ系の画商との夕食会に参加するなど、彼らと親睦も結んでいた[34]。また逆にウィーン移住前からの知り合いであるクビツェクは「リンツに居た頃から反ユダヤ主義者だった」と述べている[35]。 1913年、オーストリア=ハンガリー帝国の兵役を逃れるためミュンヘンに移住し、仕立て屋職人ポップの元で下宿生活を送った。この頃ヒトラーは平均100マルクの月収を得ていた。1914年1月18日にはオーストリア当局に逮捕されて本国に送還されたが、検査で不適格と判定されたため兵役を免除された。同年に勃発した第一次世界大戦では大ドイツ主義から一転して軍に志願したが、ドイツ帝国の兵隊として戦う事を希望した。ヒトラーはドイツ帝国の構成国の一つであるバイエルン王国に請願し、バイエルン王国第16予備歩兵連隊に入営を許された。 第一世界大戦 [編集] 詳細は「ヒトラーの軍歴」を参照
従軍時のヒトラーと所属部隊の隊員達 ヒトラーはバイエルン第16予備歩兵連隊の伝令兵(各部隊との連絡役)として配属された。連隊は主に西部戦線の北仏・ベルギーなどに従軍してソンムやパッシェンデールなど幾つかの会戦に加わっている[36]。 終戦までにヒトラーは伝令兵としての活躍を評価されて二回受勲されている(1914年に二級鉄十字章、1918年に一級鉄十字章)。だが階級はゲフライター(伍長[37]、Gefreiter)留まりであり、二度も勲章を授与されている割には低い階級のままで終戦を迎えている[38]。理由については諸説あるが[39]、最も信憑性があると見られているのは「指導力が欠けており、配下を持つ事になる伍長以上の階級には相応しくない」と司令部が判断したという説で、直属の上官フリッツ・ヴィーデマン中尉が証言している[40]。 徴兵時の証明写真 また近年の研究ではそもそもヒトラーの受勲は重要な功績を果たしたという意味をそれほど持たなかったのではないかとする意見も出ている。記録によれば同連隊の伝令任務には後方での連絡役と塹壕間の連絡の二つがあり、ヒトラーは比較的に安全である前者を担当した回数が多いと見られている。そして「危険な任務」と認識されている伝令兵に対する受勲はどちらの任務が主であっても可能性が高く、むしろ後方任務の方が高級将校との交流から可能性が高いとすら考えられている[41]。代表的なヒトラー伝記の作家であるイアン・カーショーはこの説に一定の支持を与えている。 1916年、ソンムの戦いでヒトラーは脚の付け根(鼠径部)に怪我を負って入院している(左大腿であったとする論者もいる)[42]。後方勤務との割合の程はともかく、前線への勤務経験もあったようである。またこの負傷でヒトラーが生殖機能に障害を負ったとする俗説があるが、真実の程は定かでない[43]。負傷そのものは会戦後に戦傷章を受勲した記録が残っている。 ヒトラーは大戦以前から熱心な大ドイツ主義者であり、また大戦でドイツ軍(正確にはバイエルン軍)の一員として戦った事で益々ドイツへの愛国主義は高まっていった(しかしドイツ市民権は1932年まで取得していない)。ヒトラーは戦争を人生で重要な経験であると捉え、周囲からも勇敢な兵士であったと労いを受けることができた[44]。 大戦末期の1918年10月15日、ヒトラーは敵軍のマスタードガスによる化学兵器攻撃に巻き込まれて視力を一時的に失い、野戦病院に搬送されている。一時失明の原因についてはガスによる障害という説以外に、精神的動揺(一種のヒステリー)によるものとする説がある[45]。ヒトラーは治療を受ける中で自分の使命が「ドイツを救うこと」にあると確信したと話しており[46]、ユダヤ人の根絶という発想も具体的手段は別として決意されたと思われている。1918年11月、ヒトラーは第一次世界大戦がドイツの降伏で終結した時に激しい動揺を見せた兵士の一人であった[47]。 ヒトラーは民族主義者や国粋主義者の間で流行した「敗北主義者や反乱者による後方での策動で前線での勝利が阻害された」とする背後からの一突き論を強く信じるようになった。 政界進出 [編集] 詳細は「ヒトラーの政治的経歴」を参照 政治家への転身を考えた後も軍に在籍を続ける道を選び、陸軍病院から退院すると部隊の根拠地であるバイエルン州へと戻った。同地ではバイエルン革命によってバイエルン・ソビエト共和国が成立しており、ヒトラーは同年に暗殺されたクルト・アイスナー共和国首相の国葬パレードに参加した[48]。オイゲン・レヴィーネ政権下のバイエルン・ソビエト共和国で大隊の評議員に立候補しており、19票を獲得して当選している[49][50][51]。それから暫くしてバイエルン・ソビエトがバイエルン民族主義の支持を受けてドイツ共和国(ヴァイマル政権)から独立すると、穏当な対応を続けてきたヴァイマル政府も遂に鎮圧に乗り出し、ヒトラーは告発委員会に加わった[52]。 ヴァイマル共和国軍の進軍に合わせて右翼の退役軍人による蜂起(フライコール)が起きる中、ヒトラーは共和国軍の情報将校であったカール・マイヤーにスパイとしてスカウトされる。ヒトラーはこの時に初めて大学でゴットフリート・フェーダーなどの知識人の専門的な講義を聴く機会を持ち、潜入調査に必要な教養を与えられた[53]。 1919年7月、ヒトラーは正式に共和国軍の情報提供者(Verbindungsmann)の名簿に軍属情報員(Aufklärungskommando)として登録され、諜報組織の末端となった。彼に割り当てられた任務は革命政権を支持する兵士達への政治宣伝と、その一方で台頭しつつあったドイツ労働者党(DAP)の調査であった。ところがヒトラーはドイツ労働者党で党首アントン・ドレクスラーの反ユダヤ主義、反資本主義の演説に感銘を受けて逆に取り込まれてしまう。ドレスクスラーの側もヒトラーを気に入り、1919年9月12日に55人目の党員に加えた[54][55]。ドレクスラーは革命の失敗は資本主義を牛耳るユダヤ教徒出身の革命家による陰謀であり、ユダヤ教徒の排斥なしに社会主義革命はありえないという極左的な民族主義を抱いていた。ドイツ労働者党で出会った人物にオカルト的な秘密結社トゥーレ協会に所属する思想家ディートリヒ・エッカートがいる[56]。 ドイツ労働者党におけるアドルフ・ヒトラーの党員証 ヒトラーが軍や諜報機関を離れた時期は定かではないが、何時しか政治活動自体にのめり込んでドイツ労働者党の専従職員になったのは間違いないと見られている。彼は周辺国や国内の政治団体への過激な演説で名前を知られるようになり、ドイツ労働者党でも有力な政治家と目されていった。「Du(お前)」と呼び合う関係であったエルンスト・レーム元陸軍大尉やエッカート、ルドルフ・へスらはヒトラー派を形成し、党内を次第に制圧するようになった。1920年2月24日、党内協議により党名を「ドイツ国家社会主義労働者党」(NSDAP、蔑称ナチス)へと改名する。1921年7月29日、労働者党内で分派闘争が起きると一時的にドレクスラーによって党内から追放されるが、党執行部のクーデターによりドレスクラーは名誉議長として実権を奪われ、代わりにヒトラーが第一議長に指名された。この頃からヒトラーは支持者から「Führer」(指導者)と呼ばれるようになり、次第に党内に定着した[57]。 突撃隊の活動などでミュンヘン政界でも知られる存在となったヒトラーは、エッカート、エルンスト・ハンフシュテングル、マックス・エルヴィン・フォン・ショイブナー=リヒターらの紹介で、ミュンヘンの社交界でも知られるようになった。ピアノメーカーベヒシュタインのオーナー未亡人であったヘレーネ・ベヒシュタインなどの上流階級婦人が熱心な後援者となり、生活の援助をしたほか、ヒトラーに紳士の立ち振る舞いを身につけさせた[58]。 ミュンヘン一揆 [編集] 詳細は「ミュンヘン一揆」を参照
ランツベルク要塞刑務所収容時のヒトラー(1924年) 党勢を拡大したナチス党を含んだ右派政党の団体であるドイツ闘争連盟はイタリアのファシスト党が行ったローマ進軍を真似てベルリン進軍を望むようになった。バイエルン州で独裁権を握っていたバイエルン総督グスタフ・フォン・カールも同様にベルリン進軍を望んでおり(バイエルンは伝統的に反ベルリン気質があり、独立意識が強かった)、ドイツ闘争連盟と接触を図っていたが、カール総督は中央政府の圧力を受けてやがてベルリン進軍の動きを鈍くした。 不満を感じたヒトラーはカール総督にベルリン進軍を決意させるため、1923年11月8日夜にドイツ闘争連盟を率いてカールが演説中のビアホール「ビュルガーブロイケラー」を占拠し、カールの身柄を押さえた。ヒトラーから連絡を受けた前大戦の英雄エーリヒ・ルーデンドルフ将軍も駆け付け、ルーデンドルフの説得を受けてカールも一度は一揆への協力を表明した。しかしヒトラーが「ビュルガーブロイケラー」を空けた隙にカールらはルーデンドルフを言いくるめて脱出し、一揆の鎮圧を命じた。 11月9日朝にヒトラーとルーデンドルフはドイツ闘争連盟を率いてミュンヘン中心部へ向けて行進を開始した。ヒトラーもルーデンドルフも一次大戦の英雄であるルーデンドルフに対して軍も警察も発砲はしまいという過信があった。しかしバイエルン州警察は構わず発砲し、一揆は総崩れとなった。ヒトラーは逃亡を図り、党員エルンスト・ハンフシュテングルの別荘に潜伏したが、11月11日には逮捕された。逮捕直前にヒトラーは自殺を試み、ハンフシュテングルの妻ヘレーネによって制止された[59]。収監後、しばらくは虚脱状態となり、絶食した。失意のヒトラーをヘレーネやドレクスラーら複数の人物が激励したとしている[60]。 逮捕後の裁判はヒトラーの独壇場であり、弁解を行わず一揆の全責任を引き受け自らの主張を述べる戦術を取り、ルーデンドルフと並ぶ大物と見られるようになった[61]。花束を持った女性支持者が連日留置場に押しかけ、ヒトラーの使った浴槽で入浴させてくれと言う者も現れた[62]。 1924年4月1日、ヒトラーは要塞禁錮5年の判決を受けランツベルク要塞刑務所に収容されるが、所内では特別待遇を受けた。この間、ヒトラーは禁止されていた党をアルフレート・ローゼンベルクの指導に任せていたが、ドイツ北部の実力者グレゴール・シュトラッサーらとの反目が激しくなった。シュトラッサーらは5月にルーデンドルフと連携した偽装政党国家社会主義自由運動を立ち上げて国会議席を獲得し[63]、さらに党をルーデンドルフのドイツ民族自由党と合同させた。これによりローゼンベルクやヘルマン・エッサーらミュンヘン派とシュトラッサーの関係は悪化したが、ヒトラーは介入しなかった。7月7日には著書の執筆を理由として「国家社会主義運動の指導者たることをやめて、刑期が終わるまで一切の政治活動から手を引く」ことを発表する[64]。ルドルフ・ヘスによる口述筆記で執筆されたのが『我が闘争』である。ヒトラーは職員や所長まで信服させ、9月頃には所長から仮釈放の申請が行われ始めた。州政府は抵抗したが裁判を行った判事がヒトラーのためにアピールを行うという通告もあり[65]、12月20日に釈放された。シュトラッサーの運動は内部抗争によって分裂し、12月の選挙でも大敗を喫した。 権力闘争 [編集] 1925年2月27日、禁止が解除されたナチ党は再建された。しかし大規模集会で政府批判を行ったため、州政府からヒトラーに対して2年間の演説禁止処分が下され、他の州も追随した。この間にヒトラーはミュンヘンの派閥をまとめ上げ、4月には突撃隊の実力者であったレームを引退させた。私生活ではこの頃オーストリア市民権抹消手続きをとり、移民の許可をとった[66]。また「我が闘争」の執筆作業を行い、7月18日に第一巻が発売された。 秋頃には社会主義色の強いシュトラッサーら北部派(ナチス左派)と、ミュンヘン派の対立が激化した。一時はシュトラッサーの秘書ヨーゼフ・ゲッベルスらが「日和見主義者」ヒトラーの除名を提案するほどであったが、1926年2月24日のバンベルク会議によって「指導者ヒトラー」の指導者原理による党内独裁体制が確立した。一方シュトラッサーは党内役職を与えられて懐柔され、ゲッベルスはヒトラーに信服するようになり、党内左派勢力は大きく減退した。1928年5月20日にはナチ党としてはじめての国会議員選挙に挑んだが、黄金の20年代と呼ばれる好景気に沸いていた状況で支持は広がらず、12人の当選にとどまった。この間にヒトラーは「ヒトラー第二の書」と呼ばれる本を執筆したが、出版はされなかった。ヒトラーの財政状況は悪くなく、オーバーザルツベルクに別荘「ベルクホーフ」を買う余裕も出来た。また1929年頃には党の専属カメラマンであったハインリヒ・ホフマンの助手エヴァ・ブラウン(エファ・ブラウン)と知り合い、愛人関係になった。 ナチ党の躍進 [編集]
1932年大統領選挙の投票用紙(第二回投票時) 候補者名は上からヒンデンブルク(無所属)、アドルフ・ヒトラー(ナチス)、テールマン(共産党) 1929年の世界恐慌によって急速に景気の悪化したドイツでは、街に大量の失業者が溢れかえり社会情勢は不安の一途をたどっていた。さらにヤング案への反発がドイツ社会民主党政府への反感のもととなった。 同じくドイツ共産党も社会的混乱に乗じて伸張し、1930年の国会選挙ではナチスが得票率18%、共産党が得票率13%を獲得し、社民党の得票率24.5%に次ぐ第二党と第三党に成長し、各地の都市でナチス党の私兵部隊「突撃隊」と共産党の私兵部隊「赤色戦線戦士同盟」の私闘が発生するようになった。 1931年9月18日には溺愛していた姪のゲリ・ラウバルが自殺したことにヒトラーは大きな衝撃を受けた。一時は政界からの引退もほのめかしたが、数日後に復帰した。しかしこの後菜食を宣言し、肉食を断った[67]。 財界や伝統的保守主義者などの富裕層はナチスのイデオロギーにも懐疑的であったが、それ以上に共産党がこれ以上伸張してロシア革命の二の舞のような事態だけは避けなくてはならず、ナチス党が共産党に対抗できる唯一の政党とみなされたので、上流階級出身のヘルマン・ゲーリングなどが仲介役となりヒトラー率いるナチス党が財界からの経済支援を受けることに成功した。1932年に正式にドイツ国籍を取得し大統領選挙に出馬する。大統領選挙では現職のパウル・フォン・ヒンデンブルク、共産党エルンスト・テールマン、国家人民党テオドール・ディスターベルク、グスタフ・アドルフ・ヴィンターの五名が立候補した。 選挙では「ヒンデンブルクに敬意を、ヒトラーに投票を」をスローガンにし、財界からの支援で購入した飛行機を使った遊説などで国民に鮮烈なイメージを残した。第一次選挙の結果はヒンデンブルク1865万1497票(得票率49.6%)、ヒトラー1133万9446票(得票率30.2%)、テールマン498万3341票(得票率13.2%)、ディスターベルク255万7729票(得票率6.8%)、ヴィンター11万1423票(得票率0.3%)となり、ヒトラーはライバルである共産党テールマンとは大きく差をつけ、現役大統領ヒンデンブルクの得票率過半数獲得を防ぐ善戦をした。 しかし大統領になるには過半数の得票率が必要であったため、上位者三名による決選投票が行われた。その投票でヒンデンブルク1935万9983(得票率53.1%)、ヒトラー1341万8517票(得票率36.7%)、テールマン370万6759票(得票率10.1%)をそれぞれ獲得し、ヒトラーはヒンデンブルクに敗れるが一次選挙よりも大きく得票を増やして存在感を見せつけた。ドイツ共産党にとってはナチスとの差が決定的となったことを物語る選挙となった。 ヒトラーは大統領選には敗れたものの、続く1932年7月の国会議員選挙ではナチ党は37.8%(1930年選挙時18.3%)の得票率を得て230議席(改選前107議席)を獲得し、改選前第一党だった社会民主党を抜いて国会の第一党となった。 独裁政権 [編集]
ヒンデンブルク大統領と握手するヒトラー首相(1933年3月)
全権委任法成立後に演説を行うヒトラー(1933年3月)
ムッソリーニとともに(1934年) 詳細は「ナチ党の権力掌握」を参照 1932年11月にはパーペン内閣に不信任案を提出して可決、選挙を迎えた(ドイツ国会1932年選挙 (11月))。この時ベルリンの大管区指導者ゲッベルスはドイツ共産党が主導する大規模な交通ストライキに突撃隊員を参加させた。しかしこれが財界やベルリン市民から危機感をもたれ、ナチ党の得票率は4%ほど落ちて33.1%になり、議席数も196に減少したが、第一党の地位は保持した。しかしこの選挙でも共産党が得票を伸ばしていたことに、保守層は危機感を抱いた。 一方で事態を打開することが出来なかったパーペン内閣はクルト・フォン・シュライヒャーの策動により崩壊し、後継内閣はシュライヒャーが組織した。シュライヒャーはシュトラッサーらナチス左派を取り込もうとしたが失敗した。シュライヒャーに反発したパーペンの協力もあり、ヒンデンブルク大統領の承認を得たヒトラーは国家人民党の協力を取り付けることに成功し1933年1月30日、ついにヒトラー内閣が発足した。ヒトラーは首相就任直後の施政方針演説にて、(1)国際協調と平和外交、(2)ワイマール憲法の遵守と憲法48条(大統領緊急令による基本的人権の停止条項)の濫用抑止、(3)多党制の維持(共産党の活動も制限しない)の3大方針を示したがこれらが嘘であることは後述のとおりすぐに明らかになった。 内閣発足の2日後である2月1日に議会を解散し、国会議員選挙日を3月5日と決定した。2月27日の深夜、国会議事堂が炎上する事件が発生した(ドイツ国会議事堂放火事件)。ヒトラーとゲーリングは共産主義者蜂起の始まりと断定し、直ちに共産主義者の逮捕を始めた。翌28日にヒンデンブルク大統領に憲法の基本的人権条項を停止し、共産党員などを法手続に拠らずに逮捕できる大統領緊急令を発令させた。この状況下の3月5日の選挙ではナチスは議席数で45%の288議席を獲得したが、単独過半数は獲得できなかった。しかし、共産党議員はすでに逮捕・拘禁されており、さらに社会民主党や諸派の一部議員も逮捕された。これらの議員を「出席したが、投票に参加しない者と見なす」ように議院運営規則を改正することで、ナチ党は憲法改正的法令に必要な3分の2の賛成を獲得出来るようになった。 3月24日には国家人民党と中央党の協力を得て全権委任法を可決させ、議会と大統領の権力は完全に形骸化した。7月14日にはナチ党以外の政党を禁止し、12月1日にはナチ党と国家が不可分の存在であるとされた。以降ドイツではナチ党を中心とした体制が強化され、党の思想を強く反映した政治が行われるようになった。しかし上層部とは異なった構想を持っていた突撃隊の参謀長エルンスト・レームらとの対立が高まった。ヒトラーはゲーリングと親衛隊全国指導者ヒムラーらによって作成された粛清計画を承認し、1934年6月30日の「長いナイフの夜」によって突撃隊を初めとする党内外の政敵を非合法的手段で粛清した。この時、党草創期からのつきあいがあったレームの逮捕にはヒトラー自らが立ち会っている。 1934年8月2日、ヒンデンブルク大統領が在任のまま死去した。ヒトラーは直ちに「ドイツ国および国民の国家元首に関する法律」を発効させ国家元首である大統領の職務を首相の職務と合体させ、さらに「指導者兼首相(Führer und Reichskanzler)であるアドルフ・ヒトラー」個人に大統領の職能を移した[68]。この措置は8月19日に国民投票を行い、89.93%という支持率を得て国民にも承認された。ただし「故大統領に敬意を表して」、大統領(Reichspräsident)という称号は使用せず、自身のことは従来通り「Führer(指導者)」と呼ぶよう国民に求めた。これ以降、日本の報道でヒトラーの地位を「総統」と呼ぶことが始まった。指導者は国家や法の上に立つ存在であり、その意思が最高法規となる存在であるとされた[69][70]。 権力掌握以降、ヒトラー崇拝は国民的なものとなった。1935年1月22日には公務員・一般労働者が右手を挙げて「ハイル・ヒトラー」と挨拶することや、公文書・私文書の末尾に「ハイル・ヒトラー」と記載することが義務付けられた[71]。民衆が党や体制に対する不満を持つことがあっても、地方・中央の党幹部に批判が向けられ、ヒトラー自身が対象となることはほとんど無かった[72]。 国家元首に就任して以降国際的な行動を実行する日はしばしば土曜日を選んだ。週末は他国政府の対応が遅くなるという理由からである。1935年3月16日のドイツ再軍備宣言、1936年3月7日のラインラント進駐はどちらも土曜日である[73]。 政治 [編集] 詳細は「ナチス・ドイツ#政治」を参照 ヒトラーは党と政治機構の一体化を進めるとともに、航空省の設置などヴェルサイユ条約で禁止されていた再軍備を推し進めた。このため1933年には600万人を数えていた失業者も1934年には300万人に減少している。一方で新聞の統制化も行い、1934年には三百紙の新聞が廃刊となった。営業不振となった新聞社・雑誌社はナチス党の出版社フランツ・エーア・フェルラーグ(de:Franz Eher Nachfolger) に買収され、情報の一元化が進んでいった[74]。1935年3月16日にはドイツ再軍備宣言を発し、公然と軍備拡張を行った。 1936年には国の威信をかけたベルリンオリンピック大会を行った。ヒトラーはレニ・リーフェンシュタールに対して、「自分はユダヤ人が牛耳るオリンピックには関心がない」と漏らしていたが[75]、1933年3月にはベルリン大会支持の声明を出している[76]。またこれまで都市主催であったオリンピックに国家が積極的に介入することで、ベルリンオリンピックはかつて無い大規模なものとなった。また、リーフェンシュタールが撮影した記録映画「オリンピア」は世界で高い評価を得た。 ベルリンオリンピック開催前後には諸外国からの批判を受け、一時的にユダヤ人迫害政策を緩和したが、その後は国力の増強とともに、ドイツ国民の圧倒的な支持の基「ゲルマン民族の優越」と「反ユダヤ主義」を掲げ、ユダヤ人に対する人種差別をもとにした迫害を強化していく。 生存圏 [編集]
オーストリア併合後にウィーン市内をパレードするヒトラー(1938年10月) 1936年にはスペイン内戦へ介入しフランシスコ・フランコの反乱軍を支援し、1937年4月26日にはドイツ空軍「コンドル軍団」によるゲルニカ空爆が行われた。1936年3月にはヴェルサイユ条約とロカルノ条約に反して非武装地帯と定められていたラインラントへの進駐を実行した。フランス軍からの攻撃はなかった。ヒトラーは「ラインラントへ兵を進めた後の48時間は私の人生で最も不安なときであった。 もし、フランス軍がラインラントに進軍してきたら、貧弱な軍備のドイツ軍部隊は、反撃できずに、尻尾を巻いて逃げ出さなければいけなかった。」と後に述べている。この成功はヒトラーに対外進出への自信をつけさせた。
オーストリアでのヒトラー
ミュンヘンに集まった英仏独伊の首脳。左からチェンバレン、ダラディエ、ヒトラー、ムッソリーニ、チャーノ伊外相 1931年に発生した満州事変以降、ソ連やイギリス、アメリカとの間の関係悪化が鮮明化していた日本との関係が親密化を増し、1936年11月には、駐独日本国特命全権大使の武者小路公共とドイツ外相ヨアヒム・フォン・リッベントロップの間で日独防共協定が結ばれ、ヨシフ・スターリン率いるソビエト連邦への対抗を目指した(なお同協定は翌1937年11月6日にイタリアも入り日独伊防共協定となった)。 1937年11月5日には陸海空軍の首脳を集め、「生存圏」獲得のための戦争計画を告げた(ホスバッハ覚書)。計画に批判的であったブロンベルク国防相らは陰謀によって追放され、独立傾向があった軍を完全に掌握した(ブロンベルク罷免事件)。 1938年3月には武力による威嚇でオーストリアの首相にアルトゥル・ザイス=インクヴァルトを付けさせ、オーストリア併合にこぎつけた。3月12日にはヒトラー自身がオーストリアに入り、ウィーンや生まれ故郷リンツに戻った。ヒトラーは故郷リンツでこのように演説した。「もし神がドイツ国家の指導者たるべく私をこの町に召したのだとすれば、それは私に一つの任務を授けるためである。その任務とはわが愛する故国をドイツ国家に還付することである。私はその任務を信じた。私はそのために生き、そのために戦ってきた。そして今その任務を果たしたと信じる」。 オーストリアを支配下に入れたヒトラーは続いてチェコスロバキアを狙い、まずドイツ系住民がほとんどを占めるズデーテン地方を併合しようとした。1938年9月29日にはイギリス首相ネヴィル・チェンバレン、フランス首相エドゥアール・ダラディエ、イタリア首相ムッソリーニを招いてミュンヘン会談をおこない、ズデーテンをドイツに譲ることが確定した。イギリスとフランスからも屈服を要求されたチェコスロバキアはズデーテンを差し出すしかなかった。 さらにこの後チェコで民族運動が激化し、混乱に乗じてハンガリーがチェコスロバキア侵略をほのめかすようになった。チェコスロバキアはドイツ軍に応援を依頼するしかなくなり、さらにドイツから武力による威圧も受けてエミール・ハーハ大統領は1939年3月に併合文書に署名した(チェコスロバキア併合)。ヒトラーの指示によりスロバキアは独立し[77]、チェコはドイツの一部「ベーメン・メーレン保護領」となった。この直後の1939年3月23日にはリトアニア政府にメーメルを割譲させることにも成功している。これらのドイツの拡張政策に対してイギリスやフランス、アメリカなどは懸念を表明したものの、直接的な軍事対立を避けるために事実上黙認していた。 その後もドイツの軍備拡張への対応が遅れていたイギリスは、チェンバレン政権下においてはミュンヘン会談に代表される宥和政策を取り続け、事実上ヒトラーの軍事恫喝による国土拡張政策(旧ドイツ帝国領の回復)を黙認していた。軍備を整える時間稼ぎのためとも、反共の防波堤として、対ソビエト連邦抑止力としてドイツを利用しようとしたためともいわれる。このためヒトラーはチェコの実質的な併合などの領土拡張政策を推し進めることになる。 第二次世界大戦 [編集]
独ソ不可侵条約に調印するモロトフソ連外相。後列の右から2人目はスターリン
フランス代表との降伏調印式に出席したヒトラー(1940年)
ドイツを訪問した日本の松岡洋右外相とともに(1941年) ヒトラーは更にポーランドに対して、自由都市ダンツィヒ及び東プロイセンとの間の回廊地帯を要求したが、ポーランドは英仏の保証を受けて抵抗した。こうした中、1939年8月23日にヒトラーは宿敵であるはずのソ連との間に独ソ不可侵条約を結んで世界を驚かせ、直後の9月1日にソ連との秘密協定を元にポーランド侵攻を開始した。同9月3日にはこれに対してイギリスとフランスがドイツへの宣戦布告を行い、これによって第二次世界大戦が開始された。10月中にポーランドはほぼ制圧され、ヒトラーの視線は西に向かった。 1940年に入ると、北ヨーロッパのデンマークとノルウェーを相次いで占領した。5月10日ヒトラーはフェルゼンネスト(岩上の巣)(en:Felsennest)と呼ばれる前線指揮所に移り、そこでベネルクス三国とフランスへの侵攻の指揮をとった。この前線指揮所は総統大本営と呼ばれている。ヒトラーは作戦の概要だけではなく細部にも口を出し、ダンケルクの戦い では疲弊した連合軍の相手は空軍で十分と考え、戦車部隊による攻撃を停止させた[78]。この判断は災いし、ダイナモ作戦によって多くの連合軍将兵の脱出を許すこととなった。しかしフランス侵攻自体は順調に進み、6月6日にはヒトラーも前線に近いベルギー南部のヴォルフスシュルフト(en:Wolfsschlucht 1)(狼の谷)に移った。 6月21日にフィリップ・ペタンを首班とするフランス政府はドイツに休戦を申し込み、ヒトラー自ら第一次世界大戦の降伏文書の調印場である、因縁のコンピエーニュの森でのフランス代表との降伏調印式に臨み、その後パリ市内の視察を行った。なお7月31日には国防軍最高司令官に就任している。対英戦ではヒトラーは空軍によって制空権を獲得した後にイギリス上陸を考えていた(アシカ作戦)。しかしバトル・オブ・ブリテンでドイツ空軍は撃退され、イギリスの抗戦意思はゆるがなかった。7月30日、ヒトラーは「ヨーロッパ大陸最後の戦争」である対ソ戦の開始を軍首脳達に告げ、「ソ連が粉砕されれば、英国の最後の望みも打破される」[79]として対ソ戦の準備を命じた。 一方で8月30日のウィーン裁定とその後のクラヨーヴァ条約でハンガリー、ルーマニア、ブルガリアの領土問題を調停し、9月27日には1937年に締結されていた日独伊防共協定の強化を画策していた日本とイタリアとの3国の間で「日独伊三国条約」を結ぶなど親ドイツ諸国と関係を強化し、枢軸国を形成しつつあった。しかし10月22日に行われたスペインの独裁者フランシスコ・フランコとの会談は不調に終わり、味方に引き込むことは出来なかった[80]。 1941年にはユーゴスラビア侵攻を行うとともに、ギリシアを占領してバルカン半島を制圧し、北アフリカ戦線ではイギリス軍の前に敗退を続けていたイタリア軍を援けて攻勢に転じた。 独ソ戦 [編集] 同年6月22日には、わずか2年弱前に不可侵条約を結んだばかりのソ連に侵攻を開始した(バルバロッサ作戦)。ヒトラーは「作戦は5ヶ月間で終了する」[79]や「まず十週間」[81]と、独ソ戦の先行きについてはきわめて楽観視していた。6月22日に東プロイセンに置かれた総統大本営「ヴォルフスシャンツェ(狼の巣)」に移り、1944年11月20日までの大半をここで過ごすことになった。ヴォルフスシャンツェは防空の観点から森の中に置かれたために昼でも薄暗く、不眠症となったヒトラーは深夜まで秘書や側近を相手にして一方的に語るようになった[82]。また8月には胸の痛みを訴えるようになり、冠状動脈硬化症を発症したことを知った主治医のテオドール・モレルは、ヒトラーにも秘密で心臓病薬の投与を始めた[83]。 一方戦線は順調に進み、完全な奇襲を受けたソ連軍を各地で撃破した。しかし7月にはヒトラーと軍首脳の間で意見の相違が生まれた。軍首脳はモスクワ攻略を主張したが、ヒトラーはウクライナのドネツ工業地帯やレニングラードの攻略を優先させるよう命令し[84]、モスクワ方面への攻撃を停止させた。ところが8月末にはヒトラーの気が変わり、再度モスクワ進撃を命令した。 ドイツ軍は進撃を再開したが、10月には早くも冬が到来し、降雪とラスプティツァ(rasputisa、泥濘)が進撃速度と補給を低下させた。そこにソ連軍の反攻が開始され、現場指揮官達の間で一時後退論が高まった。ヒトラーは12月19日に陸軍総司令官のヴァルター・フォン・ブラウヒッチュ元帥など複数の将官を更迭した上に自ら陸軍総司令官を兼任し、東部戦線のドイツ軍に後退を厳禁した。このことで戦線の全面崩壊は免れた。対ソ戦におけるドイツ軍の最初の後退が行われた直後の12月11日に、アメリカ、ハワイの真珠湾攻撃を受けて対アメリカ参戦に踏み切る。 大戦後半 [編集]
作戦指揮を行うヒトラー(1942年)
暗殺未遂事件現場をムッソリーニと訪れたヒトラー(1944年7月) 1942年には東部戦線での春季攻勢が計画され、参謀本部は「ジークフリート」計画を提出した。しかしヒトラーはこの計画を修正し、主作戦にあたる部分は自ら書きかえ[85]、ヴォロネジとスターリングラードの攻略を主眼とするブラウ作戦(青作戦)を命令した。4月26日にはナチス・ドイツにおける最後の国会が開催され、ヒトラーは既存の権利や法によらず処罰や解任を行う権利があると宣言された[86]。 ブラウ作戦は当初順調に進んだものの、スターリングラードの攻略に失敗、ドイツ軍は守勢に転換せざるを得なくなった上に第6軍が包囲される事態となった(スターリングラード攻防戦)。ヒトラーは撤退や降伏も許さず、「ドイツ陸軍史上、降伏した元帥はいない」という理由で第6軍司令官のフリードリヒ・パウルス大将を元帥に昇格させ、暗に自決を求めた[87]。しかしパウルスは1943年1月31日に降伏し、ヒトラーを激怒させた。またエル・アラメインの戦いやトーチ作戦などでの敗北により、北アフリカ戦線における枢軸国の勢力は一掃された。戦局の退勢が明らかになったことで、国内におけるヒトラー崇拝にも陰りが見え始めた[88]。 1943年にはクルスクで突出したソ連軍を包囲するツィタデレ作戦(城塞作戦)が計画されたが、ヒトラーはこの計画を何度も延期させ、攻勢開始は7月までずれ込んだ。7月5日から開始されたこの攻撃(クルスクの戦い)は激戦となったが、7月13日にヒトラーは作戦の中止を命令した。ヒトラーはシチリア島に連合軍が上陸したことでイタリアの政治情勢が不安定となったという報告を受けており、その情勢に気を取られていた。またソ連軍の損害を過大評価していたことや、弾道ミサイル(V2ロケット)や電動Uボート(UボートXXI型)などの新兵器によって、翌年にはドイツ軍の圧倒的な優位が保たれると考えていた[89]。 7月25日にイタリアでムッソリーニが失脚、その後9月8日にバドリオ政権が休戦を発表し(イタリアの講和 (第二次世界大戦))、連合国軍はイタリア本土に上陸した。しかし9月12日に特殊部隊によりムッソリーニを救出し(グラン・サッソ襲撃)、ドイツが支配下に置いた北イタリアに、彼を首班とするイタリア社会共和国を成立させた。こうして南部の連合軍と北部の枢軸軍によるイタリア戦線が形成された。 連合軍によるドイツへの戦略爆撃が激しくなると、ヒトラーはドイツから爆撃機が去るまで眠ろうとしなかった。このこともあり、ヒトラーの不眠症は激しくなり、健康状態はますます悪化した。 暗殺未遂事件 [編集] 1944年には、東部ではソ連の3月からの大攻勢(バグラチオン作戦)により中央軍集団が壊滅し、西部ではノルマンディー上陸作戦の成功による第二戦線が確立した。 詳細は「ヒトラー暗殺計画」を参照 7月20日に、ドイツ陸軍のクラウス・フォン・シュタウフェンベルク大佐が仕掛けた爆弾による暗殺未遂事件が起こり、数人の側近が死亡し、参席者全員が負傷したがヒトラーは奇跡的に軽傷で済んだ。事件直後に暗殺計画関係者の追及を行い、処罰を行った人数は、死刑となったヴィルヘルム・フランツ・カナリス海軍大将(国防軍情報部長)、エルヴィン・フォン・ヴィッツレーベン元帥、フリードリヒ・フロム上級大将を始め4,000名に及んだ。また、かつては英雄視されたエルヴィン・ロンメル元帥も、かかわりを疑われて自殺を強要された。ヒトラーが奇跡的に死を免れたことは、彼が特別な能力を持っている証拠であるとされ、国民のヒトラーに対する忠誠心もやや持ち直した[90]。 8月になると連合軍がパリに迫った。ヒトラーはパリの破壊を命令したが、守備隊司令官ディートリヒ・フォン・コルティッツ大将は従わず、パリを明け渡した。この際にヒトラーは「パリは燃えているか?」(Brennt Paris?)と部下に何度も質問し、どんな手段を使ってもパリを廃墟にするよう命じたが、実行はされなかった[91]。 その後ヴィシー政権や東欧の同盟国は次々に脱落し、ドイツ軍は完全に敗勢に陥った。特にプロイエシュティ油田を抱えるルーマニアの脱落はドイツの石油供給を逼迫させた。労働力も不足に陥り、国内の秘密工場で働かせるために、東方の収容所やハンガリーのユダヤ人が移送され、多くの犠牲者が出た。 西部戦線の連合軍がライン川にせまると、ヒトラーは大きな賭に出ることを決断し、アルデンヌからアントワープまでドイツ軍を突進させ、連合軍の補給を断つ作戦を自ら立案した。ヒトラーは米英軍に大きな打撃を与えれば、米英は戦争の休戦とドイツ軍に対する援助を行い、独・英・米とソ連による「東西戦争」が発生すると確信していた[92]。ヒトラーは作戦の準備と声帯ポリープの手術のため11月20日にヴォルフスシャンツェからベルリンの総統官邸に移った。 12月11日にはフランス国境近くに設置されたアドラーホルスト(en:Adlerhorst)に移り、反攻作戦「ラインの守り」 を12月16日に開始した。この作戦は当初成功し、連合国軍を一時的に大きく押し戻した。しかし天候が回復すると空軍の支援を受けた連合国軍に圧倒され、一時的に大きな突出部を作るに留まり、ドイツ軍最後の予備兵力をいたずらに損耗する結果となった(バルジの戦い)。 敗戦 [編集]
アルデンヌ攻勢で戦うドイツ兵 1945年1月からソ連軍はヴィスワ=オーデル攻勢を開始した。これを受けてヒトラーは1月15日にベルリンの総統官邸に戻ったが有効な手は打てず、2月にはドイツ軍がオーデル川のほとりまで押し込まれた。また3月には米英軍がライン川を突破した。またハンガリー戦線も危機的になり、ハンガリー領内の油田失陥の可能性が高まった。3月15日よりハンガリーの首都であるブダペストの奪還と油田の安全確保のため春の目覚め作戦を行うが失敗し、戦力を大きく減退させた。ヒトラーは3月頃からラジオ放送も止めベルリンの総統官邸の地下にある総統地下壕に籠もりきりとなり、ほとんど庭に出ることもなくなった。視力や脚力も衰え、支え無しに30歩以上歩くことも困難になった[93]。3月19日、ヒトラーは連合軍に利用されうるドイツ国内の生産施設を全て破壊するよう命ずる「ネロ指令」(en:Nero Decree))と呼ばれる命令を発したが、戦後の国民生活に差し障ると軍需大臣のシュペーアに反対された。しかしヒトラーは「戦争に負ければ国民もおしまいだ。(中略)なぜなら我が国民は弱者であることが証明され、未来はより強力な東方国家(ソ連)に属するからだ。いずれにしろ優秀な人間はすでに死んでしまったから、この戦争の後に生き残るのは劣った人間だけだろう。」と述べ、国民生活を顧みることはなかった[94]。シュペーアはこの命令を無視し、焦土作戦はほとんど実行されなかった。 4月16日にソ連軍はベルリン占領を目的とするベルリン作戦を発動した(ベルリンの戦い)。側近や高官はヒトラーに避難を勧めたが、ヒトラーは拒絶した。4月20日に総統誕生日を祝うために、軍とナチス高官が総統官邸に集まった。この日開催された軍事会議で、連合軍によってドイツが南北に分断された場合にそなえ、北部をカール・デーニッツ元帥が指揮することになったが、南部の指揮権は明示されなかった[95]。又、各種政府機関も即時ベルリンを退去することが決まり、ゲーリングら主要な幹部も立ち去っていった。このころになると自らの親衛隊すら信用できなくなり、「全員が私をあざむいた。誰も私に真実を話さなかった」と言うほどであった[96]。
部隊を視察するヒトラーとゲーリング(1945年4月) ソ連軍はベルリン市内に砲撃を加え、じりじりとベルリン市に迫ってきた。ヒトラーはなおもベルリンの門前で大打撃を与え、戦局が劇的に変わると言い続けていた。しかし4月22日の作戦会議でヒトラーはついに「戦争は負けだ」と語り、ベルリンで死ぬと宣言した[97]。しかしその後は態度を変化させ、再び指揮を執り始めた。しかしこれを受けて4月23日には、総統地下壕を脱出したカール・コラー空軍参謀総長が、国防軍最高司令部作戦部長アルフレート・ヨードル上級大将の伝言を携えゲーリングのもとを訪れる。ヨードルの伝言は「総統が自決する意志を固め、連合軍との交渉はゲーリングが適任だと言った」という内容だった。ゲーリングは不仲であったマルティン・ボルマンの工作を疑い、総統地下壕に1941年の総統布告に基づく権限委譲の確認を求めた電報を送る。電報を受け取ったボルマンは、「ゲーリングに反逆の意図がある」とヒトラーに告げ、激怒したヒトラーはゲーリングの逮捕と全官職からの解任、そして別荘への監禁を命じた。しかしシュペーアによると、この2時間後にヒトラーは「よろしい、ゲーリングに交渉をさせよう」とつぶやいた。早期の降伏を考えていたシュペーアはゲーリング降伏責任者となれば交渉で時間稼ぎをすると考え、飛行機に乗って連合軍と交渉しようとした際にそなえて撃墜命令を出している[98]。 自殺 [編集] 詳細は「アドルフ・ヒトラーの死」を参照
ヒトラーの死を伝える「スターズ・アンド・ストライプス」号外 4月29日に、ハインリヒ・ヒムラーがヒトラーの許可を得ることなく英米に対し降伏を申し出たことが世界中に放送され、ヒトラーに最後の打撃を与えた。ヒムラーに対する逮捕命令が出されたが、もはやドイツ国内はその執行すらできない状態であった。 終末が近づいたことを悟ったヒトラーは、個人的、政治的遺書の口述を行った。この政治的遺書の中で戦争はユダヤ人に責任があるとしたほか、大統領兼国防軍最高司令官職にカール・デーニッツ海軍元帥、首相職にヨーゼフ・ゲッベルス宣伝相、ナチ党担当大臣にマルティン・ボルマン党官房長をそれぞれ指名した。さらに「国際ユダヤ人」に対する抵抗の継続を訴えた。個人的遺書では愛人エヴァとの結婚と、自殺後に遺体を焼却することを述べた。この遺書をタイプした秘書トラウドル・ユンゲにヒトラーは「ドイツ人は私の(ナチズム)運動に値いしないことを自ら証明した。」と語り、自らの運動が終焉したことを認めた[99]。 遺書をタイプした後の午前2時[100]、長年の愛人エヴァ・ブラウンと結婚式を挙げた。そして4月30日、毒薬の効果を確かめるため愛犬ブロンディを毒殺した後、午後3時に妻エヴァと共に総統地下壕の自室に入り、自殺した。ほぼ生涯にわたって独身を通し、死の直前に結婚したので、他の第二次世界大戦指導者と異なり、直系の子孫はいない(報道などに登場する「子孫」はいとこ、または異母兄弟)。 自殺の際ヒトラーは拳銃を用い、エヴァは毒を仰いだ。遺体が連合軍の手に渡るのを恐れて140リットルのガソリンがかけられ焼却された。ひどく損壊した遺体はソ連軍が回収し、検死もソ連軍医師のみによるものだった。また側近らの証言も曖昧であり、長い間ヒトラーの死の詳細は西側諸国には伝わらなかった。この事が「ヒトラー生存説」が唱えられる原因となった。 また、スターリンも、その死体が本当にヒトラーのものであると確信が持てず、イギリスとアメリカ軍が密かにヒトラーを匿っているのではないのかと疑心暗鬼におちいった[要出典]。そのため、英米ソ軍とも戦後しばらくヒトラーと容貌が似た人物を手当たり次第逮捕して取り調べている。 なお日本は、先に死去したアメリカのフランクリン・D・ルーズヴェルト大統領の死去に際し、外交儀礼に則り正式に弔意を示す声明を発表したものの、ドイツという最大の同盟国の国家元首の自殺の報を受けても、弔意を示す声明を発することも、半旗の掲揚を行うなどの外交儀礼を行うこともなかった[101]。 また、駐日ドイツ大使館は恐らく世界の公的機関として唯一の追悼式を行ってヒトラーの死を悼んだ。しかしヒトラーの死とその後のデーニッツ政権下のドイツの降伏、そして事実上の国交断絶を予想し幻滅した日本政府は、これに対しても外務省の儀典課長を寄こすのみであった[102]。 朝日新聞では、訃報に「ヒ総統薨去」の見出しを用いた(共和国の元首であるため「天皇や皇帝に次ぐ」と見なしたと思われる)。 略年表 [編集]
1889年:オーストリア・ハンガリー帝国のブラウナウ地方でバイエルン人の税関吏アロイス・ヒトラーの4男として生まれる。父は元靴職人という平民の一家であった。 1895年:父アロイスの農業事業の為にバイエルン王国パッサウ地方に移住。 1897年:父の事業が失敗し、一家はオーストリアへ戻る。アロイスとヒトラーとの諍いが始まる。 1900年:小学校を卒業。大学予備課程(ギムナジウム)には進めず、リンツの実技学校(リアルシューレ)に入学する。 1901年:二年生への進級試験に失敗、留年。 1903年:アロイス病没。リンツ実技学校中退。 1904年:シュタイアー実技学校入学。 1905年:シュタイアー実技学校中退。以後、正規教育は受けず。 1906年:遺族年金の一部を母から援助されてウィーン美術アカデミーを受験するも不合格。以降、下宿生活を続ける。 1908年:アカデミー受験を断念。下宿生活を終えて住居を転々とする。 1909年:住所不定の浮浪者として警察に補導される。独身者向けの公営住宅に入居。 1911年:遺族年金を妹に譲るように一族から非難され、仕送りが止まる。水彩の絵葉書売りなどで生計を立てる。 1913年:オーストリア軍への兵役回避の為に国外逃亡。翌年に強制送還されるが「不適合」として徴兵されず。 1914年:第一次世界大戦にドイツ帝国が参戦するとバイエルン軍に義勇兵として志願。 1918年:マスタードガスによる一時失明とヒステリーにより野戦病院に収監、入院中に第一次世界大戦が終結する。最終階級は伍長。 1919年:バイエルン・ソビエト軍に参加。同時にヴァイマル共和国から軍属諜報員として雇用され、ドイツ労働者党への潜入調査を担当する。 1920年:ドイツ労働者党の思想に傾倒し、軍を除隊。党名がドイツ国家社会主義労働者党に改名される。 1921年:党内抗争で初代党首アントン・ドレクスラーを失脚させ、二代党首に就任する。 1923年:ベニト・ムッソリーニのローマ進軍に触発されてミュンヘン一揆を起こすが、内部対立で失敗。警察に逮捕される。 1924年:禁錮5年の判決を受けてランツベルク要塞刑務所に収監。しかし同年の内に仮釈放される。 1926年:ナチス左派を追放し、ナチス右派による党内運営を確立(バンベルク会議)。 1928年:12人の国会議席を獲得して国政に進出。 1930年:世界恐慌の影響から議会の主要勢力へ成長、同じく躍進したドイツ共産党と激しい対立を繰り広げる。 1932年:大統領選に出馬、決選投票でヒンデンブルクに敗北して落選。しかし国会選挙では第一党に躍進して更に影響力を高める。 1933年:ヒンデンブルク大統領から首相指名を受け、全権委任法により一党独裁体制を確立。 1934年:突撃隊幹部を粛清して独裁体制を強化(長いナイフの夜)。ヒンデンブルク病没。大統領の職能を継承し、国家元首となる(総統)。 1935年:再軍備宣言。軍の急速な再建を進めさせる。 1936年:非武装地帯であったラインラントに軍を進駐させる(ラインラント進駐)。スペイン内戦では反乱軍を支援(コンドル軍団)。日独防共協定を締結。 1938年:共和制に移行していた新生オーストリアへ武力恫喝、国家合同を宣言(アンシュルス)。ミュンヘン会談でズデーテン地方を獲得。 1939年:チェコスロバキアへ武力恫喝、チェコを保護領に、スロバキアを保護国化(チェコスロバキア併合)。同年に独ソ不可侵協定を締結、ポーランド侵攻を開始、第二次世界大戦が勃発する。 1940年:新生ドイツ軍の戦勝によりデンマーク、ノルウェー、オランダ、ベルギー、そしてフランスが短期間で降伏に追い込まれる(電撃戦)。一方でドイツ軍はイギリス上陸には失敗し、懸念が残される。 1941年:不可侵条約を結んでいたソ連に侵攻を開始。だがイギリス同様に短期間で降伏には追い込めず、東西両面で長期戦化が進む。年末に日本が真珠湾攻撃を行い、ドイツも追随してアメリカに宣戦布告。 1943年:スターリングラードの戦いで大敗を喫し、東部戦線が不安定化する。また連合軍が北アフリカ、南欧に攻撃を開始、イタリアが降伏する。 1944年:ソ連軍の一大反攻により東部戦線が崩壊(バグラチオン作戦)、連合軍が北フランスに大規模部隊を上陸させる(ノルマンディー上陸作戦)。敗色濃厚な中、自身に対する暗殺未遂事件が発生する。 1945年:ベルリン内の総統地下壕内で自殺。 思想 [編集] 反ユダヤ主義 [編集] ヒトラー本人の著作や発言等から、ヒトラーは少年時から様々な反ユダヤ主義に影響された「生粋のアーリア人至上主義者」と見なされる傾向が強い。しかし、ヒトラー個人と付き合いがあった人々の証言からは、ヒトラーがいつそのような人種概念を身につけたのか判断するのは難しい。 ヒトラーが幼い頃に母親と通った質屋の主人がユダヤ人であり、その主人がヒトラー親子の品を安値でしか買い取ってくれず、そのためヒトラーはユダヤ人に対して不信感を抱くようになったという俗説もあるが、父の恩給を受給していたヒトラー一家が経済的に困窮していた事実はない。なお、この頃ヒトラーの母親を治療した医師エドゥアルド・ブロッホはユダヤ人であった。ブロッホは後にユダヤ人迫害が開始された後も「名誉アーリア人」として手厚く保護され、その後外国に解放されたという。ヒトラーは自分に対して恩のある人間はユダヤ人であっても例外的に扱ったのではないかという指摘もある。また、ナチス政権下で、「名誉アーリア人」として航空省次官となったエアハルト・ミルヒの父親はユダヤ人であったという説がある。 ヒトラー自身も言っていたように、ウィーン生活を送る1910年夏ごろに反ユダヤ主義的思想を固めたと見られている[103]。ウィーン時代の友人にユダヤ人がいたとされている。ただ、その友人と金銭トラブルがあったようで、このことは警察にも記録されていることから、このことがヒトラーに大きな影響を与えたという説を唱える者もある。また、ヒトラーの友人であったクビツェクはウィーンで同居していた頃に、すでに反ユダヤ的思想を持っていたと証言している[104]。 いずれにしろ、入党後の1920年8月23日には『ホフブロイハウス』で「ユダヤ人は寄生動物であり、彼らを殺す以外にはその被害から逃れる方法はない」と演説するほどの確固たる反ユダヤ主義者となっていた[105]。一方でユダヤ人のブロニスラフ・フーベルマンやアルトゥル・シュナーベルのレコードを所持するなど、私生活での感情までは不明瞭である[106]。他にヒトラーと関係があったユダヤ人には、第一次世界大戦下でヒトラーの叙勲を推薦した上官や、第一次世界大戦後にヒトラーがミュンヘンで住んだアパートの管理人がいる。ヒトラーは管理人が作った食事を食べながら党幹部と打ち合わせを度々行っていたが、党勢の拡大とともにヒトラーはアパートを引き払った。 人種主義・対日本人観 [編集] 詳細は「北方人種」および「わが闘争」を参照 わが闘争初版本。1925年発行 ナチズムの聖典というべきヒトラーの著書『わが闘争』は、ナチ党政権時代のドイツで聖書と同じくらいの部数が発行されたとも言われている。その内容は自らの半生と世界観を語った第一部「民族主義的世界観」と、今後の政策方針を示した第二部「国民社会主義運動」の二つに分かれる。この中でヒトラーはアーリア民族の人種的優越、東方における生存圏の獲得を説いている。 近代ドイツ最大の哲学者ニーチェの著作である『権力への意志』の影響が強く見られ、ヒトラーの思想を、「力こそがすべて」というニーチェの書からの誤読、もしくは自分なりに解釈し直しているのではないかと指摘されることが多い。ナチス政権時の発行数からは「ナチス公認の最重要文献」として扱われていたことがうかがえる。しかしヒトラーは後に「わが闘争は古い本だ。私はあんな昔から多くのことを決め付けすぎていた」と語っている[107]。 ヒトラーは『わが闘争』の中で、日本人について、文化的には創造性を欠いた民族であるとしている。『わが闘争』には日本人に対して差別的見解が多く、これを原文で読んだ井上成美などは、ヒトラーやナチズムの根底には強固な反日主義があるとみて警戒心を募らせた。しかしこの対日本観はヒトラーのごく若い頃の捉え方で、後年には、日本人のパワーを相当なものと考えるようになり、戦時下において「近い将来、我々は東洋の覇者日本と対決しなければならない段階が来るだろう」とシュペーアたち側近に語っていたというエピソードがある。シュペーアによればヒトラーは日本をイタリアより遥かに強国とみなしており、第一次大戦のときはイギリスだって日本と提携したのだから、有色人種と同盟することは有り得る政治的選択だと語っていたという。またヒトラーは「ユダヤ人は日本人こそが彼らの手の届かない相手だと見ている。日本人には鋭い直観が備わっており、さすがのユダヤ人も内から日本を攻撃できないということが分かっているのだ」とし、世界に蔓延している日本人脅威論はユダヤ人が陰で仕組んでいるものだと考え、ユダヤ人はドイツと日本の共通の敵だと感じていたもといわれている(『ヒトラーのテーブル・トーク』三交社) 1939年にベルリンで開かれた日本の美術展ではヒトラーは日本の古美術に異常なほどの関心を示し、特に一代にして巨大な栄華を誇った平清盛の木像を食い入るように何時間も見つめていたという。またヒトラーは日本の神道を、「国家とその自然に殉じる宗教」として高く評価し、キリスト教より優れた宗教だとみていた(彼は「ドイツ人はキリスト教という間違った宗教をもってしまった」とつねづね公言していた)同時に日本の天皇・皇室の歴史的連続性にも感嘆しており「他のことならともかく、ドイツ人が努力しても決して日本人に敵わない偉大さは、万世一系の君主制度を彼らが保ってきたことである」と語っていた。1941年12月11日の対米開戦演説では「我々は戦争に負けるはずがない。我々は3000年間一度も負けたことのない味方ができたのだ!」と日本を礼賛している(しかしその後まもなく日本がシンガポールを陥落させたときは、黄色人種の手にシンガポールが渡ったことを残念がっていたという)健康マニアのヒトラーは日本人の健康にも関心があり、「日本人が強いのは菜食中心で豆腐を食べているからだ」といい(ヒトラーは古来世界の強国といわれている国はどれも菜食だったという思い込みに取り付かれていた)ドイツ軍食にも豆腐食を導入しようとさえ考えていたといわれている。国民教育に日本語科目を取り入れることにも熱意を傾けており、これらのことからヒトラーが日本人に少なくとも一目置いていたことは事実であるといえよう。 なお、「現在のドイツでは『わが闘争』は民衆扇動罪による発禁本のリストの中に入っている」とよく誤解されるが、実際の理由は、著作権と出版権を委ねられているバイエルン州政府がどの出版社にも著作権を渡さないことにある。保護期間は2015年までであり、これ以降出版は自由になる。 ホロコースト [編集] 詳細は「ホロコースト」を参照 1940年にヒトラーは、ドイツ国内のユダヤ人をマダガスカルに移送させる計画(マダガスカル計画)を検討させた。これはドイツの影響下からユダヤ勢力を排除するための作戦であり絶滅作戦ではなかったが、戦局の悪化により移送は不可能になった。1941年12月には閣僚の提案によってユダヤ人滅亡作戦を指示した。1942年1月にはドイツ国内や占領地区におけるユダヤ人の強制収容所への移送や強制収容所内での大量虐殺などの、いわゆるホロコーストの方針を決定づける「ヴァンゼー会議」が行われた。しかしながら、文章上では「絶滅」や「殺害」と言った直接的な語句は使われず、「追放」や「移民」と言った語句が最後まで使用された。 政権奪取以降、ユダヤ人迫害政策を指揮、指導していたヒトラー自身が、ユダヤ人絶滅自体を命じたという書類は現存していない。このため、ホロコーストの命令に関しては「ヒトラーが包括的・決定的・集中的な一回限りの絶滅命令を口頭で指令した」というジェラルド・フレミング、クリストファー・ブロウニング(en)らの説、「正規の集中的絶滅命令は存在せず、軍政・民政・党・親衛隊の各部局が部分的絶滅政策を行った。ヒトラーはこれらの政策に同意や支持を与えていた」とし、絶滅政策が一貫したものではなく即興性を持つものであるというミュンヘンの現代史研究所所長マルティン・ブロシャート(en)、ハンス・モムゼン(en)、ラウル・ヒルバーグらの説がある[108] しかし、1941年12月12日に全国指導者や大管区指導者を集めて行われた会議(en)においてヒトラーは「ユダヤ人の絶滅は必然的結果でなければならない」と演説しており、その演説はゲッベルスの日記に記録されている[109]。 また、ヒトラー・ユーゲント指導者のバルドゥール・フォン・シーラッハの夫人であるヘンリエッテの回想は、ヒトラーがホロコーストに関してそれを指示し、賛同する立場であったことを証明するものとされている。ヘンリエッテは、ドイツ占領下の地に住むユダヤ人が次々と逮捕され、列車に詰め込まれ収容所に送られていることを知り、ヒトラーに直訴することを考えた。1943年4月7日にパーティの場でヘンリエッテがそのことを告げると、ヒトラーは激怒して「その問題にあなたが口を挟む権限はない」と告げて立ち去った。その後、ヘンリエッテは2度とヒトラーから招待を受けることはなかったという。 いずれにしても、「わが闘争」でユダヤ人を罵り、その後も対ユダヤ人迫害政策を自国の影響圏において行わせてきた国家指導者であるヒトラーが、自国政府によるユダヤ人を絶滅に追い込む政策の進展を指導、賛同こそせよ反対、中止させなかったことは事実である。 健康政策 [編集] ヒトラーはドイツ民族の健康を守ることにも強い関心を持っていた。特に、1907年に母親クララを乳癌で失ったヒトラーにとって癌の治療は特別な意味を持っていた。厚生事業のスローガンとして「健康は国民の義務」を定め、喫煙に対しても反タバコ運動に積極的に行った。環境や職場における危険を排除し(発癌性のある殺虫剤や着色料の禁止)、早期発見を推奨した。医師達はとくにタバコの害を熱心に訴え、彼らは世界で最も早く喫煙を肺癌と結びつけた[110]。 また、「健全な民族の未来は女性にある」として女性の体育を奨励したことでも知られる。そのため現在のドイツでは、政府による過度の健康問題への介入や禁煙禁酒運動をナチズムを彷彿させるものとしてタブー視する傾向にある[111][112][113]。 政治手法 [編集]
演説 [編集] 政治学や力学を体系的に学ばなかったヒトラーを最終的に権力の座に就かせた最大の要因は演説であった。現在ヒトラーの演説といえば大げさな身振り手振りをし、過激な言葉を怒鳴り散らすというイメージが強いが、実は場合によっては演説の手法に手を加えていることもあった。例えば一般的によく知られている激しい手法はどちらかといえば教養の無い下層階級をターゲットとした演説であり、知識人相手には学生時代のアルベルト・シュペーアが述べるような穏やかに語りかける話術を使っていた。 軍の掌握 [編集] ラジオ放送を行うヒトラー。1933年2月 またヒトラーは国家掌握後、軍事面の支配に異常な程の熱意を注いだ事も、他の独裁者に比べて顕著であった。大戦中期間、ほとんどを前線に近い総統大本営で好んで過ごした。また1942年からは自ら陸軍総司令官を兼任、1942年9月から11月までは前線のA軍集団司令官を兼任して指揮するなど元首として異例の行動をとった。またアルデンヌ反攻作戦など自ら作戦を発案するなど、作戦の細部にまで関わった。その中でヒトラーは退却や降伏を徹底して嫌い、精神論に基づいた考えを軍に強要した。同様に自らの直感を重視してラインハルト・ゲーレンのような不利な報告を行う者、戦略的撤退や防御など退嬰的な提案をする参謀本部との関係が険悪になった。 そればかりか敗戦が続くのは自らの命令を正確に行わない将軍達の「裏切り」が原因であるとし、側近や軍幹部に当たり散らした。1944年7月20日の暗殺未遂事件は参謀本部を形成する高級軍人達への不信感を決定的なものとした。1945年4月30日という自殺の日になっても、独ソ戦敗因は堕落した参謀本部と将軍にあると語り、官邸内や地下壕内にスパイがいるとして、自らの責任については言及することはなかった[114]。 芸術やメディアの政治利用 [編集] 当時の最新メディアであったラジオやテレビ、映画などを使用してプロパガンダを広めるなど、メディアの力を重視していた。情報を素早く伝達させるため、ラジオを安値で普及させた(国民ラジオ)。また、これらの一環としてベルリンオリンピックでは、女性監督のレニ・リーフェンシュタールによる2部作の記録映画『オリンピア』を制作させている。 若年期芸術家を志して挫折した過去があるためか、ヴェルナー・フォン・ブラウン、ハンナ・ライチュ、フェルディナント・ポルシェをはじめとした若く才気あふれると認めた人物には大いに援助をした。 人物像 [編集]
体格 [編集] 身長はよく172〜3cmなどとされている資料を見かけるが、1914年のザルツブルクでの徴兵検査(このときは虚弱のため兵役不能と診断された)の際の徴兵検査表に175cmと記されているためこれが正確な数字であろう。当時の写真を見ても、背が高かったのが解る。遺体検証の際身長を「推定163cmほど」と記録されたことから、小柄というイメージにより拍車をかけたと思われる。 「ヒトラーは自分の身長が高官たちに比して低いことにコンプレックスを抱いており、靴の中に細工をしたりして身長を高く見せようとしたり、自分の机は段差の上に置いたりしていた」などの話はあるが、これは戦後ヒトラーを小物として印象づけるために成されたデマの一つである。ただし、ヒトラーの車は多くのパレード用リムジンと同じように、ヒトラーを同乗者より目立たせるためにヒトラーの座っていた座席と車の床のかさ上げが行われていた。 瞳は青色で、幼少時は金髪であったが、長じるに従い黒髪になった。現実のナチス高官は理想的なアーリア人種の体格とはほど遠い人物が多く、当時流行ったジョークにも「理想的アーリア人とは、ヒトラーのように金髪で、ゲーリングのようにスマートで、ゲッベルスのように背が高いこと」(エーミール・ルートヴィヒ)と皮肉られている。 栄養状態が良くなかった当時のドイツ人の中でもヒトラーは大柄であった。「チビのチョビ髭」というイメージがチャーリー・チャップリンの映画『独裁者』以降定着するようになった。なお、ヒトラーは『独裁者』を二度鑑賞しているが、感想は遺されていない。 また、ヒトラーは第二次大戦中の運動不足から1944年1月には体重が230ポンド(約104kg)に達したという[115]。 ヒトラーは遺伝的に薄毛で、前頭部から生え際が後退していることが写真で確認できる。また、ヒトラーには睾丸が一つしかなかったといわれるが、ヒトラーの主治医はこれを否定した。もっとも、実際にヒトラーの睾丸を見たかという点は定かではない。ソ連軍の遺体検証では左睾丸がなく、わざわざ恥骨に引っ込んでいるのではないかと調査しても見つからなかったという記録がある。 記録映像 [編集] テレビ番組などでは彼の映像はもっぱら白黒が用いられるが、実際にはカラー映像も数多く残されている(例:ベルリンオリンピック開会式やエヴァがベルヒテスガーデンで撮影したプライベートフィルム等)。ただし、当時はカラーフィルム黎明期で価格も高く、技術的に未成熟でまだまだ珍しく、彼の登場する公的記録映像(演説シーンなど)のほとんどは信頼性が高い白黒で撮影されている。 また、幹部であるシュペーア、ヘルマン・ラウシュニング(de:Hermann Rauschning)、エルンスト・ハンフシュテングル(en)、側近である秘書のトラウデル・ユンゲや護衛兵であったローフス・ミシュなどがヒトラーの言動を記した著書を残している。 日常生活 [編集] 母がタバコ嫌いだったためか、自らもタバコを吸わず健康に気を遣い、部下やナチス高官が喫煙するのを見た時には、「体に悪いから」と禁煙するよう勧めるほどであったという。エヴァ・ブラウンを含め、ヒトラーの部下や周辺人物のほとんどが喫煙者であったが、ヒトラーの前やヒトラーが出入りする部屋で喫煙することは厳禁であった。さらに父が酒好きで酒場で脳卒中をおこして死亡したせいか、飲酒もほとんどしなかった。バルジの戦いの初期、ドイツ軍の攻勢が順調に進んでいる事を祝ってヒトラーがワインを口にするのを見て驚いたという側近の証言が残されている。 同時代のソ連の独裁者であるスターリンが大酒飲みでヘビースモーカーであったのとは対照的である。ただし、この過剰な健康志向は中年になり政治活動に身を投じてからのようで、ウィーンを放浪していた時期を知る人物によると、酒やタバコに手は出さなかったものの、深夜徘徊するなど乱れた生活を送っていたという。 ボルマンが控えた『ボルマン覚え書き』によると、ヒトラーは放浪時代には喫煙をしていたが、金が底をついたために辞める決意をし、タバコを川へ捨てたと言葉を残していることから、放浪時代には喫煙をしていたことになる。 どちらかといえば夜型であったため、軍会議などもしばしば深夜に行われることが多かった。また、会議が無い時でも明け方近くまで側近達を集めてティー・パーティを開いた。側近達は途中で退席することもできず、ヒトラーが眠るまでつきあわされた。このため昼間の業務も行わなくてはならない側近達は非常に苦労した。またようやくヒトラーが眠りにつくと、何事があろうと起こすことは許されなかった。これが災いしてノルマンディー上陸作戦の対応に遅れたとも言われている。 菜食主義者としてのヒトラー [編集] 詳細は「アドルフ・ヒトラーのベジタリアニズム」を参照 溺愛した姪のゲリ・ラウバルの自殺後は菜食主義者となったとされるが、実際にはレバーのダンプリングを食べることもあった。伝記作家のロバート・ペインによると、特にソーセージは好物であり、ヒトラーが厳格な菜食主義者であったとする神話は、ゲッベルスによる印象操作であるとしている[116]。戦時中には菜食主義者団体を弾圧したという説があったが、アメリカベジタリアン協会の歴史アドバイザーであるリン・ベリー(en:Rynn Berry)等に否定されている[117]。 健康状態 [編集] ズデーテンラントで食卓を囲むヒトラー(1938年) ヒトラーは母親が癌で苦しんだ様を見ていたため、自らも癌で死ぬのではないかという思いにとりつかれ、1928年頃にはその強迫観念から逃れるため精神科医による治療を行ったが失敗した[118]。また消化不良と時折の胃痛に悩んでいたため、食事も菜食中心に努め、飲酒や喫煙も控えた。しかし、1933年頃にはすでに体調を崩していた。 1936年頃には胃痙攣、不眠、とめどない放屁、足の湿疹に悩まされるようになる。その治療にあたったのがエヴァ・ブラウンが紹介した開業医、テオドール・モレルであった。ヒトラーの症状は一時的に改善されたが、モレルの処方した薬には劇物が多かったため依存性や副作用が強く、ヒトラーの心身を次第に蝕んでいった。モレルの診断や処方する薬には他の医師達も懐疑的であり、エヴァを始めとする側近達も次第に不信感を強めたが、ヒトラーの信頼は厚く、最期を迎える寸前までモレルは主治医を務めた[119]。 1942年頃から、彼の左手は震えはじめた。1944年頃になると震えに加えて背が猫背になり、よちよち歩きをするようになった。55歳の彼は老けて75に見えたという。戦局が悪化すると興奮することが多くなり、不眠症に拍車を掛けた。そのため体力も急速に衰え始め、数十メートルほどしか歩けなくなり、従者の体に寄りかかったり、総統専用のベンチに座って休憩をしなければならなくなった。 左手の震えは、徹底した撮影アングルの規制と検閲によって記録フィルムからカットされたが、検閲漏れを起こしたニュース・フィルムと、カットされたものの破棄されずに残った一部のフィルムによって確認されている。映像を見た神経科医や、晩年のヒトラーと接見した親衛隊大佐兼国防軍軍医のエルンスト・ギュンター・シェンク教授はパーキンソン病と断定している。当時は治療法がなく、症状は確実に進み、肉体と思考能力を低下させていった。食事の際も震えはとまらず、右手も不自由になりしばしばスープをこぼしてシミがついた。 シュペーアの証言では、晩年には美術学生時代のノウハウは失われ、対面した際地図に直線を引くつもりが線は次第に曲がっていった。署名も判読することができなくなり、ボルマンに悪用されることになった。視力も著しく衰え、専用の通常より三倍も大きな文字で打たれた書類ですら大きな虫眼鏡で目を通さなければならなかった。 運動不足を心配した医者に「私にとっての最大のスポーツは演説だ」と反論したことがある。事実あまりにも激しい熱弁を振るった後の彼の体重は数kgも減少していた。また、第一次大戦時の負傷、ミュンヘン一揆の際肩を脱臼していたため、激しいスポーツは出来なかった。 対人関係 [編集]
パレスチナの指導者のハーッジ・アミーン・フサイニーと会見するヒトラー(1941年) ヒトラーは対人コミュニケーションにいささか問題があったようで、シュペーアによれば「彼は気取らないリラックスした会話ができなかったようだ」と観察し、「不機嫌な時の言葉は学童とほぼ同じ程度だった」と証言した。粛清されたエルンスト・レームも「彼は批判されるのが嫌いで、党内で彼の提案が疑問視されるとすぐさまその場から消え、自分が通じていない話をするのも嫌がった」と記している。 学者や官僚などの高等教育を受けた知的エリートを「知識はあるが感性のない連中」と嫌うなど、自らの教育水準(中等教育の途中放棄)にコンプレックスを抱いていた事が複数の人物から証言されている。青年期に図書館で書物を読み漁って独学に励んだり、後年にも専門的な議論へ必要以上に口を挟みたがった。地政学を提唱した学者のカール・ハウスホーファーは自身の理論を積極的に引用していたヒトラーと面会したが、「正規の教育を受けた者に対して、半独学者特有の不信感を抱いている」とする感想を残している。[120]。独学で学んだ知識については確かにある程度は博識なものの、独学者にありがちな偏った知識や表面的な理解のみという部分があり、先のハウスホーファーも「地政学を全く理解できていなかった」と指摘している。 こうしたヒトラーを特徴付ける劣等感は学識だけではなく、軍歴においてもそうであった。軍隊生活の最終階級が低かったため、元帥であるヒンデンブルク大統領、現役軍人においてもゲルト・フォン・ルントシュテットやエーリッヒ・フォン・マンシュタインら国防軍将官からは「ボヘミアの伍長」としばしば蔑視されていた。逆にヒトラーのお気に入りの軍人は、ドイツが攻勢であった大戦前半は、華々しい攻勢作戦を指揮したロンメル、エーリッヒ・フォン・マンシュタイン、ハインツ・グデーリアンらであったが、守勢に立たされて以降は、頑強な守備作戦の指揮に定評のあった、ヴァルター・モーデル、フェルディナント・シェルナーらがこれに代わった。また、ゲルト・フォン・ルントシュテット元帥はその旧プロイセン軍人風の威厳が好まれて、何度も解任されてはまた重要なポストに再起用された。 社会階級的にもいわゆる貴族階級やユンカーなどの上流階級を憎み、演説では自分が「プロレタリアート(労働者階級)」である事を強調した。この事は党内で家柄ではなく生物学的な条件で選抜した親衛隊を指導層に置いたり、帝政ドイツ時代の皇帝ヴィルヘルム2世の会見要請に冷淡な態度で接するなどの姿勢に現れている。プロシア軍時代からの伝統を引き継ぐ国防軍において、ユンカーとの対立は上記の経緯と共に軍上層部との対立を生んだ。戦争中には参謀本部に対する不信をあらわにして何度も参謀総長を更迭した。更に平民出身者が多数を占める親衛隊の武装部門(武装親衛隊)を巨大化させ、国防軍上層部から党へと軍権力を分散させようとした。大戦末期にはヒトラー暗殺計画の関係者に多くのユンカーが加わり、ヒトラーの側も敗戦の責任をユンカーが多数を占める陸軍参謀本部が原因としている。 同時代の政治家では政界入りを志してから政権獲得まで、イタリアのベニート・ムッソリーニに心酔に近い感情を抱いていた事で知られている。豊富な学識から新しい政治思想「ファシズム」を理論化し、政治家としてもイタリアでの独裁権獲得と経済立て直しに成功していたムッソリーニをヒトラーは自らの手本としていた。バイエルン時代には自らが設計した党本部の執務室にフリードリヒ大王の絵画と共に、ムッソリーニの胸像を掲げていたという。だがムッソリーニの側はヒトラーを学の無い新参者と見下している向きがあり、「私は二流国の一流指導者だが、彼は一流国の二流指導者だ」と皮肉る発言をしている。ヒトラーと初会談の席を設けられた時もヒトラーを「道化者」と酷評している。しかし第二次世界大戦勃発後は目覚しい圧勝を重ねるドイツに対して、次第にイタリアの発言権は弱まっていった。これに従いヒトラーとムッソリーニの間柄も移り変わり、クーデターでムッソリーニが失脚すると、立場は完全に逆転した。
設計図に手を入れるヒトラーとシュペーア(1934年) ヒトラーは「自分の本質は政治家ではなく芸術家である」と信じており、気に入った芸術家(特に建築家)に対しては敬意を持って接した。閣僚陣では建築家でもある軍需相アルベルト・シュペーアへの態度が格別で、シュペーアと建築の話をしだすと何時間でも熱中し、その間は政治的決裁はすべて後回しにされて側近を困らせた。ナチ党唯一の知識人を自認していた宣伝相ヨーゼフ・ゲッベルスも、ヒトラーとの話の中には、芸術の話題をちりばめてヒトラーを楽しませることに心を砕いた。 ただし芸術的な感性はかつてウィーン美術アカデミー受験に再三失敗していた事からも明らかな様に先進的とは言いがたく、また古典主義者としても洗練されてはいなかった。ナチ政権時代の芸術の多くは映画など近代的な分野での成功が多く、また工業デザインは生産性に適したモダンデザインが採用されており、必ずしもヒトラーの好みが反映されていない分野に集中した。逆にヒトラーが新古典主義様式の復活を謳って推進した絵画や彫刻などは殆ど名が残らなかった。現代における古典主義の再評価の流れにおいてすら、これらの粗悪な模倣品が顧みられる事はあまりない。むしろ退廃芸術展やバウハウスの強制閉鎖などドイツにおける芸術の自由を押し留める行為を繰り広げた。 側近達とのピクニックや散歩を好み、戦局がかなり悪化してからもティータイムを取ることを欠かさなかった。 女性関係 [編集] ヒトラーは死の直前まで結婚しなかったが、ヒトラーが紳士であったことに加え、「結婚すれば多くの婦人票を失うことになる」[121]と考えていたためだという。 ヒトラーの女性の好みは単純明快で、ふくよかな丸顔と脚線美を持つ女性を美人とみなした。姪のゲリ・ラウバルには通常の叔父と姪の関係を超えた愛情を注ぎ、近親相姦関係にあったという説も唱えられている。しかしゲリは1931年に自殺し、ヒトラーは大きな衝撃を受けた。 ヒトラーからアプローチをうけたと称する女性や、ユニティ・ヴァルキリー・ミットフォード(en)やヴィニフレート・ワーグナーなど噂になった女性も少なからず存在している。中でもヴィニフレートは、ワーグナーの息子ジークフリートの未亡人であり、ワグネリアンとして有名であったヒトラーの強い後援を受けていたため、彼女の主宰するバイロイト音楽祭は国家行事化していた。当時もヒトラーとヴィニフレートの結婚の噂が何度も流れている。 しかし、確実にヒトラーと恋人関係になったといえるのは最期を共にしたエヴァ(エーファ)・ブラウンのみである。
ベルクホーフにて、エヴァ・ブラウンとヒトラー、愛犬ブロンディ(1942年6月14日) エヴァ・ブラウンとヒトラーが知り合ったのは1927年10月はじめのことで、ナチ党専属写真師ハインリヒ・ホフマンの写真館に勤めるエヴァに魅かれたヒトラーが食事や映画に誘うようになったという。 ヒトラーは秘書のクリスタ・シュレーダー(en:Christa Schroeder)に「エヴァは好ましい女性だ。しかし、私の生涯で本当に情熱をかき立てさせられたのは、ゲリだけだ。エヴァとの結婚は考えられない。生涯を結びつけることができる女性は、ただ一人、ゲリだけだった。」[121]と語るなど、エヴァとの結婚は考えていなかった。日陰の女として生きるエヴァの心身は疲れ果て、1932年11月1日エヴァはピストル自殺を図ったが未遂に終わり、このとき自殺に失敗したエヴァが呼んだ医師は写真師ホフマンの義弟だったためにこのスキャンダルは内密におさまった。一般の病院に連絡しなかったという配慮にヒトラーはいたく感動し、以後二人の関係はいっそう深まった。しかし首相として多忙となったヒトラーの愛情を疑い、1935年5月28日にもう一度自殺未遂を行っている。その後エヴァはオーバーザルツベルクのベルクホーフの女主人となり、ヒトラーを待つ生活を続けることになる。 1945年に戦局が悪化してベルリンの陥落が間近に迫った時、エヴァはヒトラーの反対を押し切り、ベルリンの総統地下壕にやって来た。ヒトラーは彼女に報いるため4月29日に結婚し、正式な夫婦となった。エヴァは周囲の人々に、とうとう結婚できた自分の幸せを喜び、「可哀そうなアドルフ、彼は世界中に裏切られたけれど私だけはそばにいてあげたい」と語ったという。翌日、ヒトラー夫妻は自殺した。
ゲッベルスの子供とヒトラー(1933年8月) ヒトラーは身近な女性や子供に対しては親切で寛容であったという。秘書や使用人のミスに怒声を上げた事もなく、専属の調理婦には常に敬意をもって接していた。恰幅の良い女性に弱かったという証言もある。この傾向は敗戦が近づくにつれ顕著になっていった。個人的に接した子供たちからは「アディおじさん」と呼ばれて親しまれ、ヒトラー自身も子供を可愛がった。たとえば、宣伝相ゲッベルスに対しては常に、彼とマグダ夫人との間に生まれた6人の子供の近況を話すように求めたという。 しかし、エヴァの前で「インテリは単純な愚かな女をめとるほうがいい」と語るほど[122]女性の知性を信頼していなかったヒトラーは、女性が政治に関与することは認めていなかった。「女性の部屋にいて、政治的なことに干渉されるのはまっぴらだ」と公言していたこともあり、女性関係がヒトラーの政策に影響を与えることはほとんど無かった[123]。 愛好家としてのヒトラー [編集] 犬 [編集] ヒトラーが愛犬家であったことは有名である。側近に「犬は忠実で主を最後まで裏切らない」と常々語っていた。第一次世界大戦に従軍した時、戦場でテリア犬を拾い、「フクスル」と名付け、餌を与え芸を仕込むなど可愛がった。その後盗まれたとの説があるが、ヒトラー自身が語るところによると大戦中陣から出たフクスルを追ってヒトラーが飛び出した直後、陣に砲弾が直撃してヒトラーは助かったが、フクスルは死んだという。ヒトラーは後年、犬が命を賭して助けてくれたと語っている。 政治家に転身した後も、ヒトラーは数頭の犬を飼っている。大成した後のヒトラーの愛犬はアルザス犬の「ブロンディ」である。ブロンディは数匹の子犬を産み、ヒトラーの側近くで飼われ続けたが、自殺前の1945年4月末に自殺用の青酸カリの効能を確認するため薬殺された。 乗用車 [編集] ヒトラーは乗用車愛好家(カーマニア)でもあった。ナチスが弱小政党だった1920年代初頭にナチス党財政の金策に私財を投じて質素な生活を送っていた中で車に執着し、自分の資産で買える範囲として初めて購入した車が天蓋がない中古車であった(ただし、ヒトラー自身が車を運転をすることはなかった)。 1933年にヒトラーは首相時代に自動車設計者のフェルディナント・ポルシェがナチスに送った高性能小型大衆車構想に興味を示して、ポルシェと会談を行った。その後に、ベルリン自動車ショーの席上でアウトバーン建設と共に、国民車構想計画を打ち出して具現化が進む。しかし、ヒトラーはポルシェに対して国民車について低価格、頑丈性、低燃費、高速度、空冷など条件を突きつけたことで難航する(もっとも、ヒトラーの条件は価格を除けばポルシェの目指していた国民車コンセプトに多く合致していた)。しかし1938年には最終プロトタイプが完成し、1939年に工場建設も終了目前になり量産化目前になったが、第二次世界大戦勃発によって軍用車生産が優先となったため、この計画による大衆車生産が中止となった。しかし、この大衆車構想は戦争の中でも工業基盤が残り、最終プロトタイプは1945年に戦争が終了した後でフォルクスワーゲン・ビートルとなってドイツの国民車として浸透した。ビートルは2003年に生産終了となるまで65年の長期にわたって生産させ続ける伝説的大衆車となった。なお、ヒトラーがフォルクスワーゲンの試作車に乗っている写真が存在する。 競馬 [編集] ヒトラーが並外れた競馬好きであったことは知る人ぞ知る事実。競馬に熱を入れていたのはナチ党結成から政権を握るまでの間であるものの、彼が最期の直前まで軽種馬の血統改良を行っていたほどだった。ベルリンにあるホッペガルテン競馬場で、ヒトラーは自ら馬主となって、自分の馬を応援する姿がよく見られたと言う。政権を執ってから多忙になったヒトラーは、競馬場に行く事ができなかった代わりに、サラブレッドの血統改良に乗り出し、ヒトラーはトラケーネンファームと言う1つの町位の大きさの大牧場を作ると、すぐさま300頭の肌馬(繁殖牝馬)に様々な種牡馬を配合し、サラブレッドの改良に力を注いでいる。この記録は、ヒトラーが残した競馬史における貴重な資料でもある。 この試験でヒトラーはドイツに世界的な種牡馬がいない事に悩んだ末、ナチス・ドイツ軍が侵略した国から様々な種牡馬をトラケーネンファームに送り込んだ。この時の最大のターゲットとなったのはフランスで、フランスの至宝的名馬・ファリスをはじめ、多くの名種牡馬をドイツに運び込んだ。その際、ヒトラーはこれら種牡馬を重要美術品と位置付け、ヒトラーはフランスの美術品を彼の居城・ノイシュバンシュタイン城に集めた事は有名だが、サラブレッドを芸術品と認めた事も同じ発想からと思われる。 1945年4月30日にヒトラーは愛妻・エヴァ・ブラウンと共に自決するが、彼が亡き後にナチス後任者になったカール・デーニッツは、多くの美術品同様に、種牡馬達も美術品と同格に扱い、フランス等に送り返す際に専任将校と小隊を置くほど周知徹底した[124]。 そしてヒトラー死後ちょうど50年後の1995年、東京競馬場で行われた第15回ジャパンカップで、ジャパンカップ史上初のドイツ産馬のランドが6番人気ながらジャパンカップを制するのだが、このランドの血統を紐解いていくと、かつてヒトラーのトラケーネンファームでの軽種馬育種である事が証明され、ヒトラーの長年の夢が半世紀を過ぎて競馬界に栄光を残した[125]。 ディズニー [編集] 政治家になる前、画家を目指していたヒトラーはディズニー作品のファンであった事は余り知られていない。政治家になった時も国税を遣い、「ディズニーを倒せ」とばかり国営アニメーションスタジオも立ち上げている。2008年2月23日付けの英テレグラフ紙の記事には、ヒトラーが描いたとされるディズニーキャラクターの水彩画4点がノルウェー北部の戦争博物館で発見される。この水彩画は1937年公開の『白雪姫』のキャラクターをスケッチしたもので、同館長はドイツのオークションで300ドルで落札。スケッチの一つには「A.H.」のイニシャルが明記されていた。 逸話 [編集]
生存説 [編集] ヒトラーの遺体が西側諸国に公式に確認されなかった上、終戦直前から戦後にかけて、アドルフ・アイヒマンなどの多くのナチス高官がUボートを使用したり、バチカンなどの協力を受け、イタリアやスペイン、北欧を経由してアルゼンチンやチリなどの中南米の友好国などに逃亡したため、ヒトラーも同じように逃亡したという説が戦後まことしやかに囁かれるようになった。その上、副官のオットー・ギュンシェやリンゲらをはじめとするヒトラーの遺体を処分した腹心たちの証言がそれぞれ「銃で自殺した」「青酸カリを飲んだ」「安楽死」とまったく異なることも噂に火をつけた。戦後アルゼンチンで降伏した潜水艦「U977」(de:U 977)のハインツ・シェッファー(Heinz Schäffer)艦長は、ヒトラーをどこに運んだかを尋問されたことや、当時の新聞でのいい加減な生存説の報道ぶりを自伝の戦記に書き残している。アメリカやイギリスなどの西側諸国もこの可能性を本気で探ったものの、後に正式に否定されている。 FBIは、ヒトラー自殺に関する捜査を1956年で終了している。 それらの噂には、「まだ戦争を続けていた同盟国日本にUボートで亡命した」という説や、「アルゼンチン経由で戦前に南極に作られた探検基地まで逃げた」という突飛な説、果ては「ヒトラーはずっと生きていて、つい最近心臓発作のため102歳で死去した」という報道(1992年。フロリダ州で発行されているタブロイド新聞より)まで現れた。その他、東機関(TO諜報機関とも)のアンヘル・アルカサール・デ・ベラスコの証言の中に、「ヒトラーは自殺せず、ボルマンに連れられて逃亡した」というものもあるが、信憑性はきわめて低い。この生存説を主題にした作品の1つに落合信彦の『20世紀最後の真実』がある。 俗説のひとつに、「晩年のスターリンが『ヒトラーが生存しているのではないか』といううわさが立つたびに、自宅の裏庭から木箱を掘り起こし中の頭蓋骨を確認して埋め戻した」というエピソードがある。2009年9月29日、アメリカのコネチカット大学の考古学者ニック・ベラントーニ(Nick Bellantoni)が、それまでヒトラーのものであるとされてきた頭蓋骨を鑑定し、頭蓋骨が女性としての特徴を示したためにDNA鑑定を行ったところ、ヒトラーのものではなく非常に若い女性の頭蓋骨であると結論づけられている(en:MysteryQuest#Notable case findings参照)[126][127][128]。また、ヒトラーが自殺したときに座っていたソファーの断片に付着した血痕からDNAを抽出することに成功したが、アメリカ在住のヒトラーの近親者(兄アロイス2世の子孫)から比較サンプルの提供を拒否され、同定に至っていない。ただし同年12月8日に先の報道についてロシア連邦保安庁(FSB)は現存している顎の骨をコネチカット大学が入手したことはないと否定しているとインタファクス通信で報道された[129][130]。 子供 [編集] ヒトラーが第一次世界大戦に従軍した際、部隊の駐屯地であったフランス北部サン=カンタンで現地の女性と親しい関係になり、男の子が生まれたという説がある。 この説は1978年6月にミュンヘン現代史研究所のヴェルナー・マーザー(de:Werner Maser)が発表した。マーザーはその子供を、現地でドイツ兵の私生児として知られていたジャン=マリー・ロレ(Jean-Marie Loret)と推定した。ロレは母親が死ぬ際に父親がヒトラーであると語ったと証言していた。ロレの証言によると、ロレが生まれた時にはヒトラーは目の負傷により後方に送られていたため、ロレの存在は彼に伝えられなかったとしている。また、ロレは第二次世界大戦時には対独レジスタンスに加わり、ドイツ軍に逮捕されたこともあるが出自への同情からか釈放され、後は経済的支援を受けたと主張していた。 このニュースは世界中で話題となり、日本にもTBSのテレビ番組に出演するためにロレが訪れている。同年TBSブリタニカから『ヒトラー・ある息子の父親』という書籍も発売されている。 しかし、ロレの叔母はロレの母親の相手であるドイツ兵はヒトラーではないと主張しており、ロレの母親が『ドイツ人の息子』と言っただけであるのに『ヒトラー』と勘違いしたとしている。その他多くの矛盾点も見つかり、マーザーの説を支持する者は少数派となった。1979年にアシャッフェンブルクで開かれた歴史討論会においてこの問題が議論された際、マーザーは当初は静かだったが、突然「ヒトラーに非嫡出子がいたかどうかが問題」だと宣言し、以降の議論において完全に沈黙した。マーザーは経済的な理由でロレとも衝突し、以降ロレに言及することは無くなった。ロレはその後自叙伝を出したが、1985年に死亡した。 2008年になりベルギーのジャーナリストジャン=ポール・ムルダー(nl:Jean-Paul_Mulders)はヒトラーの血縁者のDNA、及びロレのDNAを専門機関に送り比較検査させた。その結果として「ロレはヒトラーの子供ではない」という結論を発表している。 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜引用終わり〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 |